第13話

 それは根を含めず幹から枝の先までだけを目測してもおおよそ一五〇メートルはありそうだった。天井のどこかで地上からの光が漏れているのか洞窟内はほのかに明るく葉と葉とで光を反射しあって大木には作り物めいた美しさがある。思わずため息のもれそうな光景に感じるものはめまい。「これは……」


 ぼくはその場に立ち尽くす。威厳さすら感じる光景は美しくあると同時に耐えがたい恐怖をぼくに与えた。まるで崇拝の対象である神を目の前にしたかのような恐怖。出会わないことを前提にした対象に出会ってしまったかのような異物感。これは見てはいけないものだとぼくは直感する。閉じ込めておかなければならない。これを正しく扱えるようにまで人間はまだ進化していない。発展途上のぼくたちの思想にこれは根を張っていてけれど地中深くに埋まったそれに人が気づくにはまだ人は生き足りない。

 大木をいままで封じていたぼくたちの立つこの空間は大木の葉の広がりに沿うように頂点から丸くカーブしながら形成された天井とそして葉の途切れる部分からほぼまっすぐに直下する岩壁によって出来上がっていた。先ほどまで感じていた息苦しさが薄れていることに気がついてぼくは深く呼吸する。肺に染み入る清浄な酸素はうすぼんやりと鈍化した思考を晴らして脳髄を機能させた。そして機能したがゆえにぼくは手を動かすことすらできない。呼吸を忘れる。まるで一ヶ月もここに立ち尽くしていたのだと思えるほど引き伸ばされた時間が過ぎてようやく帰ってきた自分とぼくは向き合う。純化したぼくの思考はあの大木と向き合って麻痺したように感覚を鈍らせた。薄れた現実感がそこにはあってあの大木の根元に行って目をつむり眠れたらそれはどんなに楽なことだろうとぼくは考えていた。もうこの洞窟の出口を探すこともなく前に進む必要もなく経路や脱出の糸口を探す必要もなくすべてを投げ捨ててただ大木に寄りかかる。しかしそこに現実はない。ぼくたちは生きてここを出なくてはならない。だけどその一見人間らしい答えにも間違っている可能性はあっていくら探したって出口は見つからないかもしれないしあの大木に身を任せるのが結局は正しかったという可能性は常に現実感に付随して存在する。だから割り切らなくてはいけない。あるいは責任を持たなければいけない。自分の命とそして櫟の命に対して決断しなければいけない。「では、あなたはどうしたいんですか?」と櫟は問う。ぼくは周辺を一望するが他に出口らしきものはない。「登るんだ」とぼくは答える。「他に仕様がない」


「そうですか」と櫟は答えてぼくを向く。


 靴は履いていたほうがいいのか脱いだほうがいいのか迷ったすえ結局ぼくは何かを捨てることもなく持つこともなくそのままの格好で向かう。「きっと人を呼んでくるから」近づくにつれて増える落ち葉はやわらかに足をさまたげてうっとうしい。頂上を見上げるためぼくは立ち止まって首をかしげるけれどもう頂上は葉や枝にさえぎられて見えず目に入るのはかすかな光だけだった。ぼくは枝に手をかける。子どものころにやった木登りの要領で手足をはわせて力を込める。枝は先端だけはほぼ直角に地面に向かっているもののそこを超えればあとはゆるやかに中央の幹までしなっている。しかしまずはここを登らなければ始まらない。枝は枝と呼ぶにはあまりに巨大で公園の低木よりよほど太さがあったから折れるのではないかという心配はするだけ無駄なものだろうと思われた。息を止める。表面に足をかけるというよりは蹴るようにしてぼくは小学生以来に木登りを始めた。すぐに足は大木の表面を滑って地面に落ちようとする。それよりはやくぼくは両手を伸ばし太枝に抱きつくようにして姿勢を安定させようと試みる。それでもまだ釣り合いのとれず落下せんとする身体をぼくは右足裏を枝に押しつけて踏みとどまらせた。一息つく。最小限の力のみで身体を支えて体力を回復させる。いまだ宙にぶらりと浮いた左足を持ちあげてまたひとつ高いところに登る。また登る。動作がひとつ終わるごとにぼくは深く呼吸する。ひとつひとつの行動にぼくは責任を与える。この失敗がすべての失敗になるんだと言い聞かせる。右足を持ちあげる。左足を持ちあげる。そしてぼくは気がつくと勾配のゆるやかなところに到着している。下を見てもせいぜい地面から五メートルくらいしか離れていないからあまり恐怖は感じない。だけどもう葉に隠れて櫟の姿は見えない。ぼくは腹ばいになって枝を進み大木の中心に向かう。風もなにもないのが幸いして慎重に進めば転落の心配はなさそうなことに安心しそうになってそれから気を入れ直す。気づけばもう地上から十メートルは離れている。落ちれば最悪即死するだろうし助けが来る望みのないこの状況にあってはたとえ骨折であろうと怪我は死に直結するだろう。下を見ることをやめてぼくは上だけを見る。いま地上十メートルの位置にいるとしてぼくはあと何メートル高いところにたどり着けば休めるのだろう。さっき目測した全長を思い出そうとしてけれど思い出せずぼくはあきらめる。それでよかったのかもしれない。ぼくはただ上を目指す。ただ上と前だけを目指して進み続けるひたむきがいつか実を結ぶのだと信じ込む。視界がはっきりとしない。まるで目に汗でも入ったように目を開き続けることが難しくなる。ちかちかと点滅する明かりが視界の端を泳いでいる気がしてぼくはそちらに目を向けたい衝動に満たされる。だけどもうぼくにはちっぽけな愚直さしか残っていなくてだから前に進む。死にたくないとぼくは思う。死は停止なのだと誰が決めたわけでもなく頭からぼくは信じている。停滞した生と死の違いはぼくにはわからなくてこの大木の根もとで目を閉じることと死には同じ意味があるような気がしてならなかった。だからぼくはこの大木を登っているのだろうか。死にたくないのは確かなのだと思う。でも生きているというだけの停滞を望んでいないのだとはっきりと言い切ることはあまりにも難しい。ぼくはいますぐこの大木を降りたいと願っているしそれはきっと不幸なことではない。最後の時間を櫟と死んだように眠れるのならばそれでいいのかもしれないとぼくは思う。好きな人と長く眠っていられればそれ以上のものはない。とにかくぼくは眠っていたい。眠りから目覚めたぼくたちがまた眠りの中に終わっていくからって不自然なことはなにもない。どれだけの時間がたったのだろう。目の前にぼくは大木の幹を見てようやく一本の太枝を末端から根本までやって来れたのだと気づく。そこにはまた高くへと伸びた別の道もあってぼくは休むことなくまだ進もうと思う。それからぼくはちょうど人ひとりの潜りこめそうな洞があることを確認して眠くなる。洞に住む女の子が顔を出して休むようにぼくをうながすのでぼくは眠る。ぼくが眠る間も女の子はずっとしゃべっていてうるさい。

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