第2話

 ぼくの住む町はほどほどに田舎でどの程度の田舎かといえばこうして森の奥にプレハブ小屋が隠れていられてそのうえ少女が一人そこに閉じ込められていても誰も気づかないくらいに田舎だった。だから朝方であっても人通りは割に少なくてぼくは彼女の姿を誰に見られることもなく家に帰り着くことに成功する。割に品行方正なぼくの初めての朝帰りがこんな形になるとは果たして誰に想像できただろうか。

 それからぼくは今更かもしれないけど親に家を抜け出していたことがバレていたらどうしようかという心配をする。どうしようかという心配を二、三周してそれから心配は恐怖に変わる。昨日ぼくが森に入ったのはもう一二時を回ろうかという時間だったので普段ならぼくは部屋でもう寝ているのだし母が気づいていない可能性は高い。けれどもしもバレていたら? それを想像するだけでぼくの中ではみるみるとげんなりした気持ちが形作られていった。脳内の感情をつかさどる何かしらの部位に何かしらの感情がたまっていき呼吸が乱れる。呼吸の仕方がわからなくなる。

 ぼくはとにかく怒られたくない。積極的に人から怒られたい人なんていないはずだがきっとぼくはその中でも得に人に怒られることが苦手な人間だ。どうして人はいつも怒っているのだろう? どうして人は人に怒るのだろう? それになんの意味があるのだろう? ぼくはいつもそんなことばかり考えている。だって怒られると悲しいし怖くてしかもその感情は三日も四日もそれこそ一生レベルでずっと心の奥底に沈殿してチクチクとタンタンと人生を支配してくるのだ。何より怖いのはその怒りによって起こされた悲しみや恐怖がいつしか自分自身の怒りにすげ替えられて自分自身が怒ってしまうことで、だから怒りは怒りを呼び寄せるんだとぼくは思っている。きっと誰もが怒らなければ怒りなんて感情は生まれなくて世界は平和になるとぼくはそう信じている。世界が平和でありますように。ぼくは口に出してその言葉を時々言う。世界が真に平和であればいい。ぼくは本当にそう思っている。


「それってなんですか?」とぼくの隣を歩く櫟が言う。ぼくは自分でも気づかないうちに口に出してその言葉を言ってしまっていたらしい。「世界が平和でありますようにって何ですか?」


「嘘。口に出してた?」

「出してました」

「口癖みたいな」

「口癖?」

「別にたいした意味はないよ」

「ふうん……」


 会話はそれで終わる。

 そのまま二人でたらたらと太陽の上り始めた田舎道を人目を避けつつ歩いているとやがてぼくの家が見えてくる。時刻的には母と父がようやく起きてくるくらいの時間だからあまり心配しなくても道端で鉢合わせることはないだろうけど念には念を入れてぼくは家の裏側から近づいていった。なぜか意味もなく忍び足になってしまい櫟はそんなぼくを不思議そうに見ている。

 ぼくの家はごくごく平凡な田舎の一軒家だから都会と違って土地代のわりに大きい。縁側の外には庭が広がっていてさすがに山水画のような風景が広がっているというわけではないのだけど草刈りがかなり億劫な程度には広い。ぼくの部屋にある窓はその庭に面していていつも換気のためにその窓は開けっ放しにされているからぼくたちはそこからこっそりと部屋に戻ることにする。家の裏側からブロック塀をよっこらしょと乗り越えて櫟にも手を貸してやって二人でそこを乗り越えてぼくたちは窓の下に立つ。予想通り窓は開け放されていて位置もあまり高くないから乗り越えるのは可能だろう。櫟が一人でよじ登るのは大変かもしれないがぼくが先に入ってしまえば問題はない。「じゃあぼくが先に上がるから、そのあと手を貸すよ」


 ぼくは軽く外の窓枠に手をかけてから部屋の中に手を伸ばして内側の窓枠に指をひっかけて思い切りジャンプし体の半分つまり上半身を部屋の中に入れるとそのままずるずると滑り込むようにして部屋に入る。少々不格好だけどとにかく目的は達成したのだから問題ない。

 それからぼくは窓下で待機している櫟に手を貸そうと思って彼女に声をかけようとして、そこで部屋のドアをガガガンガとめちゃくちゃに鳴らす音をぼくは聞き取って慌てて櫟の頭だけが映ってしまっている窓にカーテンをかける。最悪だ最悪だとぼくは何度も心の中でつぶやく。


 そのまま幾ばくかしてノックの音が止むと同時にぼくは山姥みたいなとまでは言わないけれどはっきりと怒っているだろうことだけはわかる表情を貼り付けた母親の顔を見てしまう。「あんたこんな時間までどこ行ってたの」


「いや、別に」「別にじゃないわどこ行ってたのか聞いてるの」「ちょっと外に」「ちょっとって時間じゃないでしょあんた嘘ついて」「嘘じゃないし」「嘘じゃないわけないでしょうちょっと外にこんな時間までほっつき歩く馬鹿がどこにいるの」「だから外行ってただけだって!」「逆切れしてんじゃねえよ!」「してないわ!」「してるでしょ!」「うるさいうるさい散歩してただけ散歩だよ散歩!」「だから嘘つくなって言ってるでしょ!」「あああもううるさい」「うるさいうるさいってあんたが馬鹿だから言ってるんでしょうが」「うるさいんだよ怒らないでよ!」「あんたのせいでうるさくしてるんだよ!」「だいたい別に心配なんてしてないくせに自分が気に入らないから怒ってるだけだろうるさいな」「あんたそれ本気で言ってんの」「そうだろうが!」


 なんてやり取りを四、五分続けて最後に母親が「あんたまた後で話聞くからな」と言って部屋を出て行ってそれでぼくはようやく一息つける。ぼくは自分のベッドのふちに腰かけて今の喧嘩でたまった悲しみとか辛さとかをゆっくり咀嚼してそれが体中を巡ってくるのを感じて苦しくなる。いやだいやだだから怒られるのは嫌なんだ、煙よりも迅速に気持ち悪さは血中に溶けていってその濃度は上がっていく。

 ぼくはそういえば櫟を窓下に放置したままだったことに気が付いて慌ててカーテンを開けると彼女に声をかけようとする。けれどそういえば今のやり取りを櫟にばっちり聞かれてしまっていたことを思い出してぼくは恥ずかしさから言葉が出ない。ぼくがぼうっとしていると櫟は「ねえ早く引き上げてよ」とぼくに促してそれでようやくぼくは目の前に差し出された手をつかむことに成功する。

 さて櫟を部屋に入れたはいいもののこれからどうしたらいいのだろう?


 考えようとするぼくに櫟は話しかけてくる。「なんで大声出してたんですか?」


「いやなんでもないよ」

「? なんでもなくないですよだって声に出して言葉しゃべってたら意味はあるじゃないですか」

「それはそうだけど別にたいしたことじゃないし」

「たいしたことじゃないのに大声出すんですか?」

「怒ってたからだよそれだけ」

「なんで怒ってたんですか?」

「なんでって夜中に家を抜け出して帰るのが遅かったからだよこんな時間だし」

「なんでそれで怒るんですか?」

「なんでって気に入らないんでしょたぶん」

「そうじゃなくてなんであなたまで怒ってたの?」

 訳が分からないことを櫟が言ってぼくはすっとんきょうな声をあげる。「え?」

「だってあなたも怒ってましたよ」

「いやべつにぼくは怒ってないし」

「でも怒ってました」

「……」


 櫟のいう通りたしかにぼくは怒っていたのかもしれない。それはたぶん怒りが怒りを呼び寄せたからだ。きっとぼくに怒る理由はない。でも怒りにあてられて怒りが起こってしまうことはあり得るのだ。たぶんそれはいつだって誰だって母親だって同じことが言えて怒りは理由に先行するものなのかもしれない。


「ふうん」と櫟はなぜか納得したような顔をして佇んでいる。


 ぼくは話を打ち切ってこれからのことを考える。何を優先するべきなのかを考える。まずは櫟にくわしく話を聞くところからだろうか? それよりも櫟をどこに隠すかを考えるべきなのだろうか? いや猫じゃあるまいし隠すなんて表現は不適切だろうか。しかしこの家に彼女を匿うのだとしたら必然的にその寝場所はこっそり拾ってきた犬猫を隠すような所になってしまうしというよりそもそも彼女はぼくの家で寝泊りすることを良しとするのだろうか? そもそも櫟には帰る場所があるんじゃないか? 森のプレハブ小屋に閉じ込められていたからといって家無し子であるとは限らないし普通人には一応の帰り場所くらいはあるものだ。もちろん彼女は彼女が言うには記憶喪失であるらしくてだから彼女が住んでいた場所を思い出すことはできないのだけどだからといってぼくが彼女を部屋に匿うことの理由にはならない。ぼくにすべきことはたぶんまず警察に連絡することだ。「あのさ」


 ぼくが言おうとすると彼女は食い気味に答える。「警察には言わないでください」


「え?」

「意味ないので」

「でも」

「お願いします」

「……」


 なぜ警察に連絡してはダメなのかその理由すら彼女は話してくれないがしかし頭を下げられれば受け入れるしかない。「わかったよ」


「ありがとうございます」


「とにかくこれからのことを考えよう」努めて明るい調子でぼくは言う。「まず君はどうしたいの?」なんとなく『櫟』と名前を呼ぶのは恥ずかしくてぼくは彼女に『君』という呼称で呼びかける。


 すると彼女はまた食い気味に言う。「名前で呼んでください」


「え?」

「名前でいいです。名前があるのに君だなんておかしいじゃないですか」


「ああ、うん。わかった」とぼくは了承する。なんだかさっきからぼくは彼女に会話において負かされてばかりだ。会話に勝負という概念があるのかはわからないけど要するに会話の場を支配されている感じがしてならない。「それで櫟はこれからどうしたいの?」


「どうしたのかと言われればよくわかりませんと答えるしかありません」櫟は言う。「ただ、時間をください」


「時間?」

「時間があればきっと私がどうしたいのか私自身わかるはずなんです」

「それはいいけど」

「だからどこでもいいので私をここにいさせてください」

「でもこの家に空き部屋はないしあったとしても親がいるから無理なんだよ」

「そうなんですか?」


「……」強いて言うならばぼくの布団を収納している押入れがあることはあるし彼女の体躯ならそこで寝泊りすることも可能ではあるけどぼくはそれを彼女に提案していいものかと悩む。けれど他に選択肢がないのも事実だ。ぼくのベッドを彼女に貸してやってぼくが押入れで、というのも可能性としては存在するけれどぼくの部屋には鍵がかかっていなくてだから急に母親に部屋に入られれば一巻の終わりだ。


 ぼくが悩んでいると櫟は言う。「押入れとかで構いませんよ」


「いやでもそれは」

「ここに居られれば別になんでも構いません」

「……わかった」


 ということで櫟の寝泊りする場所はぼくの部屋の押入れということに決定し、ぼくは中の布団やらなんやらを取り出したり敷いたりして彼女が就寝に使えるようにセッティングを進めて彼女が十分足を伸ばしてくつろげることを確認する。「これでいい?」


「大丈夫です」と言うと彼女は四つん這いになって実際に押入れの中に入っていく。彼女の来ているのはワンピースだからその体勢になられると足の太ももから先くらいがあらわになってぼくは思わず目をそらす。彼女の視線は押入れの奥のほうに向いているから別にマジマジと見たってバレやしないのだけど中学生らしい羞恥心がぼくを邪魔していた。


「では、ちょっと寝かせてください」押入れに入って櫟は言う。「だいぶ疲れているんです」


「うん。じゃあ、おやすみ」


 ぼくは答えて、そういえば女の子を部屋に入れるなんてこれが初めてだということに今更だけど思い至る。

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