最終話

 ぼくを世話する白衣の天使たちは今日もせわしなく動いてぼくは彼女らの用意する食事のまずさにうんざりしている。ここでは白衣の神が白衣の天使を使役してぼくたち世俗の人間を現世に送り返すべくいろいろと世話を焼いたりあるいは看取ったりするのだがぼくの症状といえばせいぜい足を骨折しているくらいで実際のところここに来る必要があったのかもわからないし世俗のなかでゆったりと過ごしていればよかったような気もするけど周りの声とか自分の興味などなどの要素は複雑に絡み合ってぼくをここに導いた。ぼくがこの場所にやってきたときにぼくの隣の寝床にいた白髪の老人はもう一ヶ月も経てばこの天界を卒業してさらに高い場所に移っていくのではないかと思われたのだけど意外や意外一週間くらいで家族に迎え入れて元気にここを去っていってもちろん最後の時を家族のもとで過ごすという決心をしたからだという可能性もあるけど見た目だけでいえばその老人はなかなか生命力に満ち溢れていたと思う。ここに来て三日くらいは周囲を囲むものの目新しさに倦むことも病むこともなくそれなりに楽しく過ごせていた気がするけど一ヶ月も経てばとにかく毎日退屈で退屈でたまらなくなってベッドサイドに備え付けの料金制テレビはバカみたいに高いしべつに自分が払うわけでもないから好きなだけ見たっていいんだけどときどき見舞いとお金を渡しにやってくる家族にやたらと愚痴られるので一日中テレビを付けっぱなしにするのもはばかられてきてさりとてすることもなく日は流れていく。ここに来て得た新しい発見といえば今まで毛嫌いしてきた朝の連続ドラマが意外とおもしろかったなんてことだけどこれも他に暇をつぶす手段がないからこそ仕方なくおもしろいと感じているのかもしれなくてどうしても心から楽しむことはできない。勉強なんてする気力もないしかといって遊び呆けるにはこの聖域はあまりに狭苦しいけど天国という場所は安穏とした態度をやさしく享受するなんらかの効能を備えているらしくてとくに危機感を覚えることもないから腐っていく我が身をぼくは俯瞰して見ている。

 一部屋に六人まで入室できるこの部屋の扉から近い二つのベッドはずっと空白で木組みがそのままむき出しに置かれていてどうしてここだけいつも空きなんだろう? と思うこともあるけどこの二つが埋まってしまうといよいよこの天界はそれだけで完成してしまってぼくたちがいつか戻らなければいけない場所のことを忘れてしまうかもしれないから二つの空白は案外と大事なものかもしれない。逆に埋まっているのは扉から左手側の最奥とその手前とそれから扉から右手側の真ん中だけでぼくはここに寝ている。以前いた白髪の老人はぼくの隣つまり右手側の最奥にずっといたらしいのだけど彼がここを去ってからいつもそこにはシーツだけ敷かれてぽっかり開きっぱなしにベッドは鎮座していて少しだけさびしい。ときどき来る家族や友人の見舞いを除いてあとは天使や神たちとしか話さない生活もずっと続いてくると退屈してくるのでぼくはぽつぽつと同室の患者たちと他愛もないことを話すようになる。右手の最奥つまり窓際に眠る池田さんは三二歳の印刷業につとめるサラリーマンで彼がどうしてここにやってきたのかはわからないけど右手を不自由そうにしている様子から見て脳血管疾患のたぐいなのかとは思うけどその重篤さのわりに家族や友人どころか同僚が見舞いに来ることもなく彼はいつも暇そうにしていたのでぼくが一番話したのはおそらく彼だろう。いつだか彼が話したかぎり結婚はしていないらしく家族とは縁が切れた状態のようでただひとつ心配なことといえば唯一の同居人である三歳になったばかりのトイプードルのことだけなようで近くのペットショップで預かってもらってはいるものの神経質な性格だから慣れない環境で大丈夫だろうかといつもその心配ばかりしていた。しかし仕事についてたずねると途端に端切れが悪くなりあまり詮索しないようにしていたのだけどたがいにだいぶ打ち解けてから明かしてくれた話によれば職場からは今月のうちに復職してくれなければ解雇となる旨を伝えられているらしく右手の不自由な状態で十分に仕事ができるかも怪しいし入院をきっかけにいまの仕事にモチベーションをさっぱり持っていない自分にも気づいたらしくいっそのこともう辞めてしまおうかとも言っていた。ただそれで心が決まっているわけでもなく仕事に動機なんてそもそも必要なのか世の中に心からやりがいのある仕事に打ち込めている人なんてどれだけいるのかそもそもやりたいことなんて自分にはないような気がすると本人は悩んでいるようで正社員として職に就いたことのないぼくからはアドバイスのしようもなかったけど話すことで考えが整理されたり気分が少しでも晴れるのならこちらの暇つぶしにもなるしいいかと思ってぼくの相づちを打つ能力はなかなかに向上する。池田さんの隣には水谷さんという五〇か六〇かはっきりとしないけどくたびれた男性がいて彼とはあまり話をせずに終わる。ただ一度池田さんとの雑談がぼくの骨折の話に及んで実は夏にスクーターの免許を取ったんですけど乗って二週間で事故っちゃってあははいやもう怖くて乗れないですねあはははなんて話していると突然隣から水谷さんが話しかけてきてそれからベスパの話だとか原付はそもそも原動機付自転車であって自転車なのだとか今の交通法は不十分なのだから事故を起こすような運転をするんじゃないだとか説教と講釈を垂れてきてでも今どき一六のガキが原付なんて珍しいなんて褒めてるのかよくわからないことも言われたりしてそれからときどき話すようになったからたぶん気に入ってくれたんだと思う。幾日か経って池田さんには退院の見通しが経ったようで今までずっと話していたのにそれからなぜかあまり話さなくなってしまってでも退院の間際には君もはやく治るといいねと言ってくれてぼくも一応おめでとうございますーなんて語尾を伸ばしてお祝いして別れる。気づくと水谷さんも退院していて最後に一言言葉を交わしたはずだけど何を話したかは覚えていない。こうしてぼく一人だけが部屋に残ってあまりの退屈さに窓から外を眺めていると担当医がやってきて退院の日程が伝えられて二日後に準備を終えて退室しようとするとちょうど入れ替わりで入室してきた同い年くらいの女の子になんだか見覚えがある気がして声をかけようかとも思ったけどやっぱり会釈だけして外に出る。

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さとりの娘 舞山いたる @Nanashi0415

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