Scene 1(5/5)

 午後の数時間は、あっという間に溶けて、消えてしまった。

 今度は人事部の研修があるとのことで、昼食を終えてデスクに戻ると、シロはまたすぐに執務室を去ってしまった(当然、シロの帰着を今か今かと待ち構えていた乙女たちから、悲嘆の声が漏れた)。席には再び紺色のジャケットだけが残され、主不在のデスクに、そっと彩りと、シロの残り香を添えた。

 午前中、碌に仕事をしなかったツケが回ってきたのだろう。流石の乙女たちも、いつまでもときめいてばかりではいられなかったようだ。午後は皆、忙しそうに手を動かしていた。他人事のように言っているが、俺も当然、いつもより忙しい数時間を送る羽目になった。

 もちろん、中でも圧巻だったのは藤崎さんだ。鬼神のごとき表情で五十ページ近い英文契約書に修正を入れるその姿は、近づくものすべてを黙らせる圧倒的な迫力があった。法務室における伝説として、きっと後世に語り継がれることだろう。

 そんなこんなで、まだ仄明るい、夜の七時過ぎ。俺たち法務コンプライアンス室一課のメンバーは、無事全員そろって、駅前のイタリアンバルにある大きな木のテーブルを囲むことができた。


「それでは、城田さん、改めまして、ようこそ一課へ。乾杯」

「かんぱーい!」


 かちゃん、かちゃん。グラスのぶつかる涼しい音が、ジャジーな店のBGMを飾る。おおっと、泡がこぼれそうだ! 俺は慌ててグラスを口元に運んだ。行儀は悪いけど、すするしかないよな。ずずっ。うーん、舌の上でとろっと消える豊かな泡に、芳醇な麦芽の香り。うまいっ!

 落ち着いているが暗すぎない内装のこの店はビールの取り扱いが豊富で、主にそれゆえに大酒豪の田中さんが率いる我ら一課が社外で集まる際の定番の会場となっている。周りの客たちの会話、食器がぶつかる楽しげな音、そして店の奥から聞こえる、何かが焼ける美味しそうな音が混然一体となって、聞いているだけで居心地の良い雰囲気を作り上げる。

 田中さんの采配で、藤崎さんと古字さんは、万が一にも手を出すことが無いよう、シロの対角線上に配置された。それはそれで得だよな、なんてったって、前を向いてりゃ常にシロが視界に入るんだぜ。

 ただ、そのおかげで(?)シロの左隣に座ることになった俺は、正直気が気ではなかった。

「あっ」

「ぬちやたっ!? ……あ、なんでもないです」

 ほらな! 左利きのシロの左隣に右利きの俺が座ると、不意に手がぶつかるんだよ。ううっ、どちらもシャツの袖をまくっているから、シロの素肌を直に感じてしまった……こんなんじゃ、この先生き残れる気がしないぜ……。

 変な声を上げてしまった恥ずかしさを紛らわすために、ビールをグイッと、もう一口。ぷはーっ。一日中、張りつめ続けて疲れた心と身体に、苦味がじゅわじゅわ染みていく。


 さて、歓迎会ということで、俺たちはまず、シロに対して自己紹介をすることになった。


「改めて、私が課長の田中です。入社したのが九十云年だから……あらやだ、たぶん、城田さんが生まれたころから、ずっとこの会社で働いてることになるかしら……」


「前村です。インハウスの弁護士です。僕は三年前に中途入社していて、そういう面でもサポートできると思うので、なんでも相談してください」


「藤崎萌音です、よろしくお願いします! 主にライセンス系の契約全般と、最近はコンプライアンスの仕事も少し手伝ってます。えっと、趣味は読書とお料理で……ちょっと、橘、何笑ってんのよ!」


「古字です、入社して、今年で十年目になります。え、あと、何言えばいいんですか……趣味は、特にないです。よろしくお願いします」


「橘風太です。はい、次」


「入社二年目の加島隼人ですっ。群馬出身で、特技は上毛かるたです。よろしくお願いしまーす」


 シロは、俺以外の一人一人のあいさつに合わせて軽く頭を下げながら、分け隔てなく笑顔を振りまいた。サービス精神、旺盛すぎなんじゃねーの? ほら、いつもはどれだけ飲んでも顔色一つ変わらない藤崎さんと古字さんの顔が、もう、茹でダコみたいになってるぜ。

 一課のメンバーは、もともと六人。課長の田中さん、課長補佐の前村さんがいて、その下に藤崎さん、古字さん、俺、加島がいた。去年までは古字さんと俺の間にもう二人生え抜きの人たちがいたのだが、ここ一年で立て続けに転職していってしまったんだよな(あくまで偶然が重なったもので、会社の業績自体はむしろ伸びているから、そこは心配いらないと思うんだけど)。今回シロが採用されたのは、その穴を埋めるためなのだろう。実際、ここ最近、チーム全体の負荷が高かったから、頭数が増えたのはとてもありがたい。問題は、入社してきたのが、たまたま「俺が昔好きになってしまった男」だったということだけだ。

 グラスを口に運びながら、その「俺が昔好きになってしまった男」をそっと盗み見る。うげ、目が合った! げほ、げほ。

「なんだよ、風太」

「なんでもねーよ……ただ、目がそっち見ただけ」

「ははっ、なんだよそれ。意味わかんね」

 ……我ながら、意味が分からない言い訳だったと思う。ううっ。こいつと一緒だと、調子が狂うな。

「でも、本当に、めっちゃくちゃ男前っすね、シロさん。芸能人みたいで、タッチーさんがつい見ちゃうのもわかります。いいなー、モテるんだろうなー」

 左隣に座った加島が、俺の肩越しにテーブルに身を乗り出すようにしてシロを見つめながら言った。その眼差しは、尊敬と羨望の念に満ち溢れている。そういやこいつ、モテ研究に余念がなかったな。

 丁度いい機会だ。こういう時、シロがなんて返すか知ってるか?「カッコいいですね」「モテますよね」に対する切り返しは、「そんなことないですよ」が一般的だが、シロの顔でそんなこと言われても、逆にイラっとするだろ。そこでシロは、学生時代、ある回答にたどり着いたんだ。


「ありがとう」


 ぐぅの音も出ない。一体どれだけの自信があれば、その回答を嫌味なくさらっと成立させられるんだろう。


 歓迎会は和やかに、楽しく適度に盛り上がった。大皿で運ばれてきたサラダをここぞとばかりにとりわけ始めた藤崎さんが「苦手な食べ物とかありますか」と訊いたのを皮切りに、シロに対する質問大会が行われた。以下、ダイジェスト版をインタビュー形式でお伝えしよう。


――好きな食べ物は何ですか。

城田 肉が好きですね。シュラスコとか大好きです。


――休日はどう過ごされますか。

城田 予定がないときは、お酒を飲んだり、音楽を聴いたり。家でのんびりすることが多いです。


――インドア派ですか。

城田 どちらかというとそうかもしれないです。あ、でも、前に住んでいたところは近くに大きな公園があったので、草や花を見に、よく散歩していました。


――草や花を?

城田 そうです。肉が好きって言った直後だと、ちょっと変だなって思いますけど(笑) 部屋に飾ったり、写真を撮ったりして、楽しんでいます。


――今はどちらにお住いですか?

城田 実は、引っ越しが急だったので、今は一時的に近くのマンスリーマンションを借りています。


――ところで、今、お付き合いされている方は……

田中 古字さん。駄目よ、訊くのは。

古字 す、すみませんっ。


 ほら、和やかだろ? 前回の飲み会みたいに、「酒飲める男はモテるっすよね」とか言って田中さんの飲むペースをこっそり真似しようとした加島がぶっ潰れることもなかったし、藤崎さんと古字さんがこれまでに払ったご祝儀の額を計算し始めて落ち込むこともなかった。

 強いて挙げれば、最後の古字さんの質問に対してシロが笑いながら「いません」と答えた時に無性に叫びだしたくなり、唇を噛んで耐えたせいで、さっきから口の中に血の味がする……。その時は、藤崎さんは今にもトイレに駆け込みたそうな顔をして手の甲をつねっていた。多分、俺も同じような顔をしていたはずだ。


 夜空では月が優しく輝き、蝉の代わって、コオロギがりぃりぃ鳴いている。

 街路樹の葉を鳴らす夜風が、通りすがりざまに俺たちの頬を撫でていく。街灯はポツンポツンと道を照らし、そこを進む俺たちの顔に奇妙な陰影をつける。


 シロと俺は今、二人で、夜景の中を歩いていた。


 ここまでくるともう笑うしかないのだが、シロが一時的な居を構えているマンスリーマンションは、当然のように我が家と同じ方面にあった。そういうわけで、歓迎会がお開きになった後、俺たちは酔い覚ましも兼ねて、二人してひんやりとした夜道を歩くことになった。

 シロは、初めての場所に少し緊張したような様子で、だけれども弾むような足取りで、俺の少し前を鼻歌交じりに歩いている。ずいぶんと楽しそうだな。

「シロ」

「ん?」

 呼びかけると、シロはくるり、と振り返った。立てば芍薬、座れば牡丹。ジャケットを小脇に抱え、街灯の光を受けて白く輝くその姿は、闇夜に咲く月下美人の花のようだ。


「どうだった、会社は」


 投げかけた他愛もない質問は、湿度の高い夜の空気の中をしばらく漂った後、音を立てて通り過ぎる車のヘッドライトに照らされた。シロは後ろ向きに歩を進めながら、「んー、そーだなぁ」とつぶやく。

「今日は研修ばっかりで雰囲気わからなかったけど、とりあえず、楽しそうなチームだなって思ったよ」

 そう言いながら、シロは足元に小石を見付けると、何回かつま先で蹴ってから、俺に向かって転がしてきた。小石は、独特のリズムで跳ねながら、俺の足元に正確にたどり着く。ナイスパス。そういやこいつ、中高はサッカー部だったよな。

「そっか、そりゃよかった」

「みんな仲がいいし、お互いをリスペクトしてる感じがした。おれも、早くその一員になれるように、頑張らないとなって思った」

「……シロなら楽勝だよ」

「ホント? 馴染めなかったら、風太が責任とれよ」

「責任とるって、何しろっていうんだよ」

「えー、何してもらおうかなー」

 ああ、懐かしいな、この感じ。ただ一緒にいるだけで胸がいっぱいになるような、この感覚。


「シロ、変わんないな」


 シロは、四年経っても、変わらずにシロだった。俺が初めて好きになった人。そして、俺が一番大好きになった人。シロは「そーかな」と笑ってから、ふと足を止めた。

「風太は、ちょっと変わったよな。あ、もちろん、いー意味で、だけど」

「そうか?」

「うん。なんつーか、大人っぽくなった」

「……悪かったな、老けて」

「そーいうんじゃないよ。かっこよくなったなって」

「言ってろ」

 ケラケラと笑うシロめがけて、思いっきり石を蹴とばす……が、残念ながら、小石は歩道の溝で跳ね、方向に飛んで行ってしまった。それを見たシロは、今度は手を叩いて笑い始めた。ちくしょう、こんなに悔しいことがあるかってんだ。悪いのは俺の運動神経じゃなくて、レンガ敷きで小溝が多い、この歩道だろう?

 シロは、その耳触りの良い声でしばらく笑った後、すらっとした指でまなじりを拭いながら息を整えていた。


「あー面白かった。じゃ、おれ、そこだから。また、明日な」


 そう言うなり、シロはくるっと俺に背を向けると、肩越しに右手をひらひらさせながら、路地の奥へと消えていった。嬉しそうな鼻歌が、だんだんと遠くなる。


「おう、また明日」


 また明日、か。オウム返しにつぶやいたその言葉が出ていったあと口の中に残った空気の塊を舌に乗せ、飴玉のように転がしてみた。そうだよな。明日からもまた、シロと一緒にいることができるんだな。胸の中に、なんだか温かいものが、じわっと広がる。

 シロ。お前の言うとおりだよ。俺にもあれから色々あってさ。知ってたか? 三ヶ月も会わなけりゃ、一人の人間を構成する細胞なんて、ほとんど全部新しくなってるらしいぜ。

 俺は、スマホの通話履歴から、とある連絡先を選択した。コール音は、四回目の途中で途切れる。

「もしもし」

 響きの深い低い声が、スピーカーから流れ出る。それを聞いた瞬間、何故だか、涙腺がヒリヒリと熱くなった。

「もしもし、俺だけど……遅くにごめん」

「うん」と、穏やかな声が相槌を打った。俺は、むずむずする鼻を啜ってから、言う。

「ねぇ、今から、行ってもいい?」



 大通りから少し横道に入ったところにある、築浅のマンションの玄関。インターホンに五・零・五を入力し、通話ボタンを押すと、スピーカーから物音だけが聞こえた。次の瞬間、モーターの駆動音とともに、目の前のガラス戸が開く。何も言わないのも悪い気がして「おつかれ」とだけマイクに吹き込んで、降りてきたエレベーターに乗る。

 通い慣れた部屋のドアノブを回すと、いつも通り鍵はかかっていなかった。扉を開ける。すん、と、清涼感のあるサボン系の香りが鼻をくすぐる。

「来たよ」

「おー、こっちおいで」

 暗い廊下の奥で磨りガラス越しに光る部屋から、落ち着いた、よく通る声がする。併せて聞こえる音から察するに、テレビゲームでもしているのだろう。俺はドアに鍵をかけると、靴を脱いで、家主の大きな靴の横に出船に揃えて置いた。廊下に置かれた冷蔵庫が、低い機械音を鳴らしている。

「アイス買ってきたけど、今食う? 後でにする?」

「んー」

 ゲームの音が止まり、磨りガラスの向こうで人が立ち上がるのが見えた。一八ニセンチのシルエットが近づいてくる。ガチャリ。扉が開くと、体格の良い美丈夫が、トランクス以外何も纏わない出で立ちで、目を擦りながら立っていた。

「なんのアイス」

「ハーゲンダッツ。ラムレーズンと白桃あるけど、どっちがいい?」

「こんな時間に? 太りそう」

 男は俺に近づくと、片方の手を俺の腰に回し、もう片方の手で俺が持っていたビニール袋を奪い取った。シャワーを浴びたばかりなのだろう、しっとりとした上裸の体からは、廊下に漂う爽やかな香りをギュッと濃縮した、甘い匂いがした。


 布越しに、熱を感じる。


「じゃあ、ラムレーズンと一緒にお前を食べて、白桃は後で一緒に食べよっか」


 腰に回された手が背筋を伝って首に到達し、男の整った顔が近づいてくる。


「いいね、それ」


 俺も、自分の手を相手の首と腰に回して、少しだけ背伸びをするように、唇を啄むキスをした。俺から、相手から、また俺から。歯列をなぞる様に、温かい舌が入り込んでくる。舌が絡まると、どちらのものかもわからない唾液が、口内で艶のある水温をたてる。

 ビニール袋を奪い取った大きな手が戻ってきて、俺の胸元を滑るように動く。シャツのボタンが、ひとつ、またひとつと外されていく。

「ん……っ」

 歯を磨きたい。シャワーを浴びたい。アイスを冷凍庫に入れたい。でも、そんなこと、どうでもいい。全部、考えるのはやめよう。

 シロのことなんて、考えるのはやめよう。

 酸素が足りずクラクラし始めたころ、唇が解放された。大きく息を吸い込みながら見上げると、男は困ったように微笑んで、俺の髪をゆっくり撫でた。くすぐったいような、ぞくぞくするような感じが、全身を駆け巡る。


「それで、オレの王子様は、今宵は何をご所望で?」


 髪をなでていた長い指が、側頭部を伝って耳を弄び、そのままつーっと輪郭をなぞって滑る。思わず顎を上げると、指は顎の下を通り、喉の隆起をいつくしむ様にまさぐった。

 甘い熱が身体の奥からせりあがってきて、漏れ出た分が吐息に交じって排出される。全身が熱い。気持ちがはちきれそうだ。早く、この邪魔な服を脱いでしまいたい。


 気が付けば、俺の口が、理性の指示なく勝手に動いていた。


「めちゃくちゃに抱いて」


 男はニヤッと笑うと、ボタンを外し終わった手で俺の左手を持ち上げて、その甲にそっとキスを落とした。

「仰せのままに。何回イケるか、数えてみようか」

「それ、平日の夜にやること?」

「オレは有給余ってるからね」

「さすがホワイト社畜」

「なにそれ」

 手を引かれるようにして、奥の部屋へと向かう。なんてことはない、単身用のワンルーム。許可も得ずにセミダブルのベッドに腰をかけると、男は天井の明かりを消して光源を間接照明だけにして、俺の肩をそっとマットレスに沈めた。

「口、開けて」

「ん……っ!」

 唇が再び近づいてきたと思うと、口移しで、冷たく、甘いものが差し込まれた。濃厚に甘いその塊は、絡み合う舌の熱で溶けて、口の端から溢れていく。


 俺の意識も、どろどろに溶けて、沈んでいく。もう、何も考えることができない。ただ、俺に覆い被さる筋肉質な身体を、手で、耳で、舌で感じることしかできない。ベルトが外され、がっしりした手がお腹の上に滑り込んでくるのを、感じることしかできない。


「好きだよ、風太」

「俺、も……好き……」


 甘くて、しょっぱくて、冷たくて、暑くて、ベタベタして、ぐちゃぐちゃ。

 窓の外では、夏の夜が、ゆっくりと更けていった。

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風とひまわり The Wind and The Sunflower 御馬楠セカイ @bucket_prince

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