Scene 1(2/5)

「ご紹介にあずかりました、城田陽臣です。本日より、こちらの法務コンプライアンス室一課でお世話になります。前職では主に知財系の契約の審査や、特許クリアランスなどを行っていました。一日も早く皆様のお力になれるよう尽力しますので、ご指導のほど、どうぞよろしくお願いします。あ、あと、風太……じゃなくて、橘くんとは学生時代からの友人なので、同じ職場で心強いです。風太、またよろしくな」


 シロの挨拶は、部屋中に鳴り響く、轟雷のごとき大きな拍手で迎えられた(本当に大きな音だった。藤崎さんと古字さんをはじめ、部屋中の乙女たちが、今頃ヒリヒリする掌に悩まされているだろう)。そして、拍手とクロスフェードする形で、今度はざわめきが部屋中を支配する。そんな言葉があるのか知らないが、「黄色いざわめき」と表現して差し支えのないような、ときめきに満ちた音のうねりだった。


 俺はといえば、そんな黄色いざわめきの中で、ただぽかんと口を開け、固まっているのであった。


「……」


 しろたはるおみ、シロ。名前をなぞるだけで、胸の中に、苦みがじわっと広がる。


 まさか、再会するとは。夢には見たものの、夢にも思っていなかった。


 目の前のシロは、俺の知っているシロより、少し大人びて見えた。四年も会っていないのだから、それも当然だ。濃紺のスーツが、これでもかというくらい映えている。

 その眩い美貌は、衰えるどころかさらに磨きがかかったようで、立っているだけで昔以上の圧倒的な存在感を放っていた。さらさらの髪が、さっぱりと整えられている。身長は俺より少し低いくらいのはずなのに、顔が小さく手足が長い、モデル顔負けのスタイルなのは、相変わらずだ。

 新しい職場を前に緊張しているのか、手を組んだり、目を泳がせたり。そんなくだらない一挙手一投足すら、不思議と光をまとっていて、ほんの刹那も目が離せなかった。


 心臓が、痛い。

 掌に食い込む爪が、気にもならない程に。


「よ、風太。久しぶり」

「え? あっ……お、おう」


 我に返ると、他のみんなは、引き続きざわざわしながらも既に各自の席に戻っていて、そのざわざわの元凶たるシロが、俺のすぐ側に立っていた。長いまつ毛に囲まれたキラキラの瞳が、真っ直ぐに俺だけを見ていて、気づいた瞬間、室温が急に五、六度上がった気がした。

 シロは、俺のしどろもどろな反応が面白かったのか、「朗らか」という形容詞がよく似合う顔で、宣材写真の撮影かと突っ込みたくなるほど綺麗に笑う。

「ははっ、変な顔。びっくりした?」

「そりゃ……そりゃ、驚きもするだろ。お前、なんで……いきなり……」

 慌てて喋ると心臓が口から飛び出てしまいそうで、慎重に言葉を紡いだ。普通に振る舞うのが、こんなに大変だった日があっただろうか(いや、ない。ちなみに、今こうして余裕ぶって反語表現を使っているが、実際のところ、そんな余裕も、ない)。

「わかる、急だよなー。おれもびっくりだよ。まさかいきなり、風太に会えるとは思ってなかった」

 シロは、笑顔のまま俺の横を通り過ぎて、次の席、つまり、シロのために綺麗に片付けられていたデスクの椅子に、ごく自然に手をかけた。

「おれの席、ここだろ? ははっ、風太の隣なんて、中学以来だ」

「……大学の必修も、一緒に受けてだろ」

「そっか、そーだな。そしたら、大学以来だ」

「……うん」

 そもそも会うの自体が大学以来だろ、と言いかけて、やめた。再会を避けていたのは、俺の方だったから。


 突然の事態に、脳が全く追いつかない。シロが、俺と一緒に働く。しかも、隣の席で。完璧なEラインを描くその横顔をぼんやりと眺めながら、ようやく飲み込んだ事実に、改めて愕然とした。心臓が早鐘を打ち、アンダーシャツが嫌な汗で濡れるのを感じる。


 うん? なんだか目眩がしてきたな……?


「風太、おれ――」

「……わり、俺、ちょっと洗面所行ってくる」

「えっ? あ、うん」


 思わず、シロの言葉を遮り、その場を後にした。部屋中から突き刺さるような視線を感じるが、そんなことはどうでもよかった。ただ、一刻も早く、この場を離れたかったんだ。


 頭と心が、乱雑な子供のおもちゃ箱のように、ごちゃごちゃにひっくり返っていた。しかも、現在進行形で激しくシェイクされ、粉々になった部品がそこら中に飛び散らかっているような。頭は高速で回転しているのに、思考がまとまる気がまるでしない。

 執務室を出ると、興奮冷めやらぬ執務室とはうって変わってシンとした廊下の空気が、そんな過熱気味の俺を冷却してくれるような気がした。


「……なんでだよ」


 噛み締めた歯の間からこぼれた言葉が、誰もいない男子トイレに転がった。

 なんで、今更。四年前のあの日から、シロに関係するあらゆる事象に触れないように、細心の注意を払って生きてきたというのに。どうして。あの夢は、四年間かけて築き上げた俺の平穏が壊れることを教える、虫の知らせだったのだろうか。だとしたら、どうして……。 


 どうして、俺はこの再開を、また「嬉しい」と思っているのだろう。


――三本の花束の花言葉は、


 記憶の封印がはじけ飛んで、シロとの思い出が噴水のようにあふれだす。テストの帰りに観にいった映画がつまらな過ぎて、二人して爆睡してしまったこと。古いゲーム機を引っ張り出して、朝四時までかけてラスボスを倒したこと。先輩たちが演奏しているライブハウスをこっそり抜け出して、コンビニの前でビールを飲んだこと。

 大学四年、夏の暮れ。夕焼けの空と蝉の声。草木を揺らす風。向日葵の花束。そして……。


 しばらく感じていなかった、心臓が、誰かに掴まれる感覚。


 ……駄目だ。駄目だ、駄目だ、駄目だ! 俺は、頭の中に浮かんだ考えを洗い流すように、蛇口からほとばしる冷たい水を思いっきり顔に浴びせかけた。シャツが濡れようが、知ったことか。誰かに見られようとも、構うものか。

 とにかく、シロが何を考えているのか、探り出そう。ただ、必要以上に関わるのは、止そう。

 顔をあげると、鏡の向こうから、ずぶぬれになった顔が、ギラギラした目で睨み返してきた。ちくしょう、折角いつもより時間をかけたセットした前髪が、これじゃあ台無しだ……。



「あ、タッチーさん、帰ってきましたよ」

「ちょっと、橘! どこに行ってたの」

 鏡とにらめっこすること数分。なんとか気分を落ち着けて執務室に戻った俺は、次の瞬間、全く気分の落ち着いていない藤崎さんに捕まった。そんな藤崎さんの後ろには、法務室(本当はシロが言った通り「法務コンプライアンス室」という部署名だが、長いのでみんな「法務室」と呼んでいる)の乙女という乙女たちが、ざわざわと、そしてにやにやともしながら、やはり全く気分の落ち着かない様子で集まっている。予想の斜め上の展開だな? てっきり、みんなシロに寄ってたかっていると思ったけど……あれ?

「……シロ、どこかいったんです?」

 最大限の警戒をしつつ、恐る恐る執務室内を見渡すと、シロの席には濃紺のジャケットだけが置かれ、本人の姿はどこにも見当たらなかった。

「田中さんが、業務の説明するって言って、会議室に連れてっちゃいました。多分、午前中いっぱい戻らないと思いますよー」

 黒山の人だかりの向こうから、のんびりとした加島の声が聞こえた。なんだ、そういうことか。少なくともあと数時間、気持ちを整理するためのアディショナル・タイムが与えられたことを知って、俺はほっと胸をなでおろしたい気分になった。今の状態でシロが隣にいたら、どれだけ頑張っても、身体のシロ側半分は業務に集中することができないだろう。半分放心状態では、何をするにも、ままならないもんな――

「――なの?」

「え?」

 しまった。半分どころか、百パーセント放心状態だったようだ。俺ってば、また馬鹿みたいにぽかんとしていたに違いない。藤崎さんは、眉をひそめた疑惑の視線で俺を一瞥してから、集まった全女子を代表するように、ブルベ夏の藤崎さんによく似合う綺麗なローズピンクに色づいた唇を、もう一度、ゆっくりはっきりと動かしてくれた。


「城田くん。どういう人なの? って訊いたんだけど。難しい質問だったかしら」


 シロがどういう人間かって? そりゃ……そりゃ、確かに難しい質問だ。


「え? あ、うーん……そうですね。なんというか……うん、すごく、いい奴ですよ」


 ……改めて、しまった。言葉を選んでいたら、すごく適当な返事になってしまった。藤崎さんだけでなく、その後ろにいる古字さんも、「こいつ、本当に信じられない」という顔をしている。や、役立たずの後輩ですみません……!

 いや、でも、俺にも弁明させてほしい。これは正直、質問が悪くないか? 「どういう人か」と訊かれたら、古今東西どんなやつのことだって、「いい奴ですよ」くらいにしか、説明し様がないだろう? 逆に、そうでない答えをとっさに用意できる奴がいるってんなら、教えてくれよな……などと思ってはみたものの、そんなことをおくびにも出すわけにはいかないので(文字通り、多勢に無勢だ)、俺は、慌てていくつか情報を補足した。

「いや、本当に。絵に描いたような『いい奴』なんですよ。みんなに優しいし、穏やかで器が広いし、学生時代も……あ、あいつと俺、中学からずっと一緒なんですけど、学生時代も、ずっとみんなの人気者でした」

 それになんてったって、あの見た目だ。シロと俺が出会ったのは、中学一年生だから、えっと……十二歳? のときだが、あいつは当時から既に光り輝かんばかりの端麗な容姿で(そんなこと、考えられるか? 中学生の時なんて、大抵みんな黒歴史みたいな見た目をしてただろ)、それでいて性格も明るくて優しかったから、文字通り全員から好かれていた。それこそ、学友だけではなく、教員やその親たちも、シロに注目しているような有様だった。

 シロはその後も美貌を崩すことなくすくすくと成長し、高校生の頃には、他の学校からわざわざシロを一目見に来る女子たちもいたぐらいだ。「なんか、動物園のパンダになった気分」と、本人はこっそり嫌がっていたけれど。


 俺の回答に満足したのかしていないのか、藤崎さんは鼻息を荒げている。

「ふ~ん……。ミスターコンを荒らしまくったとか、彼女が百人いたとかは?」

「どんな奴だと思ってるんすか。話せばわかりますけど、見た目ほど派手じゃないですよ、あいつは。そりゃ目立ってましたけど、自分から目立ちたがるようなガラでもなかったですし、彼女だって……俺が知る限りは、一人しかいなかったですし」

「その彼女って、橘の知り合い? 同じ大学の子? どんな子だった? まだ付き合ってる?」

 おおっと、古字さんによる、矢継ぎ早な質問! まとめブログのタイトルみたいだな? さすが、我が法務室最速のCPUと他称される演算処理能力は、伊達ではない。しかし、訊く相手が悪かったな。


「彼女は……同じ大学でしたけど、ほとんど知らなかったですね。卒業するころはまだ付き合ってたと思いますけど……俺、卒業してからシロとは全然会っていないんで、まだ付き合ってるかどうかは、詳しいところはわからないです」

 風のうわさで、シロとその彼女は卒業後間もなく破局した、と聞いていたが、あくまで風のうわさである。確証もない情報を、俺がわざわざ教える道理も、必要もない。

「とにかく、あいつはいい奴です。俺から色々言うのも何なので、あとは本人に直接聞いてください」

 俺だって、四年前までのことしか知らないんだ。それなのに、あーだこーだと喋るわけにもいかないだろ? ところで、俺の回答の何がツボに入ったのかは知らないが、目の前の乙女たちは、きゃあきゃあと盛り上がっていた。


「容姿端麗、品行方正、温厚篤実……古字ちゃん、どう思う?」

「どうって、私はそのッ、別にッ」

「何言ってんのよー。いいのよ、素直になってくれても」

「だから、別に、私は何も!」

「気にするほどの年の差でもないし、大丈夫、合法よ。リーガルチェックおーけー、行きなさい!」

「ば、ば、ば、ば、ばかなこといわんといてください! だから、私はッ!」

「ねぇねぇ橘くん、城田くんのこと、もっと教えて!」

「好きな食べ物とかわかる? ランチに誘うなら、どんなところがいいかな?」

「彼女ってどんな子だったとか、知ってる?」


 結局、昼休みが始まる直前まで、俺は「シロ騒動」から抜け出せないままだった。うう、今日の午前中という、今後貴重になりそうな「シロのいない平穏」が、俺の輝かしい人生から無為に消えてしまったな。シロを採用したの、会社としては間違いだったんじゃないか? 今日の午前中の法務室の生産性は、間違いなく、過去四年でぶっちぎりのドベだったハズだ。まったく、のんびりした時期で、本当によかったよ。


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