第4話
田舎といえば畑でありそれが延々と続くような風景を想像する人は多いようだけどぼくから言わせればそれは違う。田舎とは森だ。畑なんてものは大してない。あるものはただひたすらに森だ。家を出て数分で森、都会で言うところのコンビニの配置間隔に匹敵するレベルで森。森と森と森、それがぼくの生きる世界のすべてだ。まあもしかすると田舎=畑という図式は別に間違っていなくてぼくの住むこの田舎が実は田舎ですらなく限界集落なだけなのかもしれないけど。
考えるだに恐ろしい想像から目をそらしぼくはいま目の前の現実に目を向ける。
ぼくたちはぼくと櫟が出会ったあのプレハブ小屋を目指してだまって歩き続けていた。櫟はぼくの二歩後ろくらいを淡々とついてきている。沈黙と気まずさ、それから鼻をつく木々の匂いだけがあたりを支配していた。ときどきぼくはなにか会話の糸口をさがして「あーあー」と金魚みたいに口をパクパクさせて周囲の木々や草花に対しなんらかの解説を加えてみようと試みるけどそういえばぼくは自分の住む世界に生える植物の知識を持ちえなかった。幼少から見慣れた木々が何科のどういった木なのかなんて今まで興味を持ったことすらなかった。ひどい後悔を覚えた。ぼくは自分の世界を何も知らない。それはひどく損なことなのかもしれなかった。現にいまぼくは雑談のタネに困っていてぼくがもう少しここらの植物について知識があればこの沈黙を破ることもできたのかもしれないし、ぼくの無興味はこの瞬間に実際的な損害を生み出していた。ぼくはもうほんの少しでいいから自分の世界に興味を持つべきなのかもしれなかった。
興味を。しかしはたして櫟の首筋に痛々しく残る縊痕についてぼくは考えるべきなのだろうか?
自分の世界のうちに櫟個人の事情を含めるべきなのだろうか?
世界はどこまで世界なのだろう。ぼくの認識する世界のその最果てはどこに存在するのだろう?
はたしてはたしてと思考は回りまわる。けれど回りまわる思考に出口はない。行き止まりしかそこにはないのだ。少なくとも世界はそこで完結している。
「この方向で合ってたっけ」とぼくは自分のとる道に不安をおぼえて櫟に訊ねる。
「合ってるかって?」
「その……あの小屋までの道筋として」
「どうなんでしょう、私はわかりません」
「正直ぼくもあやふやな記憶しかなくて自信はないんだけど」
「まあ、大丈夫でしょう」と櫟はへんに自信ありげに言い切る。「このまま向かっていけば」
「でも真反対に向かっている可能性もなくはないわけで」
「大丈夫ですよ」と櫟は言う。「絶対大丈夫です」
「……」
大丈夫。彼女がそう言うのならそうなのだろうとぼくは思う。
「きっとこの森のすべての道はあの小屋へ続いているんです」
「すべて?」櫟の謎めいた言葉にぼくは足を止める。
「すべてです」
「……それはつまりどういう比喩で言ってるわけ?」
「比喩じゃありません」と櫟は言う。「あの小屋が終着点なんです。この森の。世界の。閉じたこの場所の。突き当たりで、終点で、果てなんです」一息に櫟は言い切る。「すべてはきっとあの小屋に通じているんです」
ぼくは黙って彼女の言葉を聞いている。比喩ではない、と彼女は言うけどあくまでぼくは地に足をつけながら彼女の言葉を咀嚼する。
終着点。突き当たり。単純に考えればそれはつまり彼女の記憶の最後の瞬間を意味しているのだろう。世界が記憶によって形作られるのだと仮定すれば、意識の途切れる前、最後の瞬間をいろどるあのプレハブ小屋はまさに世界の最果てだ。
そして彼女は記憶を失う。そこで彼女の世界は明確に分断される。以前の世界からその次の世界へ。今現在彼女が生きる世界へ。しかしもしかすると次の世界という表現は正しくはないかもしれない。世界の側が彼女にとってその在り方を変えたという言い方だってできるしそれは可能性として確かに存在しているのだから。
けれど結局こんなものはただの言い方の違いだ。大事なのはあのプレハブ小屋が彼女にとってやはり何らかのキーになっているということであって他はささいな問題でしかない。意味のない疑問でしかない。現実に即していない。
「とにかくこの道を行ってみるしかない」とぼくは言う。「間違ってたら、その時はその時ってことで出直そう」
「そうですね」と櫟は言う。
それから数十分歩いてぼくたちはあの小屋を発見する。
昨日からさっぱり様子を変えずに小屋はたしかにそこに存在していた。立ち並ぶ木々はその小屋のためかのようにエアポケットを形成して自分たちと小屋とを区別していた。あれから一日しか経っていないのだし変化などあるわけないと言えばそうなのだけど、しかしぼくは思う。変わっていない。どうしても拭いきれないそういった印象をぼくは受ける。
プレハブ小屋に関して世界は時を止めていた。プレハブ小屋はそこに存在することで役目を終えていた。
終着点。櫟の言葉を思い出す。突き当たり。終点。果て。この印象がつまりそういうことなのだろうか?
「やっぱり終わってるんです」と櫟は小屋を見て言う。
「なにか思い出した?」
「いえ、なにも」
「……そう」
もちろんこの場所に来たからといって都合よく彼女の記憶がもどる訳も道理もない。わかりきったことではあったけどしかし多少肩すかしな感はある。
黙りこくりながらぼくたちは小屋に近づいていく。
ぼくは改めて小屋を観察する。白塗りの壁。傾斜も突起も見当たらない平べったい屋根。申し訳なさそうに取り付けられたサッシ窓。ぼくによって捻じ落とされたドアノブの持ち主たるスチール製のドア。それが小屋を構成するすべての要素だった。一見して小屋を特別なものとして仕立て上げる要素はなにも存在しないように思える。そして実際に小屋は何でもなかった。こんな森の深くにぽつんと突っ立っていることを除いてそれはただのプレハブ小屋でしかなかった。
手のひらでドアを押し開ける。小屋の室内はひどく閑散としていて照明はなく薄暗い。部屋の片隅に机がひとつ置かれている。ぼくは持参してきたスタンドライトをその机上に置いてスイッチをつけた。とたんに明かりが灯って小屋内の暗闇が追い払われるけれどやはり室内には何もない。
何もない。断言してから数秒遅れてぼくは気づく。一般的なものよりは多少細めの麻縄らしきものの存在にだ。櫟がここに閉じ込められていたころに座り込んでいたあたりにそれは当然のような顔をして垂れ下がっていた。天井からではない。壁面の真ん中あたり、だいたい成人男性の身長くらいの位置からフックにかけられてそれは垂らされている。
思い出すのは櫟の首筋にありありと刻まれた縊痕だ。横目で櫟の首元をうかがうとやはり彼女の首元についた跡とその麻縄の太さはちょうど同じくらいに思える。この二つの事実はなにを意味するのだろう? 彼女がこのプレハブ小屋で首吊りを試みたとでもいうのだろうか? そしてその結果の後遺症として彼女は記憶を失っていてそれですべてが解決というわけなのか?
あまりに安易な結論だ。だけど目の前の状況からいえばそれは現状ではもっとも妥当な答えなのかもしれない。少なくとも正体不明の誘拐犯が何らかの手段で彼女を拉致して何らかの目的で彼女をここに監禁して何らかの理由で彼女をそのまま放置してみすみすぼくのような子供に逃させたと考えるよりはよっぽど妥当だ。だけど本当にそれでいいのだろうか? 安易な結論に終着してそれで終わりにしてしまっていいのだろうか?
ぼくは何かに取り憑かれているのかもしれない。彼女がありふれた自殺志願者の少女である以上のことをぼくは求めているのかもしれない。異常性。ファンタジー性。なんらかの物語性をぼくは無責任に彼女に求めているのかもしれない。彼女が世界の外側に存在することをぼくは望んでいるのかもしれない。
「何もありませんね」と櫟は言う。まるでここに何もないことをあらかじめ知っていたかのように。ただその事実を確認するかのように彼女は言う。「何も変わらない」
「何も」とぼくは彼女の言葉を繰り返す。そうだ。ここには何もない。当然だ。終わりには何もないのだから。何もかもが残らず過ぎ去ったあとにあるものが終わりなのだから。
櫟はふらふらと引き寄せられるかのように机に近づくとその上に腰かける。背後のサッシ窓からうららかな陽光が光量こそ少なめではあるものの射し込んで彼女を照らしている。彼女がこちらのほうを見る。視線がぼくを射抜いて思わずぼくは彼女から目をそらす。彼女から? 陽光から? 違う。本当はぼくは何から目をそらしているのだろう?
ぼくは彼女に何を見ているのだろう?
「どうしようか」とぼくは言う。
「え?」
「いや、結局なにもないみたいだし」とぼくは麻縄のことに気づいていない体を装って言う。心とは裏腹のことを口に出して言う。
「ああ、はい、そうですね」と櫟は言う。まるでどうでも良さげな口調で彼女は言う。
「なんだよ」
「え?」
「自分のことだろ。なんでそんな無関心でいられるんだよ」
ああ。
最悪だ。
ぼくは八つ当たりをしている。麻縄から目をそらす自分自身へのいらだちを彼女に転嫁してしまっている。ぼくは彼女をぼく自身に見立ててそれを攻撃することで自分を慰めようとしている。口に出せない本心を代替行為によって表現しようとしている。
怒り。
代替行為としての怒り。
それに身を任せている。
「別に」と櫟は言う。「どうでもいいじゃないですか、そんなこと」
「……」
「なにか変わるんでしょうか。物事をはっきりして、それで」
「変わるだろ。たとえば……もとの家に帰れるかもしれない」
「でもここには結局なにもないじゃないですか」と櫟は言う。「なにもわかりません」
「なにかわかることがあると思うって言ったのは櫟だろ」
「でも今はわからない」
「今は?」とぼくは訊き返す。
「また今度来ましょう」と櫟は言う。「今日って何曜日でしたっけ?」
「土曜日だと思うけど」
「なら、明後日ですね」と櫟は言う。「明後日は月曜日です」
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