ネズミたち
排気ガスの匂い、ぎらつく下品なネオンサイン、人々のけたたましく笑い合う耳障りな声。車がエンジンをふかし、違法改造されたバイクがマフラーから騒音を漏らし、風俗店のキャッチが二人組の若者をしつこく誘っている。居酒屋を気分良さげに退店する大学生らしき集団、仕事帰りのサラリーマン、なれた仕草で歩きタバコをする壮年の男性。流行りのポップミュージックが店先のスピーカーから雑踏の喧騒に紛れこむ。飲みすぎたのだろうか、カップルの男が排水溝にかがみ込み、その背を女がさする。直後、男は排水溝に向けて勢いよく嘔吐し、男の吐瀉物は下水に流れ込み、そしてその吐瀉物のながれる下水道を彼はさっそうと走っていた。
彼は個体として「オットマン」という名を持つ一匹のネズミだ。しかし同時に彼は群れとしての「ネズミ」の総体であり、一族のボスであった。
ボスである彼は二二匹のネズミの群れを率いて、繁華街のネオンを背に、町の暗部を流れる下水をゆき、飲食店の厨房をあさり、ゴミ捨て場をゆき、時として人間の住宅に忍び込んだ。行きていくための食糧を得るためそれは必要なことだった。ボスである彼は、ボスとして、群れの仲間たちを飢えさせるわけにはいかない。さいわいなことに、人間たちは彼らが食糧として必要なものをいくらでも生み出してくれた。人が生きていくことは彼らが生きていくうえで有効に働いた。人間たちの生の残滓をネズミたちは享受した。たとえ人間の絞りカスであっても、小さなネズミたちにとっては充分な食糧となりえた。
彼らは自分が「自分」であることを知っていたが、自分たちがハツカネズミなのかドブネズミなのか、それを知ることはなかった。自分たちが「ネズミ」であるという意識が彼らにはなかった。自分は自分であり、唯一そこにあるのは「私たち」という群れとしての意識であった。なわばり争いを繰り広げるべつのネズミたちの群れも、ネズミたちにとっては「彼ら」でしかなく、べつの言い方をするならば「私たち以外」でしかなかった。
その日彼らは食糧を求め、軽やかに前肢を動かし、彼らのなわばりの中でも端のほうにある下水道の地面を蹴っていた。下水道にはひどくすえた匂いが充満していて、彼らが人間であったならばとうてい我慢できたものではなかっただろう。しかし彼らネズミにとって下水の匂いは嗅ぎなれた我が家のものであり、足に伝わるひんやりとしたポリエチレンの感触もまた、歩きなれたフローリングのものでしかなかった。
彼らはここ数日充分な食糧を得られていなかった。といっても、餓死が間近に迫るほど鬼気迫った状況だというわけではない。だが油断はできなかった。彼らネズミはつねに物を食べていかなくてはいけない。彼らのDNAには生存、そして繁殖という二つの使命が強く刻み込まれていた。肥え、産み、広がっていくという本能だ。その本能を象徴するかのように、彼らネズミの前歯は絶えず伸びつづける。放置すればその前歯は彼らの口元をふさぎ、彼らを餓死させるだろう。彼らは遺伝子レベルで生きることを強いられていた。ネズミとは、そういう生き物であった。
(何かがおかしい)ふとオットマンは思った。数日前まで、このルートは安定して食料を確保できる、彼らにとって大事なライフラインのひとつだった。ところがここ数日、まったくといっていいほどこの地域からは食糧が得られていない。
オットマンはいつもの巡回ルートを頭に浮かべ、違和感の正体を探ろうとした。下水道を南にまっすぐゆき、人間たちの飲食店が多く建ちならぶ付近まで行ったら、排水口を通じて厨房に侵入する。時刻は深夜。人間たちは非常に多くの食べものを廃棄する。罠に警戒しつつ、袋詰にされたそれを彼らの群れがいただく。そして速やかに退却。同じ店ばかりを選ぶことはご法度だった。そんなことをすれば、人間たちはネズミの存在を疎ましく思い、幾重にも罠を仕掛けて彼らを殺そうとする。オットマンは経験からそれを知っていた。オットマンは両親を人間に殺されていた。そして両親亡き今、群れを守るのは彼の役目だった。
(それにしたって、おかしい)ネズミの被害にあっていると気がつき、人間たちが廃棄をネズミたちの手の届く場所にださないようにしたというのは、十分に考えられる可能性だ。しかし、事態はそれとは違った様相を呈しているようにオットマンには思えてならなかった。
ひとつの店から食糧が得られなかっただけならば、まだいい。しかしそれが続けて二店、三店と続けば、これを放置するわけにはいかない。忍びこむポイントが増えれば増えるほど、群れが全滅に追いこまれる危険は大きくなっていく。食糧を得ることは常に命がけの行いであった。いつ人間たちの罠にかかるか、人間たちに見付かって殺されるか、餌をあさる最中に不慮の事故にあうか……その危険を鑑みれば、餌にありつくために何件もの厨房に侵入しなければならないのは、短期的にはいいかもしれないが、長期的には解決しなければならない問題であった。
(……べつの群れの匂い)ネズミの嗅覚は優れている。その優れたオットマンの嗅覚は、行きなれた下水道の一角に、べつのネズミの群れの気配をかぎとった。
ここら一帯は、彼ら群れのなわばりだ。だから本来、このあたりにべつの群れが浸入してくることはない。といっても、現在彼らがひた走っているのは、彼らのなわばりの中でも端のほうだ。だから、うっかりべつの群れが足を踏み入れてしまうということはよくある。
だが、オットマンのなかではみるみるとある疑いが頭をもたげていった。時間が経つにつれ、疑いは確信に、確信は怒りへと姿を変えていった。(なわばりを、荒らされているのだ)はっきりとした証拠はない。しかしオットマンにはそれこそが真実であるという確固たる思いがあった。それは野生の勘であり、猛々しい生存本能のなせる業であった。
(まったく、なんという無作法か)その群れがどの程度の規模なのかはわからない。しかし、あれだけ大量の廃棄を、小さなネズミのからだで残らず食べ尽くしてしまったとは考えづらい。であるならば、考えられる可能性は、無作法ものどもの存在が人間に警戒心を起こさせてしまったというものだ。おおかた、食べきれないほどに積まれた食料の山を好き放題に食い散らかし、帰りぎわに糞でも撒き散らしていったのだろう。人間たちは、ネズミの存在に気がつけばすぐに対策を講じてくる。彼らは目先の食欲に身を任せた結果、将来的な利益を失ってしまったのだ。オットマンたちの群れではそんな不用心な真似はしない。
(いや、それは違うか)オットマンはそこまで考えてから、自分のだした結論を否定した。彼らがしくじったのではない。平気で人のなわばりを荒らす彼らにとって、長期的な利益に意味などない。むしろ、自分たちが散々に荒らすことによって、なわばりの本来の持ち主であるオットマンたちが罠にかかり、いっそ全滅でもしてくれたほうが彼らには都合がよいはずだ。
すぐにでも対策を講じなければならなかった。これは食糧が満足に得られる、得られない、といったレベルの話ではない。明日明後日の彼ら群れの生存がかかった問題だった。
生存本能が彼を奮い立たせていた。同時に彼は生存本能を奮い立たせていた。キイ、とオットマンは一声鳴き、群れをその場に立ち止まらせた。彼は群れの仲間に自分たちが突き当たっている問題を説明し、そしてこう言った。私たちは断固戦わなければならない、戦うのだ、仲間たちよ。敵を滅ぼし、生き残るのだ。怒れ、仲間たちよ、怒るのだ、と。
キイ、キイ、と仲間たちは呼応する。彼らは思いを共有し、感情を一つにした。彼らは怒りをたがいに共有した。彼らは一つの塊となり、一つの個体となり、「私たち」という一人称になった。
私たちは敵を滅ぼすべく走り出した。
数日にわたる探索のすえ、私たちはついに敵の居所を突き止めた。
敵は存外、私たちの近くに根を張っていた。
私たちがなわばりとする街の、その駅のターミナルからいくらか歩くとそこには公園がある。規模は大きいものの、取り立てて特徴のないありふれた公園だ。ポプラ並木が周囲を囲うように植えられ、中央の平地ではよく整えられた雑草が緑のフローリングを形成している。中央の平地に向けてはそれを囲うようにゆるやかな階段が伸びていて、全体として逆さにした四角錐台の造りをしている。その階段に腰掛け、昼間にはジャズバンドなどの演奏を人々がコーヒーを片手に聴き、夜には恋人たちが肩を寄せ合って語り合う。そういった公園だ。
敵のひそむ巣はその公園の一角、低木の敷き詰められた植え込みにあった。植え込みの近くには給水場がある。とうぜん排水溝は下水道に通じており、敵はそこから街の隅々に自由にアクセスしているのだろう。
(見つけた)
(あそこだ)
(におうぞ)
自分たちのものではない数十のネズミの群れ。たとえ同じネズミであっても、その匂いは私たちにとってひどく鼻につくものであり、許さざるものであった。私たちは鼻をひくひくとさせ、遠目に植え込みの様子をうかがった。
(敵は何匹だ)
(わからないが、多い)
(十は優に超すだろう)
(二〇ほどか?)
(我々は何匹だ)
(二二だろう)
(ならば数では勝っている)
(数だけか?)
(いいや)
(私たちは強い)
(私たちは一つだ)
いまや私たちは声にださずとも互いの言葉を共有することができた。精神感応力の一種ともいえるだろう。感情を共有し、怒りを共有し、「私たち」という一人称になった私たちに、「自分」と「他人」の区別はなくなっていた。
(私たちは一つだ)
(恐れるものはない)
決戦のときが近づいているのを私たちは互いに感じあっていた。四つの足は耐えかねるように震え、持てあました緊張を解放するときを待ちわびていた。余計な策略を巡らすことなど余計でしかない。ただ正面からぶつかるのみだ。ただ私たちの怒りをぶつけるだけだ。
(ただ敵を滅ぼすのみだ)
私たちは脱兎のごとく走り出す。
先頭をゆくのは私たちの中でももっとも若い、アグニという名の血気盛んな一匹だ。強く地面を蹴り、陽光にその前歯をきらめかせ、彼は植え込みに飛びこんだ。
キイッ!
私たちが敵の拠点に飛びこむアグニの姿を見たのと、彼が悲痛の声をあげたのはほぼ同時であった。
(どうした!?)
(伏兵だ、やつら待ちかまえてやがった! くそ! 喉を噛みちぎられた!)
(なに!?)
(いてえ、いたいな、ああ! いたい、くそ、くそ)
(行け、行け、はやく私たちも後に続かねば、彼を助けなければ)
(まさか)
(正気か?)
(しかしいまさら引くわけにはいくまい)
(くそ!)
(ええい)
(突撃だ!)
こうなればもう、あとはやぶれかぶれだ。第一、もとより作戦などなかったのだ。やることが変わったわけではない。
私たちはネズミとしての誇りを胸に、しゃにむに神風をしかけた。
(殺せ! 殺せ!)
(一匹残らず)
(殺しつくせ!)
私たちは怒りという感情をもとに結びついた一つの塊となった。私たちは自分たちが必ず勝つのだという確信を持っていた。死ぬことは怖くなかった。私たちは私たちであり、たとえ残り一匹になろうとも、その一匹が最後に地に足をつけているかぎり死なないのだ。
私たちは丸い弾丸となって次々に植え込みに飛びこんでいった。敵を見つけるやいなや首元めがけて飛びつき、その喉笛をかっきる。うまくいけば敵は悲鳴をあげるまもなく消沈したが、敵もまた必死だ。私たちが殺した敵の数と同じだけ、私たちの一部もまた敵に噛み殺されていった。私たちと敵とはほぼ互角だった。数においては私たちが勝っており、このまま続ければ最後に立っているのは私たちになるだろう。しかしその被害は甚大なものとなる。群れを絶やさないため、血をつないでいくため、被害はできるだけ少ないほうがよいに決まっている。だが戦況は混乱の極みにあって容易に指示の鳴き声などが通る環境ではない。
そもそも私たちは戦うことに必死だった。命を奪うか奪われるか、その瀬戸際のなかで、一秒も他のことに頭を割く余裕などなかった。
やっとのことでその余裕ができたのは、両軍それぞれ戦力を半分以上も失ってからのことだ。とつじょ突風が吹き、私たちも敵も風に吹き飛ばされないよう大地を踏みしめた。敵めがけて駆けていたネズミも、二匹で組み合いたがいに急所を狙い合っていたネズミも、傷の痛みにのたうち回っていたネズミも、そのすべてが突風のまえに一瞬、足を止めた。
そしてその一瞬は、私たちが意思を交わしあうための久方ぶりの余白となった。
(このままでは、埒が明かない)
(何匹やられた?)
(わからない)
(あまりに多すぎる)
(これ以上失うわけにはいかない)
(負けるわけにもいかない)
(どうすれば)
(どうすればいい?)
その時だった。私たちは飛び交う私たちの意思のなかに、感じ慣れない色合いのものが混ざっていることに気がついた。それは私たちの意思に似ているようであり、まったく異なっているようでもあり、しかしたしかに一つの意思だった。
(おまえたちは、なぜ私たちを攻撃する)
(なに?)
(誰だ)
(私たちは、私たちだ)
私たちはその意思の持ち主にようやく気がついた。
(まさか、敵か)
(そう、私たちはあなたたちが「敵」と呼ぶものだ)
(なぜ私たちの意思に介入できている)
(難しい質問だ。そもそも、なぜ私たちはこうして言葉を交わさずして会話ができている? 不思議なのは、そこからだ)
(私たちは、私たちだからだ)
(私たちは一つだ)
(私たちは自分自身と会話しているにすぎない)
(ならば、あなたたちが敵と呼ぶ私たちもまたあなたたちなのだろう)
(なに?)
(なにを言っている)
(わけがわからないことを言うな)
(難しいことではない。単純なことだ)
(狂言をわめきやがって。話をもどせ)
(話をそらしたのは、あなたたちのほうだ)
(うるさいうるさい。なぜおまえたちを攻撃するのか、だったか。そんなものは決まっている。おまえたちが敵だからだ)
(私たちのなわばりを荒らしたからだ)
(私たちの生存を脅かしたからだ)
(おまえたちが憎いからだ)
(しかし、べつに私たちがあなたたちに危害を加えたわけではない)
(同じことだ。餌場を荒らされることは、死に直結する。間接的におまえたちは私たちを攻撃した)
(だが、私たちも生きなければならない。私たちのなわばりからは、食糧はすっかり姿を消してしまった。食べなければ、死ぬのみだ。私たちは生きなければならない)
(それは私たちだって同じだ)
(そして、私たちも同じだ。だというのになぜ私たちを許さない?)
(知ったことか。おまえたちは私たちではない)
私たちの強い断定に、敵が身じろぎするのが感じられた。風はとっくに吹きやんでいるにも関わらず、両軍ともにその場から動こうというものは一匹もいなかった。人間たちの声以外、そこに音はなかった。
(だから、殺すのか)
(そうだ)
(殺す)
(殺す)
(一匹残らず殺す)
(根絶やしにしてやる)
(和解しようじゃないか)
(なにをふざけたことを。待ち伏せまでしやがって、先に手を出したのはおまえたちだ)
(ただ身を守っただけだ)
(それならば、私たちの攻撃もまた私たち自身を守るためのものだ。そこになんの違いがある)
(それは――)
私たちと敵たちの議論はどこまでも続くように思われた。(うるさいうるさい)(どうしろというんだ)(なにが正しいんだ)(黙れ黙れ)いくつもの意志が飛び交い、入り乱れる。しだいに私たちはそれが私たちの意思なのか敵の意思なのか、判別がつかなくなっていった。(黙れ黙れ黙れ黙れ)(私たちは私たちは私たちは私たちは)意志の洪水はネズミの小さな脳髄のキャパシティを超えていた。私たちはわけがわからなくなり地面にもんどりうって震えた。(怖い)(怖い)(怖い)恐ろしかった。脳中を旋回する意志が自分のものなのか他人のものなのか判然としない、その宙ぶらりんな状態は私たちから「私たちは私たちである」という確信を奪っていくようだった。
私たちは叫んだ。
(黙れ!)
(黙れ!)
(黙れ!)
考えることをやめ、意思を閉ざし、私たちは純粋な怒りの塊へとふたたびその身をやつした。そうだ、はじめからこうすればよかったのだ。耳を貸す必要などなかったのだ。ただ何も考えず、敵を滅ぼすためだけにこの身体を動かせばそれでいい。
気づけば、そこには一匹の私たちと一匹の敵だけが残っていた。私たちはどちらも死にかけていた。しかし私たちは戦うのをやめなかった。私たちはゆっくりと、倒れそうな身体を四つ足で支え、たがいに距離を縮めていき、相手の喉に牙を立てようとした。
私たちは、同時に相手に牙を立てた。だが私たちにはもう、相手を絶命にいたらしめるほどの体力は残っていなかった。そのまま私たちは寄りかかり合うように、支え合うようにして地面に倒れた。
私たちは空を見上げた。大量のネズミの死骸に引き寄せられたのだろうか。一匹のネコが、私たちを見下ろしている。私たちにとって天敵であるはずのネコ。その感情のない瞳が、しかしいまの私たちには救いのように感じられた。
そしてそのまま私たちは目を閉ざした。
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