第二章
第7話 旅の用意
人の気配がして飛び起きる。
ベッドにもたれて寝てしまったようだ。会計士のグリフレットが病室に入ってきた。
「家まで、お送りしましょう」
そう言われて時計を見た。もう朝の六時。エルウィンは、変わらず眠り続けている。
「今日このまま家に運びます」
グリフレットの言葉に、びっくりして聞きなおす。
「家に? 彼に家族はいるの?」
「さあ、そこまでは」
わたしは思わずイスにもたれ、腕を組んだ。どうしたらいいのだろう。
「ついてこられますか?」
グリフレットが、くすりと笑ったのでイラっとした。
「行くわ!」
反射的に答えてしまった。でも、ほうってもおけない。
わたしはベッドから離れ、スマホを取りだした。誰にかけようか迷う。頼みを聞いてくれそうなのは、気のいい同僚チェンだ。電話口のチェンは少し鼻声だったが、二つ返事でオーケーしてくれた。
ふり返ると、グリフレットがバスタオルを持って立っていた。
「七時には出発します。バスルームを使いますか?」
この会計士の冷静さは、人をイライラさせる。
わたしはバスタオルを引ったくって、娘のモリーを起こしに行った。バスタオルがきちんと二枚ある用意の良さに、さらにイラっとする。
このイライラをモリーにぶつけないよう注意しよう。そう思いながらモリーを連れてシャワー室に入ったが、バスルームの広さにあきれて、イライラを忘れた。
七時きっかりに、グリフレットと医療タクシーのスタッフはやってきた。昨日と同じように、てきぱきとエルウィンをストレッチャーにうつす。
朝の病院は静まり返っていた。誰に挨拶するでもなく病院を出て、エルウィンは車に載せられた。わたしたちも車に乗り込む。
車が走りだすと、グリフレットが、またいやな笑みを浮かべて聞いてきた。
「少し長旅になりますが、平気ですか?」
「平気よねー」
グレフレットではなく、モリーにむかって言った。モリーはそれどころではなく、興味をむきだした目で医療タクシーの中をキョロキョロと見ている。
ストレッチャーに乗ったエルウィンは、やっぱり変わらず眠り続けていた。ほんとに大丈夫なのだろうか? 車に乗せて走りだしても起きる気配はない。まるでモリーが熟睡しているようだ。
それで思いだした! 保育園に連絡をする。
「・・・・・・モリー・リベラが休みと」
電話口の事務員は名前をメモしたようだった。男の事務員だ。なぜか男の事務員になると「モリーちゃん」とは言わない。
「お休みの理由は?」
「風邪を引いてしまって」
しまった。思わず言ってしまった。それを聞いたモリーの、おどろいた表情。前日にモリーを仮病を怒ったばかりでこれ。大失敗。
電話をすませ、窓の外を見る。車はすでに、わたしが知らない地域を走っていた。運転に自信がないので、あまり遠出をしたことはない。さらにしばらく走ると、小さな飛行場が見えてきた。まさかよね。
そのまさか。車は関係者用通路から、そのまま飛行場内へと侵入した。滑走路を横切って、小さなジェット機の下に止まる。
「わー、飛行機だー!」
はしゃぐモリーの横で、わたしは青ざめた。プラベートジェット? 嘘でしょ?
「いや、あの、これって」
何か言おうとしたが、無視された。グリフレットは飛行機に乗り込む。空港スタッフに案内されるままに、わたしとモリーもタラップをあがった。ストレッチャーに乗せられたエルウィンは、昇降機で運ばれている。うしろの貨物用扉から入れるようだ。
ジェット機内に入ると、前方の座席に案内された。
座席というより部屋だった、むかい合わせの四人座席が一組だけ。ゆったり大きくて、イスと言うよりソファー。もはやこれは「空飛ぶリビングルーム」だわ。
誰かに色々と聞きたかったが、客室にはわたしとモリーだけ。うしろ側が区切られているのは、あっちに寝室があるのだろう。
ポーンと音がして、シートベルトのランプが点いた。あわててベルトを締める。窓側にすわっているモリーのベルトも締めた。この時に気がついた。この子、産まれてはじめての飛行機だ。モリーの手を取る。
「モリー、あのね」
ジェット機が動きだした。エンジンの轟音とともに、みるみる加速する。まずい!
「モリー、これからね」
機体がななめ上をむいた。思わず、ひじかけをにぎる。わたしも飛行機はひさびさだ!
「ママ、見てー!」
遠のく地面を見て、モリーがはしゃぐ。わたしは安心と、どっと疲れたのと両方だ。
ポーンと、今度はシートベルトのランプが消えた。それでも客室には誰もこない。しばらくすると、グリフレットが横を通った。
「ちょっと!」
グリフレットは、ふりむいた。
「なにか飲まれますか?」
そうじゃないでしょ。わたしは強く言い返すことにした。
「飛行機に乗るなら、そう言ってよ!」
「長旅と言いましたが?」
「たしかに言ったけど」
反論の言葉につまって、次に自分の服をつまんだ。
「着替えも、持ってないのよ!」
「では、服を買いに寄りましょう」
ダメだわ。怒っているのが伝わってない。あっ! と、わたしはひとつ気がついた。
「これ、国外に、むかってるんじゃないでしょうね?」
「もちろん国外ですが?」
気が遠くなった。がんばって現実に返ってくる。
「パスポート持ってきてないのよ! わたしも、この子も」
「まあ、それはなんとかなるでしょう」
グリフレットが立ち去ろうとする。
「ちょっと!」
「はい。なにか飲まれますか?」
もう、この男の細い眉毛を、全部、引っこ抜きたくなった。
「コーラ!」
その時、横から、モリーが大声をあげる。
「オレンジジュースにしましょう」
グリフレットが、にっこり笑う。子供には優しいらしい。次にあなたは? とばかりに、こっちを見る。わたしは深呼吸して、気を落ちつかせてから言った。
「ウォッカを少し。ストレートで」
コーヒーより、気つけ薬が必要だ。
そして待つほどでもなく、ウォッカとオレンジジュースが来た。
座席のまえにあるテーブルに置かれ、わたしはウォッカを一息であけた。
わたしの飲みっぷりに、グリフレットが目を丸くした。もう一杯? というジェスチャーをしたので、わたしは首をふる。
「なにもかも、わからないけど、わたしたちを連れてきて、どうするの?」
グリフレットは眉を寄せて考えた。いや、これは考えたフリだ。はじめて見た時は神経質そうな初老の男に見えたが、いまは人を食ったオジサンだ。
「そう。なぜ彼女たちを連れてきた?」
思わぬ声に、ふり返った。エルウィン!
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