Scene 1(4/5)

 思い返してみれば、その気持ちがいつ始まったのか、わからない。気が付いたころにはシロのことが大好きだったし、それが友情と呼ぶべきものではない感情だということにも、最初から薄々気付いていた気もする。

 

 中学一年生で同じクラスになった時からずっと、明るくて綺麗なシロは誰にとっても特別な人間で、先生や周りの大人たちを含め、みんなから愛されていた。みんなが好きなのだから、自分もシロを好きになるのは当然だと思ったし、そこになんの疑念も抱かなかった。


 だから、身体が二次性徴を迎え、異性ではなく、同性に対してやんわりとした性的興奮を覚え始めたときも、単純に、仕方のないことだと思った。シロはそれほどまでに特別な存在だから、それは極めて普通のことで、自分の性的指向が他の多くの人のそれとずれているとは、到底思わなかった。


 中学生、高校生のころは、その程度の緩やかな性自認でなんの問題もなかった。というのも、中学も高校も男子校で、周囲の友人たちも皆、性に関して漠然とした知識しか持ち合わせていなかったからだ。

「付き合いてぇ」「ヤりてぇ」ほとんどの者にとってそんな話にはなんのリアリティもなく、完全なるファンタジーだった。

 自分にしたって、当時、周りの異性といえば、母親と二人の姉、それに時折シロを見に来る厄介な他校の女の子たちくらいしかいなかったから、いつの日か、周りに女の子がいることが普通になったとき、自分も「恋」をして、女の子に対して性的な興奮を覚えるようになるのだろうと、ぼんやりと感じていた。


 ところが、大学に入って、周囲に女子が増えてしばらくしても、自分の性に対する見識は、ピントのずれた写真のようにぼんやりとしたままだった。付き合った、別れた、ヤった、ヤれなかった。周りの人間の性認識が加速度的に解像度を上げていく様を見聞きしながら、自分はただ、ぼやけた世界で立ち止まっていた。ただ、シロの隣にいて、だんだんと自分の中でもやもやした感情が成長していくのを感じるだけだった。

 ある日、気まぐれに参加したクラス会で、酔っぱらった女の子たちが、シロについて話しているのを耳にした。中には、クラスで一番可愛いとされている石上さんの姿もあった。


――A組の城田くん、ヤバいよねー。なんとかしてお近づきになれないかなー。

――わかる! まだ彼女いないって、本当に奇跡だよね。誰かに取られたら寝込むわー。

――好きな人とか、もういるのかな? 早めにアタックした方がいいよね?


 その瞬間、もやもやした感情の正体がわかった。


 シロは、どんな女の子と付き合うのだろう。


 これまでも、シロが女の子からアプローチをかけられるのはさんざん見てきた。ただ、それまでの俺はあまりに子供で、「シロが誰かと付き合う」ということが、なにかの冗談にしか思えなかった。

 ただ、この時初めて、シロが女の子のことを好きになり、その子と付き合う、という可能性が、むしろ既に起きていないことがおかしいくらい高かったという事実に気が付いた。気が付いてしまった。


 シロに、大切な人ができる。

 シロが、俺から離れてしまう。


 心臓が、万力か何かで潰された。

 そして、その潰れた心臓から、自分がシロに対して抱いている感情が飛び出して、その正体が浮き彫りになった。


 それは、尊敬とか友愛とかきれいなものではなく、独占欲と性欲の絡まった、赤黒く、ぬめぬめしたものだった。


 手。つなぎたい。ただの握手じゃなくて、指と指を絡めて、ベッドに押し付けたい。

 キス。したい。あの、よく笑う、形が良くて柔らかそうな唇をむさぼり、息もできない濃厚なキスをしたい。


 セックス。したい。とてもしたい。被服をはぎ取り、薄く色づいた肢体をぎゅっと抱きしめ、ゼロ距離でつながって、シロの体温だけで汗をかきたい。


 一度気付いてしまうと、もう止まらなかった。俺は、適当な理由を作って飲み会を切り上げると、帰宅して真っ直ぐ自分の部屋に向かい、自己嫌悪にむせび泣いた。脳は勝手にシロのあらゆる痴態を想像し、身体はそれに呼応するかのように温度を増すと、血液を局部に集中させた。そして俺は、尽き果てるまで、何度も何度も手淫を繰り返した。


 この日、俺は、自分自身に対して何年も誤魔化してきた真実に、ようやくたどり着いた。

 自分は、同性であるシロのことを、性的に好きになっていた。



 それからというもの、シロの「親友」であることは、天国であり、同時に地獄であった。

 シロと俺の距離は、元から、友人というには近すぎるものだった。親の転勤をきっかけに一人暮らしを始めたシロのアパートには、当然のように俺の歯ブラシや寝間着が置かれていたし、月に二、三回のペースで、俺たちはシングルベッドで二人身を寄せ合って寝ていた(その様子を聞いたミサは「え? 二人、付き合ってんの?」と言うくらいだった)。

 俺が自分の気持ちを自覚してからもその関係は続き、俺の中のシロに対する感情は、ある一定の基準まで疑似的に満たされていた。学校では同じ授業を取っているし、バンドもある。意識しなくても、一緒にいられる。もうずっと、このままでもいいと思っていた。

 一方で、いつシロに本物の彼女ができてしまうのか、俺は常に気が気ではなかった。

 擬餌で満足させていたとはいえ、心の飢えは少しずつ大きくなっていき、このままでは、いつか自分が壊れてしまう気がして、怖かった。


 ある日戯れに、シロに対して、好きだよ、と伝えてみた。

 シロは、綺麗な顔でいつものようにのんびりとほほ笑んで、ん、ありがと、とささやき返した。


 月日がたち、俺たちはいびつな関係のまま、大学四年生になった。就職活動も終わり、授業もほとんどなく、人生の夏休みともいうべき一年が、幕を開けた。

 俺の人生で、一番幸せな時期だった。遅くまでバンドの練習をして、そのままシロの家に転がり込む。それぞれの好きな酒を飲んで、他愛もない話で盛り上がって、ゲームで遊んだり、曲を作ったりする。夜になればまたシングルベッドで一緒に寝て、昼間に起きて、それぞれのゼミに顔を出しに行く。毎日が、輝いていた。心の飢えのことなど、しばらく忘れていた。


 ある日の練習終わり。ベースの倉持さんが、夏でバンドを抜けたい、と切り出した。大学四年の後半を使って、海外に短期留学したい、とのことだった。四人で話し合って、それなら、今年の夏のライブで、Walk the Talkを解散させよう、と決めた。全員、卒業後の就職先は決まっていたし、卒業後もバンドを続けるビジョンはなかった。

 俺たちは、最後のライブに向けて練習に励んだ。オリジナルの曲もいくつも書いては、没にした。Walk the Talkの集大成となる曲を作りたかった。氷山ミサの有言実行で作られて、たくさんの笑顔を俺たちにくれた、大切なバンドだった。その大切な居場所を、最高の形で締めくくりたかった。

 同時に、俺は少し怖くなった。今や、Walk the Talkは、俺とシロが一緒にいる、唯一の「理由」だった。バンドがなくなっても、俺は、シロの隣にい続けることができるのだろうか。シロの恋人でもないのに?


 心の飢えが、再び、その鎌首をにょろりともたげた。俺はもう、とっくに引き返せないところまで、堕ちていた。

 

 俺は、シロに対するありったけの思いを込め、詩を完成させた。ミサと一緒に、最高のメロディを作った。最後のライブは、大成功を収めた。新曲も惜しみない絶賛を受け、バンドはこれ以上ない形で解散を迎えた。


 そして、夏の暮れのあの日。夕焼けの空と蝉の声。草木を揺らす風。

 シロの家に向かう俺の手には、ブルーのリボンで束ねられた、三本の向日葵の花束があった。

 残暑は俺の身体をねっとりと包み込んだのに、俺は、不思議と全く暑さを感じなかった。さんざん覚悟してきたからか、これからしようとしていることを考えれば異常なほど、穏やかな気持ちだった。


 バンドが無くても、授業が無くても、シロと一緒にいる理由が欲しかった。

 何よりも、単純に、シロのことが好きだった。



――花束ってさ、本数でも花言葉があるんだって。一本だと『あなたに一目ぼれしました』。二本だと『この世界には、私とあなたの二人だけ』。

――へぇ、じゃあ、三本の花束は?『三角関係』とか?


 三本の向日葵の花束を受け取ったシロは、きょとんとした顔でこちらを見つめる。部屋着のハーフパンツからすらっと長い脚が伸びていて、そんな無防備なシロを押し倒して、思いっきり抱きしめたいと思った。

 室内は空調が効いていて、ひんやりと気持ちがいい。夕食の準備でもしていたのだろうか、廊下に漂うトマトとオリーブオイルの豊かな香りが、大好きなシロの部屋の匂いと混ざって、そっと鼻孔をくすぐった。

 俺は大きく息を吸い込んで、三秒数えて、吐きだした。そして、なるべく何でもない風を装って、告げる。


――ちげーよ。三本の花束の花言葉は、


『私は、あなたを愛しています』。


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