さとりの娘

舞山いたる

第1話

 今にも崩れそうなそのプレハブ小屋はまるで人目につかない森林の奥にあってそれから頭がギリギリで届く位置に取り付けられた小さなサッシ窓を通してぼくは彼女を垣間見た。時刻は夜だった。一目惚れだった。色素の薄い彼女の印象はその窓の薄汚れにかき消されてしまうようでこのサッシ窓は彼女を世界から見えなくさせるためにあるのではないか、そんなことをぼくは思った。ぼくの視線に気づいているのかいないのか彼女は体育座りでただぼうっと虚空に視線をやっていてでもけっして彼女は虚空を「見て」はいなかった。他にやり場のない視線を仕方なくそこに向けている、ただそれだけだった。それからゆっくりと顔を動かしてこちらを見つめると彼女はほのかに表情を浮かべた。それがどういう表情なのかぼくには分からなかったが、しかし、その名前のない表情はとても魅力的な表情だった。笑顔や悲哀といった既存の名付けられた表情たちはみな彼女のその表情を生まれとしているのかもしれなかった。たぶんそれは過言だった。過言でも構わないとぼくは思った。あらゆる事柄は彼女の前で急速にその意味を失っていった。ぼくは彼女に一目惚れしていた。何が愛だよとぼくは今まで思っていた。愛がすべてとか中心だとかそんなものは戯言だと吐き捨ててきた。けれどその観念はたちまち霧散して残ったのは一欠片の立方体だった。そしてそれがきっと愛の形なのだろうと俺は直感した。しかしおそらく愛が戯言であるのも間違いではないのだ。ある人にとってはそうだしある人にとってはそうではない。たぶんそれは当然なことであって、それは世界が選択によって意味づけられていくからだ。とにかくぼくは彼女を目にして愛を選択した。同時に世界は急速に愛という意味を付与されてあり方を変えていった。

 それからぼくは彼女はどうしてこんなところに居るのだろうと今さらな疑問を覚えた。いや、彼女はどうしてこんなところに閉じ込められているのだろう? 考えすぎかもしれない。妄想がすぎるのかもしれない。けれどサッシ窓のキャンバスに写る膝を抱えて世界を眺めやる彼女の姿はあまりにもこの場に馴染みすぎていた。彼女はそのキャンバスにはっきりと囚われていた。

 もう一一月も半ばを過ぎて冬が近かった。何も考えずに家を飛び出したはいいもののアウターの一枚も着ずに来てしまったのはさすがに間違いだったな、とにかく寒いな、とぼくは歯をガタガタさせながら後悔して同時に彼女は寒くないのだろうかと思う。このプレハブ小屋に暖房器具のようなものはあるのだろうか? 見たところ彼女は薄いワンピース一枚しか着ていなかったし、もしも暖房がなければ尋常ではない寒さのはずだ。

 とにかく必要なのは意思疎通というかコミュニケーションというかそういったものだ。このままここで彼女を眺めていたところで始まることなんてほとんどない。ぼくは「あーあー」だとか「おーい」だとか声に出して彼女に呼びかけてみるものの反応は薄く、そもそも彼女はさっきから一度もこっちを見てすらいないし、たぶんこのサッシ窓には何か細工がなされているのだろうと考えつくけど、外側からだけ一方的に見ることのできる仕掛け窓というのもおかしなものだ。

 などとぼくは考えていたのだけど唐突にサッシ窓の中の彼女は首を持ち上げてぼくの姿をその両眼で捉え、そして目と目が合った。瞬間、ぼくは身体中を緊張させて挙動は不審になりぼくと彼女の視線は交差して重ねって交差してを繰り返す。ぼくには一秒だってまっすぐ彼女と視線を合わせることは不可能なようだった。だというのに彼女は一度顔をこちらに向けてからそれを少しでも反らすことをしない。息継ぎの時間がほしいとぼくは願う。頼むからその視線を外してくれ、とぼくは思う。彼女の視線はこちらを見透かして射抜くようでひどく甘美であるとともに痛々しかった。視線が痛いなんて言葉が甘美なんて言葉とともにあるのはおかしなことだろうか。しかしたしかにぼくの中でその二つの語句は並び立っていたのだ。

 とにかく今彼女はぼくの存在を認識したのだ。まだこの場にはわからないことばかりが散らばっていたがしかしそれはたしかな事実なのだ。だからぼくは気を取り直してまた彼女に声をかける。「おーい!」とか「ねえ!」とか思いつく限りの言葉をぼくは投げかけるがしかし彼女から反応は帰ってこない。やはりこちらの声は向こうには届いていないのだろうか? 最後にぼくは「君はここに閉じ込められているの?」という言葉をそれが向こうに届かない前提で発したが、やはり反応はない。間違いなくこちら側と窓の向こうとでは音は断絶されているようだった。

 それでもぼくは何か反応が欲しかった。まったく個人的な問題としてぼくは彼女との交流を求めていた。もっと彼女に認識されたかった。声が届かないのなら文字はどうかとぼくは思案してしかし紙もペンも手元にはないことを思い出して断念する。ならばこちらの姿が見えていることを利用して手話か何かで意思の疎通を図ればいいのではないかと考えたが、そもそも手話なんてぼくはできない。だからぼくは妥協に妥協を重ね、彼女に手を振った。一般に『さようなら』をするときのあの動作。サッシ窓に手をかざして彼女によく見えるよう位置を工夫しながらぼくは手を振る。しばらく続けても彼女はただ首をかしげるだけで何も変化を見せなかったのでぼくはいったん家に帰ることにする。


 ぼくは家から紙とペン、それからライトを持ってきてまたプレハブ小屋に帰ってくる。

 時刻は夜闇をさらに深めて真夜中だった。丑三つ時すらもう過ぎ去ってライトなしでは手元すらまともに見えないし、家から持ってきた万年筆なんて使えようがない。

 奮発して購入したモンブランの万年筆。三万という値段は中学三年のぼくにとっては相当な高値だった。当時といっても三ヶ月ほど前のことだがかなりの部分を勢いに任せて購入したのを覚えている。といってもその後まともに使うことはなく学習机の肥やしになっていたのだからお笑い草だ。しかし結局こうして使う機会を恵んでやることができたのだから世の中に無駄な買い物なんてないんだなとくだらない結論をぼくは出す。

 さて、紙としてスケッチブックを持ってきたはいいが、いったいどんなことを書けばいいのやらとぼくは悩む。とりあえずスケッチブックの一ページ目を開いてウンウンと悩み抜いた末にぼくは「君はどうしてここにいるの?」と書いてそれを彼女に見せる。彼女はスケッチブックとそこに書かれた文字の存在に気がついてはいるようだが何の反応も返さない。どうしたのだろうとぼくは不思議に思うがすぐさま「どうして?」などと具体的なことを問う形式で彼女に見せたところで、向こうからこちらへのコミュニケーション手段は限られているのだから答えを伝えようがないということに気がつく。ぼくは頭を何度も叩いて自分の頭の悪さ加減を責め立てた。いったいぼくは何をやっているんだろう。少しばかり冷静さを欠いているようだ。

 改めてぼくは文章を作る。

『君がなぜそこに座っているのかはわからないけど平気じゃないなら』

 そこでぼくは右手をあげて彼女にそれを見せる。

『こうやって真似してくれればぼくはきみを助けたいと思っています』

 しかし彼女は小首をかしげるばかりで、どうしたものかとぼくは悩む。まさか文字が読めないのだろうか? スケッチブックに興味自体は示しているがもしかすると絵か何かだと思っているのかもしれない。

 瞬間、ぼくは目をみはる。それは彼女が立ち上がったことに対してだった。彼女が上半身を動かすレベルの大きな動きを見せたのは初めてで、とにかくぼくは驚く。大きく身体を動かすと彼女の長い黒髪は大きく揺れ動いてますますその美しさを増すように感じられた。

 あわててぼくは文章を追加で作る。今度は簡潔に『ここから出たい?』と。

 彼女はこくりとうなずいた。


 ぼくがペンチやらニッパーといった工具を持っていないうえに非力な中学生であることに気がついたのは彼女の頼みに応えてドアノブに手をかけたその瞬間のことだった。鍵がかかっている。当然予測出来ていたことだが改めてぼくはショックを受けた。いったい誰がこんなことを? 何のために? なぜ彼女が?

 ぼくはまたサッシ窓のほうへ戻ると『ちょっと待ってて。道具を持ってきます』という文言を彼女に見せて家に戻った。それから思いつく限りの工具らしき工具をバッグに詰め込むとぼくはプレハブ小屋まで戻ってきてとにかく金づちでドアノブをトンテンカンテンとやりノコギリでギリギリギリとやりペンチで挟んではギギグリググとひねった。開け! とその一心で不格好にぼくはトンテンギリギリググガガと作業を続けた。気がつけば夜も明けて空には朝日が登ろうとしているし、常識的に考えればもう今すぐにでも帰らなければならない時間なのだろう。ぼくはそういった諸般の事情をいっさい無視して作業に没頭した。一刻もはやく彼女を助け出したい、とぼくの心にあるのはそれだけだった。

 二〇分ほど同じような動きを繰り返したところでガコンという音とともにドアノブが地面に落ちて、ぼくはようやくこの格好悪い作業に終わりが来たのだとホッとする。それからぼくはドアノブに手をかけようとしてそれがもう切り落とされた後だということに気が付き、普通にドアを押してそのプレハブ小屋の扉を開けた。

 そしてぼくと彼女とは目を合わせた。目の前にいる彼女はプレハブ小屋のサッシ窓を通して見るよりもはるかに美しかった。長い黒髪。ぼくと同じくらいの身長。そうして彼女の容姿を再度確認すると、なぜ彼女はここに閉じ込められていたのだろうという気持ちが再度蘇ってきた。そしてここであまりゆっくりとしていると彼女をここに閉じ込めていた誰かがこの場へ帰ってくるのではないかとぼくは不安に駆られた。

 などとそんな心配事ばかりしてしまうのは彼女が美しすぎるからに違いなかった。


「……ありがとうございます」と声がしてそれが彼女のものであると気がついたのは三秒ほど経ってからのことだった。「扉、壊してくれて」


「いや、別に、その」

「櫟です」

「え?」

「私の名前……です」

「櫟……」

「たぶん、ですけど」

「たぶん? どういうこと?」

「……わからないから……」

「わからない?」


「わからないんです。何もかも。なんでここにいるのか。どうして櫟という名前なのか。自分が今までどうやって生きてきたのか。どうしてあなたが助けてくれたのか。どうして……」続く言葉は小さくかすれて聞き取れなかった。「ぜんぶ、ぜんぶ」


「きれいだと思ったから」とぼくは思わず口走ってわずかに後悔して、でも結局すべてを言い切る。「君を見てきれいだと思ったから助けた。少なくともぼくがどうして君を助けたのかについては、これが答えだと思う。間違いなく」


 ぼくは言い切る。たぶんこの言葉に間違いはない。ぼくが疑いようのない真実を言っているのだということがはっきりと彼女に伝わればなんて楽なんだろう、心がそのまま彼女に伝わればなんて楽なんだろう、とぼくはありえない夢想を繰り広げる。


「知ってます」と彼女はすぐに応える。

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