第9話

 ぼくは時計塔の螺旋階段を息も上がりそうなほど駆け足で上がっている。ぼくは何かを追っている。それが何なのかは追っているぼくにも分からない。しかしそれに追いつくことはぼくがぼくのために何よりもしなくてはならないと思っていることでそのためにどれだけ疲れようとも成し遂げなくてはならなかった。「待てよ、待ってくれ」しかしぼくの叫びも虚しくぼくとそれとの距離はどんどん離れていく。ぼくがあがけばあがくほどそいつはぼくの努力をせせら笑うように速度を増していく。こうやってどれだけ頑張っても一生それに追いつくことはできないのかもしれない。走りは徒労にしかならないのかもしれない。それとの距離が離れれば離れるほどぼくは足を止めたい衝動に駆られる。ぼくは一体何がしたいのだろう。答えが見つけられれば幸いだ。あるいは答えをこしらえてしまってもいい。なんにせよとにかく言いたいことはゴールがあればどれだけ走るにせよ虚しさはある程度ましになるということだ。だが目的のない追跡劇はあまりにも残酷に心を殺していく。もちろん目的のないまま走っていたのだとしてもうっかりどこかへ到着してしまうという偶然はある。樹海に迷い込んだ時最適な行動とはその場でじっとして救助を待つことだが闇雲に歩き回ってたまたま森を抜けられることもある。もちろんその確率は限りなく低い。しかし追い詰められて五里霧中に陥っている人間にはその奇跡を信じるほかない。めまいに陥った人間には何を考えることも無理難題にしかならない。


 階段を一段登るごとに靴底のたてる音は上に下に広がって反響して何度も何度もこの言葉をくり返す。「走れ」「走り続けろ」ただ走ればいいのだろうか。本当にそれでどこかにたどり着けるのだろうか。ときには立ち止まることも必要なんじゃないか。けどいちど立ち止まってしまったらきっともう走り出せない予感は強くぼくを支配していて選択肢を一択に絞らせる。


 ぼくが追うそれはこちらに常に一定の間隔をとってその顔がギリギリ見えない絶妙な角度を維持している。「あはは」とそれがあげる笑い声はひどく作り物めいた響きをしていた。


「なにがおかしいんだよ」

「あはは」

「いったいぼくは、ぼくたちはどこに行くんだ。君はどこに向かっているんだ。ぼくはなんのために走っているんだ。なあ、知ってるんだろ。教えてくれよ。根拠のない走りなんてただ虚しいだけじゃないか」

「あはは」

「思想のない走りなんて感情のほとばしりだ。行き詰まったときの苦肉の策でしかない。こんな走りに意味なんてない。勢いだけでうまくいくなんてただの虚構だ。思い込みだ。種のないスイカなんて偽物だ。遺伝子組み換えの作り物だ」

「あはは」

「現実を上手にこなさなくちゃいけないはずだ。だってそれが生きるってことだろ。どこまでいっても生活は社会だし虚構は生活の一部でしかないんだ。ただ走るだけで生活は成り立たない。朝食をたべて着替えて学校に会社に出社出勤いつの日か子供をもうけて行く末はお父さんマシーンだお母さんマシーンだそうやって死んでいかなくちゃいけないんだ」

「あはは」

「必要なのは思想であって思弁じゃない。それをいくら発達させたって腹は膨れない。間食にもならない。せいぜいがサプリメントだ。一ヶ月五〇〇〇円の割高なサプリメントだ。たいして効きもしない医学的根拠皆無の詐欺商品だ。健康になりたいならまず運動と食事と睡眠だ」

「あはは」

「飯を食え飯を。デブになれ、肥えろ、スキニーが履けない体になれ。腹が減っては戦はできぬと言うだろう。思弁だって同じだ。どうしても思弁したいというのなら飯を食って思弁しろ。あるいは飯に繋がる思弁をしろ」

「あはは」

「ラーメンを食え」

「あはは」

「豚骨だ、魚介だ、つけ麺には昆布水を」

「あはは」

「あはは」


 不思議なことにどれだけ声を荒げたって全く息の上がる予感もしないしそれどころか感情を発露させればさせるほど体は軽くなっていくようだった。当然だ。溜まったものを捨てれば軽くなる。チラシや雑誌の詰まったままのバッグは整理すれば驚くほどに軽い。人間だって同じだ。血液を抜けば抜いたぶんだけ体重は軽くなるし死んだ時には一七グラム魂の分だけ人は軽くなるらしい。魂に質量があるのなら感情にだって重さはあるだろう。軽く、軽くなりたい。ぼくはあまりにも重たすぎるてベットから起き上がることすらできやしない。軽くなることでこの浮遊感から解放されたい。重さからくる浮遊感。矛盾しているように聞こえるだろう。言うなればこの浮遊感は飛行石じみた巨大な石がもたらすものだ。それはぼくの精神の中心にずっしりと巣食っていて取り除けない。ぼくは今ここに生きているのだという確かな実感をこのからだに得たい。それは贅沢な願いだろうか。「どうだろう」「どうなんだろうね」「分からないか」「わからないよ」どうか答えてください。ねえ、そんなにケチケチしないでもいいじゃないですか。どうせこれも夢なんだ。目覚ましの音でさようなら。淡く儚い夢幻なんだ。妄想思い込み幻覚症状の類なんだ。分かっているんだ。分かっているんだよ。ねえ。そうだろ。はいそうです。ぼくは答える。だけど実際にそうだとしてだからってどうすればいいっていうんだ。事実を事実として認識したからってなにをしようがないじゃないか。はいそうです。ぼくは投げ出す。考えるのはめんどくさい。ダルいことはやめにしよう。生きるために必要なことは一に睡眠二に睡眠三に睡眠だ。やな宿題はぜんぶゴミ箱に捨てて焦燥は忘れ去ってしまえ。はたしてそれでいいのでしょうか。それでいい。ふわふわと現実をまどろみに過ごしてときどき無意味に走りだして満足してそのまま死ぬ。それでいいのでしょうか。それでいいんです。


「ねえ頂上にはまだ着かないの」

「まだまだ」

「疲れたよ」

「でもまだ走れるでしょう」

「でもいつかは終りがくる」

「到着しようが立ち止まろうが結局終わりなんですどっちでもいいじゃないですか」

「まだ終わりにはしたくない」


 タッツタッタタッツとぼくは走り続ける。ぼくが追うその人の足音も重なって二つの音は不規則なリズムを刻む。螺旋階段をぐるぐるぐるぐるとめまいを起こしながらぼくは今のところ立ち止まっていない。どうかもう少しだけ走らせてくださいよ。

 ぼくは走る。




 目覚めてすぐさま鳴りだしたスマートフォンの着信をぼくは取る。

 はい……え……ああ、お母さん……いや、その……べつになんでもないんだよ……心配しなくていいから……いや大丈夫……近所だよ……すぐに帰れるから……近所……近所は近所だってば……いや、ほら……近くの森……嘘じゃない……だってべつに嘘つく必要なんてないだろ……いや……ただちょっと散歩に……今日から始めたんだよ……なんのためにって……散歩は散歩だろ……歩きたかっただけだよ……それ以外なんの理由があるんだよ……散歩にいちいち理由があるかよ……だから……歩きたかったんだよ……ああしつこい……しつこいな……なら勝手に想像してればいいだろ……え……なんでそうなるんだよ……なに……なに言ってるのかわからない……どういう……いや散歩は散歩だって……え……退会……いまその話関係ないだろ……やるって……やる……やるってこれ以上なにいえばいいんだよ……ああわかった……わかったって……うん……いま何時かって……うん……大丈夫……すぐ寝るから……寝れるよ……ちょうどいいんだって……だから……この時間が……うん……うん……わかった……切る……切るから……うん……じゃあ……わかったってば……




「やっと起きた」


 目覚めると櫟がぼくに向けてスマートフォンを構えている。瞬間フラッシュが焚かれてぼくはまぶしさから目をつむる。「な、なに、なんなの」


「ぐっすり寝てたので」櫟はぼくにスマートフォンの画面を向けて言う。「へんな顔」


 画面の中の自分はたしかに変な顔をしていた。鳩が豆鉄砲を食らったあとパンをちぎり与えられて表に出す表情を見失っているようだった。ところでここはどこだろう。「……ここは?」


「わからない」櫟は答える。「気がついたらここにいたから」


 あたりは真っ暗だった。櫟の持つスマートフォンの明かりによってわずかにその周囲が照らされるばかりだ。

 スマートフォン?


「……持ってたっけ、それ」

「なにを?」

「だから、携帯電話」

「スマホ?」

「ああ、まあ、うん」

「当然、持ってますよ。持ってないわけないでしょう。いや持ってない人もいるかもしれないですけど、基本的にはもはや生活必需品じゃないですか」

「……それはそうかもね」


 たしかに彼女は記憶喪失だがだからといってスマホを所持していないとは限らない。使い慣れている様子からすると間違いなく本人のもののようだし中を確認すれば櫟の身元を示す情報が手に入るのではないだろうか。だが彼女ははっきりと記憶がなく自分が誰なのかもわからないと言っていたはずだ。とすれば端末のなかにめぼしい情報は存在していなかったのだろう。なにより人のスマホをのぞくことを本人に要求するのはなんだかためらわれた。


 ぼくは言う。「とにかく、ここがどこなのか把握しよう」


 櫟はうなずくと端末を宙にかざしてライトで周囲を照らした。「……なんでしょう、これ」


「……大きな岩?」櫟がライトで上下左右を照らしてぼくは気づく。「いや、石壁だ」


 ぼくたちは周囲を石壁に囲まれていた。苔むした様子から推測するに人工の洞窟ではないだろう。櫟に洞窟の奥を照らしてもらったが暗闇はどこまでも続いていて出口がすぐそこにあるわけではなさそうだ。漫画かなにかで覚えた知識を活用して指先を濡らして空にかざしてみたが風は感じられず出口の方向を推測することもできなかった。


「どうするんですか?」

「進んでみよう」

「進むって、どっちにですか」

「いま向いている方向」ぼくは指差して方向を示した。方位磁石がなく太陽も目視できなければ東西南北もわからない。「とりあえず、進んでみよう」


 ぼくたちは歩きだす。

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