第5話

 日曜日がやってくるけれど特にやることもなくぼくたちは無為に時間をつぶす。

 櫟はずっとぼくの部屋の押し入れの中から戸を少しだけ開けて終始こちらの様子を観察しながら過ごしていてだからぼくは落ち着かない。まるでぼくのことを見張っているかのようだった。とうぜん声は立てられないから終始無言。それがなおさら監視の感を強めていた。とつぜん家族が部屋に入ってきたときのことを考えると(もっとも自室には鍵をかけているのだけど)ぼくはさらに落ち着かなくなる。なにより一昨日から機嫌のわるい母親のことを想像すると胸やけのような気持ち悪さを感じた。落ち着かなさと気持ち悪さはシャカラカとシェイクされてぼくの中を満たしていた。日曜日の所感としては最悪だった。

 この部屋にはテレビがあってぼくはわりにテレビっ子なのでいつもなら一日中適当なバラエティー番組だのを流しっぱなしにしているのだけど今は状況が状況なためモニターはただ暗闇しか映し出していない。テレビの音声によって家族の接近する物音やら声やらがかき消されてはまずいからだ。逆に言えばテレビの音声がないことによってこちらの部屋のかすかな物音も向こうに届いてしまうということなのだけど櫟はさっきも言ったとおり押し入れから無言でぼくを観察しているだけで物音の一つも立てない。だからたぶんたいして問題はないだろう。

 手持ちぶたさに耐えかねてぼくは床に散乱している本の一冊を手元にたぐり寄せてそれを読み始める。いつだか百円かそこらで購入した中古の科学読本だ。頭から気持ち半分に読み進めてみると平易な文章と文意で親切に話が進められていてたちまち没頭できた。生物学全般について広く浅く扱っていてわかりやすく知的好奇心が満たされていくのを感じる。動植物のもつ社会性は人間が思っているよりも複雑だ。こうして彼らのもつ世界を文章を通じて知るだけでもぼくたち人間が結局はホモサピエンスという一種の動物でしかないことをまざまざと実感させられる。人間と動物にたいして違いなどないしそもそも人間は動物なのだ。ぼくたち人間は発明やら協力やらの才に特異性をもたせて自分たちの住む世界を特別視しようとするけれど彼らにだってそれらはある。第一人間は協力つまり思いやりの才についてやたらと自分たちが優れているかのように騒ぎ立てるけれど現実はそうではない。自分の都合や感情によって人間は簡単に思いやりの心を捨てることができるし相手を裏切ることができる。なんでも吸血コウモリの社会では空腹に耐えかねた仲間に自分の食料である血液を分け与えることがあるらしい。代わりとしてお恵みを受けた側のコウモリはもし次に相手が食料に困っていたときにはお返しとして自分の食料を分け与える。ギブアンドテイク。利他と共生。悪く言うなら打算の関係。けれどそれは大事なことだ。人間もコウモリも同じなのだ。打算がなければぼくたちはぼくたちの世界をきっと保てない。打算でもべつにいい。そこに想像があるならば。

 半分ばかり本を読み終えるとぼくは視線をあげて櫟の様子を確認する。やはり彼女はまだこちらをみていてけれどその視線はなにかを見ているようでなにも見ていないようだった。虚ろな視線はただ一点に仕方がないから固定されているといったようだった。

 ぼくは彼女に話しかけたくなる。話題はなんでもいい。今読んでいる本の内容についてでもいいし天気の話でもいい。とにかく口を開きたかった。沈黙というのはあまりに耐え難かった。べつに相手が櫟だからというわけではなく一般的に沈黙を苦手とする人は多いだろうしぼくもまた苦手だった。なにも言葉が話されていないのが気まずいからではない。沈黙には話し言葉以外の言葉が含まれているようにぼくには感じられる。沈黙はなにも物語っていないように見えてけれどそのうちに言葉を含んでいるのだ。だけどその言葉たちが相手に伝わってしまうのがぼくは怖い。自らの意思で行ったわけではない自分の想定しない発話行為がなされることがぼくは怖い。

 声に出して言葉を話すということはある意味でひとつの言葉を断ち切ることでもあるのではないかとぼくは思う。黙るためにぼくたちは話す。不思議なことではない。言語を持たずにコミュニケーションをとる動植物はいくらでもいるしボディランゲージや手話は発声をともなわない言語形式のひとつだ。

 失語はひとつの言葉を失わせるけれど代わりになにかをもたらす。ぼくたちはけっして本当には黙れない。なにかを語り続けることでしか人は人たりえない。それはあまりにも恐ろしい想像だ。ぼくたちは絶えず話し続けるしかない。そう宿命づけられているようにぼくには思える。

 横目で櫟のようすをうかがいつつぼくは思う。彼女はいまなにを思っているのだろう?


「なにも思っていませんよ」ぼくの目をじっと見据えて櫟が言う。前触れをいっさい抜きにして彼女は言う。


「え?」

「なにも」

「えっと、え?」


 困惑するぼくを現実に戻すのはめちゃくちゃなノックの音だった。


「誰かいま友達でもきてるの?」


 母親だ。ぼくは焦りながらも櫟の潜む押し入れの戸をそっと閉じてから「いや誰も来てない」と答える。


「嘘、いま人の声みたいなのしたでしょ」

「聞き違いだろ」

「あんたドア開けなさいよ」

「聞き違いだってば!」

「いいから開けなさいって!」


 母はガチャガチャリガガガチャと音を立てながらむやみやたらにドアノブをひねる。

 いま部屋には櫟がいる。もしも押入れをふいに開けられたら一貫の終わりだ。できることならこのトビラを開けたくはない。けれどへんに隠そうとするとかえって怪しく見られるかもしれない。最適解はどこにあるのだろう?


 考えてる間にもノックの音は鳴り止まない。ガチャガチャリガガガチャ!


「開けろよ!」母の声が平時よりもオクターブ上がって金切り声のようでやかましい。


 ああ。

 もう。

 うるさい。


 うるさいうるさい。わけのわからない感情が自分の中に集まってくるのを感じる。自分の中に? 違う。その源泉は自分に元からあるものだ。黒くてドロドロとしたもの。母を前にするとなんてことないことであっても関係なくそれは汲み上げられて受け皿に注がれてけれど受け止めきれなくて溢れ出す。「なんで開けなくちゃいけないんだよ開けなくちゃいけない理由なんてないだろ開けろって言われたらいつだってどこだってハイハイ従わなくちゃいけないのかよ!」


「いいから開けろよ!」ガダン! と足で蹴ったのか手で殴ったのかはわからないけどドアに衝撃が加えられる。


 くそくそくそ。論理性がないんだよ。死ね、死んでくれ。あああ! うるさい。やかましい。むかつくんだよ。自分の言ったことがすべて通る前提で生きてるのか。思い通りにならなければヒステリックに怒鳴ってそれで解決か。くそくそくそ。感情でしか生きてないのか。死ね! 死んでくれ。ああうるさい。やかましい。わずらわしい。どうして人の気持ちが考えられないんだ。どうして自分のことしか考えられないんだ。どうしていつもそうなんだ。どうしてどうしてどうして。どうしてぼくのことを考えてくれないんだ?

 けれどぼくは知っている。相手のことを考えていないのはぼくも同じだ。母はたんにぼくを心配しているだけなのだ。べつにドアくらい開ければいい。櫟がいるからなんてそんなの言い訳でしかないのだ。ぼくはたんに母に命令されたからそれに反抗してみたいだけなのだ。そんなことは自分でもわかっている。こんなことぜんぜん喧嘩の理由になど本来なりえない。ただ母が怒っているからぼくも怒ってみただけなのだ。そんなことはぜんぶわかっている。きっと母もわかっていてぼくらは互いに察していながらも理解しようとしていないだけなのだ。わかっている。なにもかもすべて。わかっている。わかっている。ただそれを伝える術を知らないだけなのだ。どうしてぼくはこんなにも不器用なのだろう? ぼくが中学二年生だからなのか? 反抗期だからなのか? 本当にそれだけの簡単なことなのか? みんな同じなのか? わからない。いくら考えたってわからない。はたしてぼくが特別に他人との折り合いをつけられていないのかそれとも大なり小なりみんな同じような経験があるのだろうか? 大人になったら折り合いのつけられることなのだろうか? そもそも折り合いをつけるとはどういうことなのだろう? ぼくはコウモリの話を思い出す。必要なのは真の思いやりではなくて打算ずくでもいいから相手のことを考えることなのかもしれない。相手の気持ちを想像することなのかもしれない。そのうえで相手に共感するかどうかは二の次でいいのだ。とにかく相手の気持ちを想像して相手を思いやることこそがきっと必要なのではないだろうか? けど想像ができたところでぼくは結局相手を思いやって自分を曲げたり妥協したりできない。今だってそうだ。母がなにを思っているかくらいわかっている。母の言葉にも正当性があることくらいわかっている。どういう言動が彼女を満足させるのかくらいぼくにだってわかっている。けれど母の怒りは周囲に拡散してぼくに伝播してそしてぼくはそんな言句を呈して自分を正当化しようとしてしまう。心中の反省のなかですら責任を相手になすりつけようと必死になってしまう。怒りの源泉は自分のなかにあるのだ。怒りは相手からの影響を受けやすいけれどいつだって自分自身のものでしかない。理解しあえない相手を前にしたとき怒りがみるみる間に大きくなっていくように感じられるのはけっして片方の怒りを片方に押し付けているわけではない。怒りはたがいに増幅し合うのだ。ぼくたちは互いの怒りをぶつけ合うことで愚かにもそれをさらに大きく醜く育てていってしまう。怒りはたがいに関係しあって増幅する。どこまでも醜く。人が人を殺すのはどうしてなのだろう? カッとなってバールのようなものなり鈍器なりで相手を思わず殺してしまうのはどうしてなのだろう? きっと犯人には怒りがあったはずだ。相手にたいする怒りなり社会にたいする怒りなり何かしらの怒りがあったはずだ。それを時々ぶつけ合って解消していくことができるうちはまだいい。けれどその怒りをぶつける相手がいなくなった時やいなかった時、相手がその怒りをもはや受け止めきれなくなったとき人は人を殺すのではないだろうか? 互いに怒り合うことはある意味では共感しあっているということでもあるのかもしれない。相手が怒っていることを理解しながら自分の怒りを相手にぶつけることで自分を慰め、そして相手の怒りを受けることで相手の自傷に手を貸す。きっとそれが怒りの本質なのだ……。ならばぼくと母のこうした喧嘩は必要なことなのだろうか? だとしたらどうしてぼくはこんなに苦しいのだろう? たがいに憎しみあって自傷を手伝い合うかあるいは相手の無理解に共感するふりをして自分を殺していくか。その二者択一からぼくたちは生きていくかぎり逃れられないのだろうか?


 人はどうしてこんなにも苦しみながら生きていかなくてはいけないのだろうか?


 ひとしきりドアに殴る蹴るの乱暴をくわえて母は去っていく。

 櫟はぼくのことをじっと見つめている。

 ぼくは吐き気をこらえている。

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