第3話

 櫟が押入れで寝てる間さていったい何をしようかと思ったもののさっぱり思いつかずにとりあえずぼくは悶々とすごした。だって戸は閉まっているものの押し入れの向こうには女の子が寝ていてそれは櫟でぼくの一目惚れした相手なのだから。中学生らしい惚れっぽさの初めて発揮された相手が同じ部屋にいるというだけでも不思議な状況なのにあいては無防備に寝ていてしかもそれを遮るのは押入れの戸一枚だけなのだから。

 いやいや待てよとぼくは頬をぴしりと打って己を自制しようと試みる。あけすけなわかりやすい性欲に頭を支配されている場合ではないだろう。考えなくちゃいけないことは山ほどあるし可及的速やかに用意しなくちゃいけないこともたくさんある。彼女の食料を用意しなくちゃいけないし両親に彼女が見つからないようにするためには彼らの行動パターンみたいなものを整理しなくちゃいけない。押入れの中だって布団一枚敷いているだけの今の状況のまま過ごしてもらうわけにはいかないし歯磨きはどうするのかとかトイレはどうするのかとか考え始めればきりがない。

 まずは一つ一つ起こったことを整理しよう。まず第一にぼくは森のプレハブ小屋で彼女を見つけた。ここからまず考えよう。そもそもなぜ彼女はプレハブ小屋に閉じ込められていたのか? わかりやすいところで言えばたぶん誘拐とかなのだろうけどそれではなぜ彼女は記憶を失っているのか? 誘拐された少女が記憶を失う理由はなんなのだろう? 心理的外傷つまりPTSDの一言で片付けるのは簡単だけどでは彼女はいったい何をされてその傷を追ったのだろう? 見たところ彼女が暴力を振るわれたような形跡はないしそれでは精神的なものなのだろうか? 考え出してぼくはいったんその思考を打ち切る。彼女が傷つけられているところをいくら想像したところでただ気分が悪くなるだけで何かがわかるわけではない。だいたい記憶喪失が誘拐によって引き起こされたという考えがそもそも早計なのだ。彼女は記憶喪失だったからこそ誘拐されたのではないか? そう考えることもできるしまったくありえないことではない。

 プレハブ小屋。彼女はなぜプレハブ小屋に閉じ込められていたのだろう? それがプレハブ小屋でなければいけない理由とはなんだろう? プレハブ小屋に閉じ込められていたという事実はいったい何を示すのだろう? 誘拐した少女を森の奥に置き去りにして殺すわけでもなく生かして置く理由がぼくには見当たらない。後々殺す予定でいったん放置していたとか家族へ身代金を要求しているため殺さずに生かしていたとかだろうか。というか彼女はいったいどれだけの期間あそこに閉じ込められていたのだろう? 見たところ着衣が汚れている様子はないし食料を食べていた形跡もないが彼女は平然としていて調子を崩しているようには見えない。とするとぼくは誘拐された直後のタイミングで運良く彼女を見つけたのかもしれない。だけどぼくがトンカチでトンテンカントンとずいぶん長い間やっていても犯人が現場に帰ってきてぼくの頭をハンマーでがつんと気絶させることはなかったのだ。犯人はいったい彼女を小屋に閉じ込めてどこに行ってしまったのだろう?

 あるいはこうした言葉なら事態を完結に説明できるのかもしれない。つまり神隠しだ。櫟は何らかのオカルト的な要因で小屋に閉じ込められ記憶を失い今こうしているのだ。そう考えれば事態は解決かのように思えるけどそんなことはたぶんありえない。ありえないことではないかもしれないけどあまりにぼくの取り扱える思考の範疇からは脱しすぎているし今その可能性について考えても仕方がない。現実的に考えるべきだ。

 けれど現実的に考えれば考えるほど事態はポケットに無造作に突っ込んだイヤホンのケーブルのごとく絡まっていってうまく解こうとしても余計に絡まっていく気がしてぼくは焦る。焦りは焦りを呼んでだんだんと訳がわからなくなってぼくはいったんその思索に中断をかけてベッドに寝転んだ。

 ベッドに仰向けになってシミひとつない天井をぼけっと見ているとだんだん気持ちも落ち着いてきて思考がクリアになってくる。しかしクリアになったはいいものの結局わけがわからないことには変わらなくて代わりに湧き上がってくるのはやはり女の子と同室にいるという事態への緊張だった。

 女の子がいるのだ、ぼくの部屋に。それもぼくが好きな女の子が!

 しかしぼくはなぜ櫟に一目惚れしたのだろう?

 一目惚れとはなんなのだろう? 表面的な容姿に心惹かれることなのだろうか? とすればそこに純真な恋愛感情はなくてただの性欲でしかないのだろうか? そもそも愛情と性欲にはどれだけの違いがあるのだろう? ぼくは正常な男だからもちろん性欲はあるしぼくの感覚でいえば愛情と性欲は切り離せないものだ。それでは愛情と性欲は紙一重の存在なのだろうか? しかし世の中には肉体関係を抜きにした親愛というのはいくつも転がっているのだし大体結婚して何十年も経って性交渉の一切ないおじいちゃんおばあちゃんになっても人と人は繋がっていられるのだ。トランスジェンダーなんかの存在に目を向ければそれはさらに明白だ。愛はきっと存在する。でも今現在のぼくは櫟に対する愛を持ち合わせているのだろうか? だってぼくは彼女と会ったばかりでまだろくに話もしてないし彼女の人となりもわかっていない。ぼくは彼女のことを心底好きだと思っているけどそれは愛情と性欲とをただ取り違えているだけなのかもしれない。

 ああくそ、櫟は誘拐なり神隠しなりに合って本当に大変な境遇にいるというのにぼくはそんなことばかりを考えてしまう。これもぜんぶ成長期の中学生というぼくの発達状況が悪いのだとぼくは自分を肯定してやる。そうでもしないと性欲しかないクズとしてぼくはぼくのことが嫌いになってしまうかもしれない。どうなんだ? ぼくは普通じゃないのか? ぼくだけがおかしいのだろうか?


 悶々として過ごしていると唐突に押入れの戸が開いて櫟が言う。「あの、枕がなくて寝られません」


 ぼくは慌てて枕を用意する。





 いくら女の子を一人部屋に匿っているからといって中学生たるぼくに学校をサボるという選択肢はとれず仕方がないので学校に行くことにする。実際サボったところで問題はないのかもしれないけど担任や親に怒られるのは嫌だしそれに今問題を起こしてなにかの拍子に櫟の存在がバレてしまうとも限らない。だからこれはたぶん間違っていない選択のはずだ。

 ぼくは櫟に学校に行くことと押入れからは極力出ないようにしてほしい旨、それからトイレの位置やらなにやらを伝え、学校に出発し、夕方になる頃に帰ってくる。授業中ずっと櫟のことを心配してうわの空だったせいで教師に叱られたことを思い出しながら押入れをノックすると櫟は「あ、おかえりなさい」と答えてぼくはなぜかまた緊張する。

 両親が帰ってくるのはもう少し後だ。落ち着いて話をするには今しかないと判断してぼくは櫟に詳しい事情を聞くことにした。

 櫟は畳の上でぼくの出した座布団にちょこんと座って所在なさげに視線をあちらこちらにやっている。その様子はサッシ窓から垣間見たときの彼女の様子にそっくりでせいぜい一日前の出来事だというのにぼくはなぜか無性に懐かしい気分になる。「ええと、とにかく櫟が覚えていることを何でも話して欲しいんだけど」


「櫟です」

「それは知ってる」

「でも、名前意外はなにもわからないんです。あとは、目覚めたらあの小屋にいたことしか」

「それについて聞きたいんだけど、櫟が小屋で目覚めてからどれだけの時間が経ってたの?」

「それもあんまり」

「あんまり? でも窓はあったからだいたいの時間の流れはわかるはずだよ」

「何度か日が沈んだり登ったりはしていた気がするんです」

「……」

「でも何日かと言われると困るんです。数え忘れていたとかそういう話じゃなくて、なんだか一日しか経ってないようにも一月も経っていたようにも私には思えるんです」

「一日と一月じゃいくらなんでも差が大きすぎるよ」


「でも、そうなんです」と櫟は強い口調で言い切って、言い切られたらぼくには反論なんてできやしない。


 考えられる可能性としては彼女は目覚めてからも混濁状態にあってそれ故に時間感覚が曖昧になっているとかだろうか。ぼくは一応彼女に確認をとることにする。「櫟は目覚めてから意識はしっかりしていたんだよね?」


「はい」

「目覚めてから小屋になにか変化はあったりしなかった?」

「わかりません」

「なにか足音を聞いたとかは?」

「わかりません」


 はっきり言ってこれ以上話を聞いていても新たに判明することはないように思える。櫟は彼女自身が言う通り名前以外のことはまったく覚えていないようだしぼくもあのプレハブ小屋について何かしっているわけではない。「困ったな」


「あの」とぼくが困り果てていると櫟が言う。「もう一度あの小屋に戻ってみませんか?」


「え?」

「あの小屋に戻れば、なにかわかることがあると思うんです」

「……たしかに」


 それもそうだ。彼女にまつわるものといえばあのプレハブ小屋しかない現状でその調査をしない手はない。ただひとつ心配なのは犯人が小屋から櫟が抜け出したことに気づいてぼくたちを待ち構えているとかそういった事態だ。非力な中学生たるぼくが大人の(予想でしかないけれど)男に勝てるとは思えないし逆上した犯人はぼくたちを殺すつもりで襲いかかってくるかもしれない。たとえぼくが大人だったとしても殺す気でかかってくる人間にはきっと敵わない。けれどそうした憂慮を抜きにすればぼくたちにはプレハブ小屋にふたたび戻る以外の選択肢はない。手がかりといえばこれしかないのだ。


 散々迷い、ぼくはプレハブ小屋に戻ることにして「わかった。行こう」と返答する。「今から?」


「はい」

「まだ疲れてるだろうし明日でも問題ないけど……」

「いえ、今からがいいんです」


「……うん、じゃあ今から行こう」またもや櫟に押し切られてぼくは頷く。


 そんなわけでぼくたちはひとまず小屋に向かうことになり、家を出るには玄関からというのが定石だけどもうすぐ親が帰ってくるかもしれない時間だということもあってぼくたちはふたたび窓から庭を経由して外へ出ることにする。

 ぼくが先に窓から降りてそれから櫟が恐る恐るといった様子で後に続く。窓に足をかけたせいで彼女の内ももが露わになってぼくはまた視線をそらすけれど今度ばかりは理性も太刀打ちできないようで視線が上を向き出す。幸いなことにぼくの部屋の窓は西に向かって取り付けられていて太陽はまだ沈みきらずに西の空に停滞しているからおかげでぼくは眩しさから自然に目をつむることに成功した。これほどに太陽への憎みと感謝がりつ然と並び立つような時はおそらくこれからないだろうなとぼくはくだらないことを思う。

 そのまま櫟は窓枠に腰掛けて両足をだらんと庭のほうに下ろし、ぼくは彼女がそこから飛び降りるサポートのために片手を差し出す。もう服がまくれることもないし太陽はさっきと今の間に素早く雲間に身を隠していたのでぼくは臆することなく上を向いた。櫟はぼくと目線が合うと少し微笑んでぼくの手をつかみ、えいやとそこから飛び降りようとした。

 瞬間ぼくは気づく。いったいどうして今まで気が付かなかったのだろう? 

 櫟の首筋にはまるで首吊り自殺を試みたかのような跡が残っていた。

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