第6話

 気まずさから逃げるかのようにぼくは眠りについてそして月曜日がやってくる。

 ぼくは櫟に菓子パンやらといった食料を与えそれから最低限気をつけてほしいことを伝え、両親が家をでるのを確認してから学校に向かうため家をでた。学校からもどって部屋に帰っても櫟は変わらない様子で押し入れに引きこもっていた。まるで同じ光景がそこには広がっていた。鋳型でくり抜いたかのように身動き一つすらとっていない。不気味なほどに彼女は静止していた。櫟はぼくが部屋に入りそばへ近寄って彼女がぼくのことを見上げたときにようやく動き出したように思えた。……いや。もしかすると本当に、そこに時の流れは存在していなかったのかもしれない。レトリックの類ではなく、実際に。

 ……ぼくはなにを言っているのだろう?


「それで、どうする?」


「どうって?」櫟がぼくに問い返す。


「月曜日。また、あの小屋に……」


「ああ、そうですね」櫟は言う。「では行きましょうか」


 というわけでぼくたちは再びあの小屋へ向かうため用意を整える。ランタンと十徳ナイフとそれから一応非常食をかばんに詰め込んでぼくたちは窓から家の外へ出た。

 しかし日にちが流れて月曜日になったからといって小屋にどう変化があるというのだろう?

 正直にいえば無駄足になるとしか思えない。けれど櫟の言うことには得体のしれない説得力があってそれがぼくのからだを有無を言わせず動かした。ぼくは櫟の言うことをただ愚直に飲み込むしかないのだ。頭にもやがかかっているようだった。彼女を前にするとぼくはだんだん考える能力を失っていくような気がした。考えることなんて無駄なように思わされた。そういう引力が彼女にはあった。

 外ではこの季節にはあまり聞かない鳥の鳴き声が響きわたっていた。田舎では聞き慣れたその鳥たちの声が今日はなんだかやたらとやかましく聞こえた。ぼくは耳を塞ぎかけて、それから歩き出した。




 黙々と数十分も歩いてぼくたちは三度あの小屋へやってくる。

 小屋の様子は変わらない。二日前とまるっきり同じだ。


「なにも変わらないみたいだけど」

「ひとまず見た目はそうですね」

「見た目は?」

「大事なのは中身じゃないですか?」


 それもそうだ。このプレハブ小屋が今日とつぜんに七色に光るスーパープレハブ小屋になることでもぼくは期待していたのだろうか。

 ……ぼくはなにを言っているのだろう?

 とにかくぼくたちは小屋の中へ入る。

 そこには死体がある。




 そこには死体がある。

 室内には腐臭が立ち込めていてそれが死後いくらか時間を経ているのが察せられた。正確に何日経っているのかはわからない。けれど今しがた殺されたばかりというわけではないことは確かだった。

 プレハブ小屋の床に転がっているその死体は壮年の男性のように見えた。厚手の外套を羽織っているがサイズが合っていないのかブカブカだ。……羽織っている? その表現は正確ではないかもしれない。これは死体なのだ。死体になってしまえばそれは物だ。ただの肉の塊でしかない。もう動くことも話すこともない。なにもない。なにも発さない物体でしかない。

 それは永遠に黙りこむことを決定づけられている。本当の意味で言葉を失っている。

 ぼくは死体から目を離した。

 気持ち悪い、とぼくは感じる。

 吐き気がこみ上げた。

 ぼくはなんとなく安心する。死体をみて気持ち悪いと感じる自分を確認できたことにだ。この異常な状況のなかにおいて小市民的な自分の存在はひどく場違いでだからこそ逃避先としては優秀だった。

 いったいなにが起きているんだろう?

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。吐き気をぐっと抑えてぼくは顔をあげた。

 そこでぼくは見る。うつろに死体を見下ろす櫟のすがたをぼくは見る。

 どうしてそんなに無感情でいられるんだろう?

 櫟のそのうつろな表情が水滴となって背中をすっと下るのが感じられた。全身が粟立つ。べつに彼女が男を殺したというわけではない。彼女はただ男を見ているだけだ。だというのにぼくはまるで彼女が男を殺した犯人であるかのように恐怖していた。この恐怖はいったいどこから来るのだろう? ぼくはいったいなにに怯えているのだろう?

 彼女はいったい何者なのだろう?


「死んでるみたいですね」と櫟は死体を見て言う。


 ぼくはなんとか言葉を吐き出して答える。「そう……だね」


 そうだ。男は死んでいる。ここには死体がある。

 ぼくたちはなにかをしなくちゃいけない。

 なにを?


「け……警察に」ぼくは言う。「警察に通報しないと」


「やめておいたほうがいいですよ」

「え?」

「やめておいたほうがいいって言いました」

「な……なんで?」


「よくないことが起きる気がするんです」櫟は言う。「とってもよくないことが」


「よくないことって?」

「さあ?」

「さあって……」


「とにかく、よくないことです」櫟は繰り返して言った。よくないこと。


「いや、でも、このままってわけにはいかないし」

「なにがですか?」


 決まっている。「死体をだよ」


「うーん。とくに問題ないと思いますけどね」


「そんなわけ……」問題しかないだろう。「このままじゃどんどん腐っていくし、殺された人には家族がいるわけで、それに犯人もいるわけだし」


「まあ、そうですね」

「だったら……」

「でもまあ、ささいなことですよ」


 ささいなことですよ。彼女は淡々と言ってのける。

 ささいなこと。これはささいなことなのか?

 彼女の言葉をきいていると本当にこれはささいなことなんじゃないかとぼくはそんな気がしてくる。

 人が一人死んでいるだけだ。ただそれだけじゃないか。そんな気がしてくる。

 そんなはずはないのに。

 それに男がここで死んでいるということはつまり男の死は櫟の謎にも深く関わっている可能性がある。放置するというわけにはいかないだろう。


「犯人が気になるなら、自分で調べてみたらどうですか?」


「自分で?」ぼくは驚いて訊き返す。


「探偵の真似事ですよ」

「素人がどうこうできるものじゃないだろ」

「ミステリーの探偵なんてたいてい素人でしょう」


 たしかに言われてみればそうだ。「……わかったよ」


 ぼくは改めて死体と向き合う。

 男だ。死んでいる。背を壁にもたれかかるようにして頭をがっくりと垂れている。血はすこしも流れていない。なら死因はなんだ?

 ぼくは一歩、二歩と男に近づいていく。近づくたびに男の死はリアリティをましてぼくのなかに巣食って行った。気持ち悪さをグッと抑えて男のもとにかがみ込む。

 男の顔からはいっさいの生気が失われていた。さっき小屋に入ってすぐさま地面にころがる男の死体を死体であると認識できたのはきっとこの表情のせいだ。死体からは決定的に生きる意志が失われている。理屈ではない。ただそうだとわかるだけだ。

 男はどうやって殺されたのだろう?

 その答えはわりとすぐに明らかとなった。

 首だ。

 男の首元には痛々しい縊痕がくっきりと刻まれていた。

 すぐさまぼくは櫟の首にあったそれを想起する。同じ小屋、同じような跡。無関係なはずはない。だとしたら櫟の記憶喪失とこの男の死とは同じ人間によってもたらされたものなのだろうか。可能性は大いにある。というよりうがった見方をしなければ確信的だ。しかし可能性はあくまで可能性だ。断定するにはまだ早い。

 ぼくは素人じみた検死を続ける。いまさら遅いだろうかと思いつつも持ってきた軍手を身につけた。あちらこちらをベタベタと触りまくったわけでもないし帰り際にドアノブだけしっかり拭き取っておけば問題はなさそうだ。最新鋭の指紋照合技術がどのようなレベルに達しているのか把握しているわけではないし断定はできないがしかし男の様子を見てこれが他殺だと判断されることはまずないだろう。なにせ男の首にはこうもはっきりと縊痕が残っているのだ。

 ……待てよ。

 そもそもどうしてぼくはこれが他殺だと決めつけているんだ?

 男の首に残った跡から順当に考えればこれは自殺なんじゃないか?

 先入観にとらわれすぎている。冷静に考えろ。

 縊痕。

 首を吊った跡。

 ならば。


「……あった」


 壁と男の背中にそれは挟み込まれていた。

 縄だ。途中で切れているが先端には輪っかが形作られていてそれがどのような用途のために使われたかは判然としていた。

 上を見上げると用途不明のフックに切れた縄の残りの部分がかかっているのが見つけられた。手元の縄と合わせれば男が立った姿勢から首を吊るにはちょうど最適な長さになるだろう。

 だとすればこれは単なる自殺なのか? こんな森の奥深くにポツンと突っ立っているプレハブ小屋だ。自殺するにはおえつらえむきだろう。

 しかしだからといって櫟の件と男の死とを切り離すことはできそうもない。偶然にしてはあまりにも出来すぎている。

 男は自殺したのかもしれない。一方こうも考えられる。男は自殺へと導かれたのだ。

 どういう方法や理由によってかはわからない。しかしありえないことではない。男はこの場所で首に縄をかけ自殺するように促された。あるいは直接的に首に縄をかけさせられた。ありえない推測だろうか? だが櫟の記憶喪失とを合わせて考えれば可能性は大きく広がる。


「なにかわかりましたか?」と櫟が言う。


「よくわからない」とぼくは答える。嘘ではない。さまざまな可能性は浮上したものの結局のところ可能性のうちの一つであると断定できる材料はなにも得られていない。「自殺かもしれないし他殺かもしれない」


「じゃあ、今日はいったん帰ることにしますか」


「帰る?」とぼくは驚いて訊き返す。


「はい」

「……」

「そろそろ眠たくなってきました」

「眠たくって……」


 とはいえ男についてこれ以上調べるべきところがなさそうなのも事実だ。

 ぼくはすでに警察に連絡するべきではないという櫟の言をすっかり飲み込んでしまっている。どう考えたって間違っている。けれどぼくはその言葉を飲み込むほかない。


「わかった」とぼくは言う。「帰ることにするよ」


「はい。それがいいと思います」と櫟は言う。「では、また明日」


 また明日?

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