第2話 髪留めと悪魔の笑み
すぐさま冷えた空気が廊下から吹き込んでくる。余り長い間放っておくと湿らせた寝ぐせが凍ってしまいそうだ。それではここまでの苦労も完璧に水の泡である。
「あらっ、イリス様?」
人が集まる塔とは逆の方向へ歩いていくと、渡り廊下の方から一人の従者が声をかけてきた。
目を向けると、それは最近、城勤めを始めたばかりの見習い・サスファであった。多少ドジっぽいところはあるものの、仕事の覚えは早いと評判で、自称「イリスの大ファン」でもある。
「どうかしました?」
「ちょっと来てくれ」
髪は女の命だ。彼女ならなんとかしてくれるかもしれない。俺は、二人を連れて近くの女性用の化粧室に飛び込んだ。
入ってすぐの細長い空間には、手洗い場の他にも簡素な鏡台がずらりと並べられているが、すでに皆が働き始めたこの時間帯は幸いにもがらんとしていた。
「えっ、えっ。フォルトさん?」
「寝ぐせ、ですか」
理由を聞いたサスファが櫛を取り出したのを見て、俺は慌てて制す。それは先程散々試したのだ。従者が持ち歩くようなお安い櫛では歯も立たないだろう。
「ついでに言うと、クリームもスプレーも試した。これでも大分マシになった方なんだ。俺にはもうお手上げ。頼む、なんとかしてくれないか」
「わ、わかりました」
サスファは
「……髪飾りか?」
「きっとイリス様に似合いますよ」
それは桃色の大きな花の形をした髪飾りだった。決して高級品には見えないが、心のこもった品なのか、色合いや形に温かみが感じられる。
「さ、付けますね」
ハネた部分にパチリとはめれば出来上がり。柔らかい雰囲気がイリスの銀の髪に良く映えて、可愛らしさを引き立たせていた。
「成程な」
主人に聞こえないほどの小声で呟いた。要するに、髪飾りで寝ぐせを隠したわけだ。試行錯誤して直すより余程効率的で、かつ、男には思い付きにくい方法かもしれない。
「さ、いかがですか?」
周囲がどう言おうと、結局大事なのは本人の気持ちである。サスファがにこりと微笑みながら声をかけると、鏡を見ていたイリスが振り向き、訊ねてきた。
「似合うかな」
「えぇ、とってもお似合いですよ」
この瞬間を逃さず、賞でも取れそうなスマイルを全力で発動する。すると、不安げだった幼女の口元がふっと
「えへへ……」
「慣れてるんだな」
「じ、実は私も毎朝寝ぐせが酷くて。あはは」
折角見直したと思ったのも束の間だ。少々気まずい空気は流れたものの、それが妙におかしくもあった。
とにかく、今日の第一関門はこれでクリアとばかりに胸をなで下ろした瞬間、化粧室の扉がバーンと勢いよく開かれた。全員がとび跳ねるほど驚き、そちらへと目を奪われる。
ぎょっとしたのは、大きな音のためだけではなかった。女性用の化粧室になんの
「お前ら、何やってんだ?」
男が部屋を覗き込むと、開いた扉の隙間からすかさず寒い外気が吹き込んできた。寝癖を直すのに必死で忘れていた低温が背筋を震わせる。
紫のマントに包んだその身は俺よりやや低く、外見だけならまだ少年といっても良い。しかし、イリスと同じ銀糸の髪と紅い瞳が子どもと
「お兄ちゃん!」
「おう」
イリスが嬉しそうな声を上げて、男にぱっと飛びついた。兄と呼ばれた方も応じて妹の頭を優しく撫でてやる。
「る、ルーシュ様。あの、その」
「イリス様の髪の毛を整えてたんだよ」
オドオドした様子のサスファを横目に、「こっちはそれが仕事でね」とぞんざいに言い放つ。確かに彼――ルーシュは我が主の兄には違いないのだが、いちいち馬鹿正直に構っていては体が保たない相手なのだ。
「ふ~ん。まぁ、いいや」
ルーシュも慣れたもので、一従者に過ぎない者の不敬な態度にも動じることはない。あくまでマイペースに、何やら面白いことを思い出したような笑みを浮かべた。
「そういや、そろそろ食事の時間なんだけど?」
ふいの言葉にサスファがぎくりと体を強張らせる。自然とルーシュの口元からのぞく鋭い牙に目が吸い寄せられる。「食事」とは、要するに血を寄越せと言っているのだった。
「なら、俺のところなんかに来ても意味無いだろ」
俺は冷たい声音で即答する。現当主の
「……なんだよ」
しかし、どうにも嫌な予感がして睨み返すと、ルーシュがニヤリと笑い返してきた。不気味だ。吸血鬼だという事実を差し引いても、これは完全に悪い笑顔だと本能が告げていた。
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