第12話

 櫟も同じく黙っている。彼女にしてみれば返答のない靴底にいくら話しかけたって仕方がない。

 どこからか鼻歌が聞こえてくる。覚えのないメロディはどこからか空洞内に侵入して身体のなかに満ちてくるようだった。そのメロディに歌詞はない。あるのはただ音階それだけだった。メロディがメロディそれ自体で完結してくれればいいとぼくは思う。曲を構成する要素はたがいに絡まりあって意味を拡張させて曲を曲らしくするけどあまりに意味が多すぎると疲れる。ただひとつの意味だけで済ませてしまうような息抜きだって必要なはずだ。文字は文字で言葉は言葉で音は音と捉えたっていい。メロディと歌詞の組み合わせはたくさんの意味を生み出すけどでも時にあまりに複雑になりすぎて真実をぼかしすぎることもある気がする。意味を取り違えさせることや意味をつかめなくすることが目的なのであればそれは構わないけどときには明白さだってほしい。

 ぼくはその鼻歌を口ずさむ。ひどく単調なメロディは二音階以上を飛ばすことすらなくドはレシにレはドミにミはレファにというように隣人だけを訪ねて回った。子供がふざけてピアノに触って奏でたような旋律は単調で誰にでも理解できてだからこそ良いものなのだろう。


「なんだろう」と櫟はメロディに気づいて言う。


 彼女はこのメロディをどのように聴いているのだろう。ぼくは思う。ぼくがこのメロディから聴き取ったことと彼女の聴き取ったことが同じものであればいい。ぼくは願う。もしもそうであれば幸運だ。だけど違ったら? 彼女が聴いているものがドからミに飛ぶようなメロディだったとしてぼくはどうすればいいのだろう。いやどうもすることはできない。だれどそれは不幸じゃないか。口先だけで共感し合うことはできるかもしれない。おおまかなところが似通っているのなら細部は無視してもいいのかもしれない。だけどそれでは本当に共感しているとは言えないんじゃないか? いやそもそもぼくたちに共感することなんてできないのだろう。だって櫟はどうしようもなく櫟でぼくじゃない。

 そのとおり。くだらない。

 空洞は永遠に続くようだった。もう何分ほどこうして前進しているだろうか。荒れた岩肌にこすれて手のひらが痛い。

 ぼくは鼻歌を口ずさむのをやめる。余計な体力を使いたくはなかった。


「やめちゃうんですか」と後方から声が投げられる。


 ぼくは答える。「うん……疲れるし……気分ももうよくなったから」


「でも、まだ怖いんじゃないですか」

「大丈夫だよ」

「本当に?」

「何度聞かれたって、ぼくは大丈夫って答えるよ」

「正直に言ったって、損するわけじゃないのに」

「得もしないんだから、とっとと進んではやくここから出たほうがいい」


 会話の打ち切りを示すように空洞の中をぼくは急いで這い進む。それからまもなくのうちに水のせせらぎを聞いてぼくはスマホのライトを前面に投げた。もう八メートルも進んだところに別の空間につながる出口が見える。ぼくは櫟に合図すると出口の手前まで進んでしっかりと足場があることを確認してから身体を外に投げた。背中全体に衝撃を感じて思わず声を出しそうになるのを制しながらぼくは立ち上がって櫟に手を貸す。


「ありがとうございます」と櫟は危なげなく地面に足をついてから言う。「ここは……」


 櫟が天井を見渡すのを見てそういえばまだこの新しい空間内をしっかりと確認していなかったと気付きぼくは後ろを振り返って天井を見上げた。 


「なんだ……これ……」


 そこにぼくが見たのは逆さまの大地から地に向けて伸びた大木だった。

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