第11話
足元を照らしながらぼくたちは進む。履きつぶしたスニーカーは小石の散乱する地面を歩くのに割と向いていた。もちろんそれはサンダルやなにかと比較しての話だ。櫟が履いているのはぼくが小さい頃に買ったけれど結局一度も履かなかった押し入れの靴だったから彼女が靴ずれを起こさないかは心配だがサンダルよりはよっぽどましに違いなかった。足底に粒上の石を感じながらぼくたちは歩く。身体はわりに軽いけどいまばかりはその軽さが不安の種を育てていた。ぼくたちの装備はせいぜいスマホくらいのものだったし食料はなにひとつとして持っていなかったからだ。ヘッドライトはもちろんペンライトや懐中電灯すらなく光源もスマホに依存している。ぼくと櫟の二台分あるとはいえそう長くは続かないだろう。おまけにぼくたちは薄着で洞窟のなかは真冬のように冷たく刻一刻と体力は失われていく。運良く出口が見つからないかぎりぼくたちはたぶん三日で死ぬ。二日かもしれない。せめて一日よりは長く保たせたいものだ。
「悲観的ですね」と櫟が言う。
「現実的だろ」
「そんなことないですよ、こういうのはたいていどちらかは助かるものじゃないですか? ちょっとハードな展開なら片方くらいは死ぬかもしれないですけど」
冗談じゃない。「ぬるめで頼むよ」
「神様に頼むことですね」
「この世界に神なんていない」
「でも自分のなかに神を見出すことはできます」と櫟は言う。
「神は死ぬんだ」
「わたしは死にたくありません。ほら、もっと急ぎましょう」
ぼくと櫟は軽口を叩きあう。だけどこんなことができるのもまだ体力があるいまのうちだけだ。来たるべき先のことを想像してぼくは暗澹たる気持ちに襲われる。真面目な話死にたくはない。櫟の言うとおり先を急いだほうがいいだろう。
ところでぼくと櫟はこんなに打ち解けて話すような間柄だっただろうか。
「そういえばさっきからだんだん明るくなってきてないか」とぼくは気づく。目覚めてからしばらくスマホのライトから外の範囲はまったくの暗闇だったはずだ。しかしいまは光の投げられたあたり以外も闇が薄まって肉眼でその様子が確認できるほどになっている。長い時間をかけて積み重なった石灰岩によって形作られた岩棚。ぼくたちの頭上から人間一人分くらいの空間を残す天井。来た道を振り返ってみると明らかに奥のほうは光量が少ない。
「ライト、切りますか?」と櫟が言う。ぼくがうなずくと彼女はライトを切ってスマホをポケットにしまった。
「進んでみよう」
壁に手を付きながら光源を目指して先導する。ある程度明るくなったとはいえライトを消したぶんだけ足元は見えづらくなった。不意にくぼみや段差に足を取られて負傷しては事だ。おそるおそるとぼくたちは薄暗い闇の中をゆく。
突き当たりまでいってぼくたちは光の正体を知る。
だいぶ高さに余裕のあった天井は突き当りに向かうにつれてぼくたちとの距離を狭めていった。といっても天井の位置が下がっていったのではなくぼくたちの歩く道がしだいに隆起していったからというのが正しい。天井は途中で途切れて突き当りの岩棚とのあいだに裂け目を残している。光はそこから漏れ出たものだった。見上げるとこの裂け目は目測でおよそ百メートル先の地上まで続いているようではるか頭上には晴れた空が見える。外は真昼間のようだった。
「登れないのかな」櫟がぼくの横に並んで上を見ながら言う。
ぼくは答える。「道具もないし、無理じゃないかな」
目の前の裂け目には人一人が通れそうなくらいの間隔がある。もし地上までその間隔が変わらなければ両面に身体を押し付けながら登攀することも不可能ではないのかもしれないけど地上に向かうにつれて向かい合う壁面の間隔はだんだん広がっていくようで手指の力だけで壁をよじ登ることはぼくたちにはできそうもない。
とくにがっかりしているような様子もなく櫟は言う。「ダメみたいですね」
そうだね、とぼくは答えてあたりを見回す。まさかここで行き止まりってことはないだろう。行き止まりであっては困る。ここが行き止まりならぼくたちの命も行き止まりだ。どこか道はないのか。どこか。だけど見渡せど見渡せどそんなものは見つからずぼくは焦る。焦りはすぐさま怯えにそして絶望に変わってきてぼくは死にたくない。ぼくは死にたくないんだ。死にたいわけがない。そんなものは求めてない。冒険はちょっとばかり続いて終わりになるべきじゃないか。「落ち着いて」と櫟が言う。
「まだ反対の道があります」
「あ、ああ……そっか」
「行きましょう」
うろたえるぼくを置き去りに櫟は元来た道を帰っていく。足取りに迷いはない。まるですでに決められた目標地点に一直線に向かっていくかのように彼女の歩みは軽やかだった。「ま、待って」とぼくは小走りで追いかけて彼女とのあいだの距離を縮める。
ぼくたちが目覚めたあたりに近くなったところで櫟はふたたび暗闇をライトで照らす。もちろんスマホのものだからその光量はずいぶん頼りないけどそれでもなにもないよりはよっぽどましだった。
「バッテリー、どのくらい残ってる?」
「半分くらいですね」
「半分か……」ぼくの持つスマホもあるとはいえライトを照らすことによる電池消費の激しさを鑑みるとだいぶ心もとない残量だ。「どちらも暗所恐怖症でないことを祈ろう」
「わたしはだいぶその気がありますよ」
「え、うそ」
「本当ですよ。だってなにも見えないのって怖いでしょう」
「でもいまだってだいぶ暗いよ」
「わずかな範囲だけでもはっきり見えるのと、どこもはっきり見えないのとでは話は違ってきます。そうじゃないですか?」
ぼくは答える。「聞かれたって、わからない」
「暗闇でも平気なんですか?」
「わからないよ。真っ暗闇に放り出された経験なんてない」
「寝るときとか、電気は消さないんですか?」
「消すけど、でも、寝室を真っ暗にしたところでどこになにがあるかってだいたいわかるし、なんだかんだ部屋にはいろんな光があるから。エアコンのメンテナンスランプとか、テレビの電源ランプとか。完全になにもわからないってわけじゃない」
「確かに、そうですね」
「うん……」
ぼくの返した相づちが洞窟内に反響するのを最後に会話は途切れてかわりに立ち現れるのはカンカンと靴底と床の触れ合う音だ。カンカンと靴音は鳴って洞窟の上限左右にぶつかって反射して混ざりあってそれはカンカンと気の狂いそうにカンカンと大きくなっていく。ぼくたちの立てた靴音が返ってくるのに合わせるかのように地を踏む感覚は強くなってその間隔もまた短くなっていく。音がこのままどこまでも際限なく大きくなっていくのかと思われたおりに櫟が立ち止まって言う。「見てください」
彼女が指差したのは縦に広がったちょうど人間一人がなんとか通ることのできそうな裂け目だった。櫟が中にライトを向けると光芒の向かうその先に空洞があることがわかる。櫟はぼくのほうを向いて「まだ終わりってわけじゃなさそうですね」と言う。「閉じ込められたんじゃないかって思ってました?」
「いや……」
「怖かった?」
「どんな洞窟にも出入り口は必ずいくつかあるって言われてるんだ。体力の続くかぎり進むことはできる。怖くなんてない」
「どうだか」と言って櫟は笑う。
裂け目は縦幅五〇〇センチ横幅一メートルくらいで地面を這えばなんとか進むことができそうだった。といってもこの真っ暗闇のなかなにが潜んでいるかわからないトンネルのなかを進むというのは不安を感じずにはいられない。もしも毒を持ったムカデでもたいへんなことになる。いやたいへんあこと程度ではすまないかもしれない。もしなかで群生でもしていたら身動きもとれずに全身を食らいつくされて死ぬだろう。
「どっちが先頭をいきます?」と櫟が言う。
「ぼくがいくよ」
はっきり言えばとてつもなく怖い。だけどどうにかなるだろうという不思議な安心感がぼくにはあった。それがどこから出てきたものなのかはさっぱりわからない。ただどうしようもない確信だけがあった。先にだけ進んでいればきっとそれでいい。
「では、任せます」
ぼくはポケットから自分のスマホを取り出すとライトを付けてそれを片手に持ちながら洞穴に侵入していった。入り口の部分だけが極端に狭くなっているため先に手だけをなかにやって内壁を支えにしながら身体を無理やり押し入れる。背中に押し付けられた岩肌が背中を刺して痛い。それでも無理に力をいれて押し入るとまもなく身体をすべてなかに入れることができた。
「だいぶ狭いから、気をつけて」
一メートルそこら進んだあたりで後ろから櫟もなかに入ってきた気配が伝わってくる。男のぼくよりも身体が華奢なぶんわりかし楽に入れたようだ。「進みましょう」と後方から声がしてぼくはそれにうなずく。うなずいてから後ろの櫟にはこの動作は伝わらないのだということに気づいて恥ずかしく思う。
「ケガしないよう、気をつけて」
「大丈夫です。ズボンですから」
とはいえトンネル内の床は意外にも表面がなめらかで少なくとも膝を痛めることはなさそうだった。過去に水流があったのかもしれない。頭をぶつけないように慎重にライトで照らしながらぼくは先を急ぐ。両碗をつき身体を縮めるように胴体を前に押しやる。また両肘をつく。繰り返し。単純な動作だがかなり体力を消耗するようでだんだんと息があがってくる。耳をすますと後ろの櫟も同様のようだった。身体を前にする音と不規則に乱れた浅い呼吸。静けさと密閉感そして暗闇はたがいに不安を増幅させながらこちらの神経をすり減らしにかかる。
「ついてきてる?」
「はい」と櫟は答える。
だけど言葉を発したぼく自身は知っている。いまの言葉がけっして櫟を心配したから出てきたようなものではなく己の孤独感を振り払うがために出てきた言葉だということをだ。言葉なんて結局なにを言ったところでそれは自分に向けて言っているに過ぎない。「大丈夫。わたしはここにいます」と櫟が言う。ぼくは目をつぶって前に進む。頭をぶつけないよう気をつけようなどという考えはどこかへ放りやってぼくががむしゃらに前に急ぐ。前に。前に!
「そんなに急がなくたって大丈夫です」と櫟は言う。「大丈夫です。わたしはここにいますから。ずっと後ろについていってますから」
そんなことじゃないんだよ。ぼくは思う。声なんて発話行為の一種類に過ぎないんだ。下等で醜悪でそれ自体で完結することもできない出来損ないなんだよ。
ぼくはなにも言わず前に這う。
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