一幕 夏の章

Scene 1(1/5)

「無駄だよ。無理だって、わかってるんだよ」

「言ってみろって。おれにできることがあったら、手伝ってやるから。な?」

 オレンジ色の街灯が、残暑の火照りを助長する。湿った香りを含んだ生ぬるい空気は、日差しにやられて白っぽくなった生垣を揺らすでもなく、ただアスファルトの上を漂っている。

 涙腺がヒリつく俺とは対照的に涼しい顔をした【あいつ】は、汗と湿気でぐちゃぐちゃになった俺の顔を覗き込むようにしゃがみながら、そう言った。薄いスラックス越しに、すらっと伸びた太ももの輪郭が露になる。


 こいつは今、どんな目で俺を見ているんだろう。


 腹の奥の方で、炎がメラっと揺れた。


 ……ちくしょう。エルドレッジ・ノットで結んだネクタイの所為で、息を飲む度に喉が苦しい。一日中、慣れない礼装用の革靴を履いていたから、足も痛い。ここが道端でなくて、あいつの目の前でもなければ、この暑苦しいジャケットだって、今すぐ脱ぎ捨ててしまいたいところだ。

 うだるような沈黙が、ただ、ねっとりと手足に絡みついてきた。ああ、もう、いいよ。もう。なるように、なれ。

「わかったよ」

 飲みすぎた? いいや、この気持ち悪さは、祝いと呪いを一緒くたにして飲んだ、酒の所為だけじゃなさそうだ。俺は、胸の中のものを全部吐き出すように、言葉を道端に投げ捨てる。


「じゃあさ、――」


 ジジッ。まだ暑い夜の風の中、光に近づきすぎた昆虫が、焦げて堕ちる音がした。




『オ~オ、オ~オオ~オ!』

「ッ!」

 衝撃。深海二万メートルから、急に引き上げられたような衝撃。酸素を求めた肺が、息を大きく吸って、吐く。心臓が早鐘を打ち、身体中に赤血球を送り出す。

 カラカラに乾いた喉と、じっとり汗ばんだ身体が、司令塔たる脳みそに一斉に不満を申告する。遮光カーテンから漏れる強い日差しと蝉の声が、目と耳をガンガン殴りつける。


 夢を見ていた。そして、また、朝が来た。


 指で充電ケーブルを辿り、スマホから賑やかに流れる「お願い!セニョリータ」を止める。七時四十五分。平日の朝、一回目のアラームが鳴る時間。「まだベッドから出る必要はないが、そろそろ準備をしておいた方がいい」という意図で設定された、怠惰で優柔不断な合図だ。


「うーん……」


 夏掛けのくせに熱のこもった布団を足で払い落とすと、「風量:弱」で回転するシーリングファンが、火照った四肢に優しい風を送ってくれた。大きく深呼吸をして、「ひんやり」という単語の心地よさを、心行くまで五体で堪能する。

 毎朝、こんな時間は大体、ベッドに転がったまま、直前に見ていた夢の内容について考えるようにしている。というのも、夢というものは理解するにはカオスが過ぎていて、脳はその内容を記憶することを諦め、すぐに忘れてしまうらしい。つまり、その日見た夢について考えられるのは、夢から醒めた直後の、まだまどろみの中にいるような、ベッドの中にいるこんな時間しかないということになる。そこで、夢を見た朝は、なるべくベッドの中でその内容を反芻するようにしている……のだが。

 ただ、今日の夢は。


「なんで、今更」

 思わず、声がこぼれた。


 その男のことを思い出すのは、ずいぶんと久しぶりだった。

 誰もの目を惹く整った顔立ちで、誰よりも優しく、聡明な男。明るく朗らかで、誰からも愛される太陽のような男。

 

 そして、俺の、「親友」だった男。


 ドクン。心臓が痛む。胸の中央にぽっかりと空いた穴から、栓を抜いた浴槽のお湯のように、高揚感が流れ出ていく。

 けっ。夢に見るなんて、冗談じゃない。あれから四年。あいつの思い出は、もうずっとずっと前に、心の奥底に封印したはずだ。最後に声を聴いたのだって、もういつのことかわからないのに。なんだってまだ、夢の中で、俺に話しかけてくるんだろう。「夢は深層心理の現れ」だなんて、そんなハズがない。何故って――


 ……駄目だ、考えるのは止そう。

 俺は目をぎゅっとつぶると、雑念がどこかに飛んでいくよう、ひとつ大きな大きな伸びをした。肺が大量の空気を吸い込んで、体のすみずみまで、スッキリした酸素が供給されていく。身体のそれぞれの部位が、順番に目覚めていく感じがする。

 ほとんど無意識のうちにスマホを確認すると、いつ登録したかも忘れた企業アカウントからの広告メッセージに交じって、「氷山ミサ」からの着信履歴が表示されていた。平日の深夜に、いったい何だろう。特に他のメッセージもなかったので、火急の用というわけでもないんだろうけど。俺は親指だけを動かして「なんかあった?」と送り、ジト目の猫が「?」を浮かべているスタンプを添えた。

 七時四十七分。「ベッドから出ろ」の二回目のアラームが鳴るまで、あと十三分。


 少し早いけれど、今日はもう、起き上がってしまおうか。


 手を伸ばして、クレセント錠に指をひっかける。そのままカーテンと一緒に窓を開けると、青空と、太陽と、湿った草木の匂いが混じった夏の空気が、部屋の中にどっと流れ込んできた。蝉の大合唱が、一段とボリュームを増す。触ったら意外とゴワゴワしていそうな大きな雲の塊が浮かぶ空で、太陽がギラギラと輝いている。

 今日もまた、一日が始まる。



「おっはようございまー……す……?」

 九時になる少し前。いつもより早く起きたのに結局いつもと同じ時間に会社に着くと(前髪が上手く決まらなかったんだ、仕方ないだろ)、執務室には、何やらいつもと違う空気が漂っていた。期待と、興奮と、多めの緊張を擂り混ぜてパラパラと振りまいたような、ピリッとスパイシーな空気。

 あれ? 新サービスのローンチか、大きな発表の予定でもあったっけか。思い当たる節を探しながら自分のデスクに向かうと、左隣の席に座る加島が、やっぱり期待と、興奮と、多めの緊張が入り混じった顔をして、俺が席につくのを今か今かと待ち構えていた。

「タッチーさん、おはようございます。転職の人、もうすぐ来るみたいですよ」

「おはよー。そっか、新しい人来るの、今日だったか」

 反対側、つまり右隣の席を見ると、昨日まで一課のお菓子置き場だった机が、いつの間にかピカピカに掃除され、真新しいノートパソコンとセカンドモニターが置かれていた。そういえば、うちの課にキャリア採用の人が入ることになったって、先週のグループミーティングで言っていたっけ。すっかり忘れていたな。

 ところで、なんだって、こんな空気になっているんだ? 新しい人が来ることと、このざわめきが、俺の脳内ではどうにも結びつかない。今の時代、終身雇用は昔の話。特にこの企業法務の世界では、キャリア採用はむしろ一般的だ。うちの法務室でも毎年のように新しい人を迎え入れているし、新しい人が来ることなんて、何も珍しい話ではないはずなんだけど。

「で、なんでこんなに盛り上がってるわけ?」

 俺の問いかけに、加島は「待ってました」とばかりに身を乗り出す。


「それが、今日来る人、滅茶苦茶イケメンらしいんですよ……」


 ズキン。朝見た夢のせいで、瞼の裏にあの男の顔がチラついた。ああもう、忘れろ、あいつのことは!

「滅茶苦茶イケメン……」

 ほとんど上の空でオウム返しすると、俺の反応をどう解釈したのか、加島は得意げに話を続けてくれた。

「タッチーさんも気になります? 人事部の同期の話によると、二十六歳、身長は一七五センチくらい、独身、そんでもって、とにかく顔がこれまで見たことないくらいイケメンだったって」

「これまで見たことないくらいのイケメン……」

 それはまたインパクトのある情報だが、うちの会社の人事部の情報管理体制が危ぶまれるな?

 ふと、斜向かいの席に目をやると、一課が誇る「麗しのお姉さま」こと藤崎さんが、机の上にコンパクトミラーを置いて、入念にリップを塗りなおしてた。藤崎さんがここまで戦闘態勢なのも珍しい。ただ、改めて周りを見渡す限り、今朝に限っては、特に浮いた行動ではないようだった。

 こんな噂になるくらいなんだったら、その人は、きっとそれなりに顔がいいのだろう。ただ果たして、この上がり切ったハードルを超えられるのかな。話題が話題だけに、期待値コントロールに失敗したら、目も当てられない公開処刑になりそうなもんだけど。

「はっ、吉沢亮でも来ない限り、がっかりされそうな空気だな。あんまハードル上げすぎない方がいいですよ、藤崎さん」

「何言ってんの、お亮が職場にいたら、仕事になんてならないでしょ。顔、一秒も油断できない」

 リップを塗り終えた藤崎さんが、鏡で念入りに顔を確認しながら、緊張感を孕んだ声で返事を投げてきた。確かに、そのイケメンは藤崎さんの向かいのデスクに座るわけだから、気の抜けた顔でもしようものなら、そのイケメンに見られてしまう可能性がある。道理で、昨日まで俺からの視線を遮る壁になっていた藤崎さんのPCのセカンドモニターが、今は向かいのデスクからの視線を遮るような配置に変わっているわけだ。

「モニター、その配置だと、俺からは藤崎さんのご尊顔がハッキリバッチリ拝せちゃうんですけど、その点ご勘案いただけてます?」

「橘になら、大口開いて欠伸してるとこ見られたって、どうってことないわよ。気になるんだったら、橘がモニター動かして」

「はーい」

 入社当初は俺のことをあれだけイケメン扱いしてくれていたのに、今ではすっかりこの扱いだ。盛者必衰、諸行無常の響きあり。

 正直俺も、藤崎さんにどんな顔を見られようが気になることはない。ただ、物は試しにと思い、古いポケット六法を重ねた台座ごと、自分のセカンドモニターの位置をズラしてみる……と、今度はこれまでモニターに隠れていた向かいのデスクの古字さんと、ハッキリバッチリ目が合ってしまった。

「あ……」

「……」

「なんか、すみません……」

「別に……気になるから、戻して」

「はーい」

 ちぇ、俺の所為じゃないのに。いそいそとモニターを元の位置に戻すと、また鏡とにらめっこをする藤崎さんが視界に飛び込んできた。あーあ、あとでがっかりしても知らないぞ。

「おはよう、今日も暑いわね」

「あ、課長、おはようございまーす」

 手扇で顔を仰ぎながら入ってきた田中さんが、俺たち一課の島の一番窓側、つまり加島の隣の席に座った。いつも通り、九時ぴったり。

 田中さんはしばらくそのまま暑そうに手をパタパタしていたが、藤崎さんを筆頭に妙に浮き足立っている俺たちの様子に一瞬ギョッとして、それからすぐににっこりと笑った。

「ああ、新しい方ね。多分、もうすぐ来るんじゃないかしら」

 おおっ? この反応は? 思わず、藤崎さんと目を合わせると、藤崎さんは目力だけで「田中さんは面接で会ってるはずだから、どんな人か訊け」と訴えてきた。ええっ、自分で訊いてくださいよ……。

「課長、面接したんですよね? どんな人でした?」

 すかさず加島が切り込んだ。まったく、よく出来た後輩を持って、俺たちは幸せだよ。藤崎さんはどう見ても全力で聞き耳を立てているし、それまで忙しそうにカタカタしていた古字さんのタイピング音も、ピタッと止まる。

 田中さんは首をかしげて悩んでから、若干言葉を選ぶようにして言う。

「そうねぇ、皆さんのその様子だと、もう噂を聞いているんでしょうけれど」

 田中さんはここで一旦話を区切ると、少しだけ顔を下げながら、声のトーンを落とした。


「ここだけの話、ちょっと芸能人みたいな方だったわね」


 バシーン! びっくりして音の出た方を見ると、藤崎さんが顔をしかめて右手の甲を摩っていた。万歳三唱しようとして、机の下にでも手をぶつけたんだろう。藤崎さんの右手の甲に、しばし黙祷。ところで、置きなおしたモニターの陰に隠れて姿は見えないが、古字さんのタイピング音もいつもの倍は激しいな?


 吉沢亮か? 本当に吉沢亮が来るのか? 「ある日突然転職してきたアイツは吉沢亮でした」なんて、そんな夢小説リティの高い毎日が始まってしまうのか?

 いや、でも、冷静に考えると、吉沢亮は俳優だし、企業法務の経験なんてないだろうから、間違ってもうちの会社の法務室にキャリア採用されることはないだろう。落ち着け、落ち着くんだ、俺。

 心の中で大きく深呼吸。すーっ、はーっ。今頃、藤崎さんも古字さんも、それぞれのルーティーンで平静を保とうとしていることだろう(藤崎さんは冷静になろうとするとき妙に背筋が伸びるから、つまりそういうことだ)。

 俺たちはその後しばらく、平静を繕いながらも仕事にならない悶々とした時間を共有することになった。もうすぐ来るって言うけど……あれ、でも、そのイケメン、この執務室には、どうやって来るのだろう。

「田中さん、その人、迎えにいったりしなくて大丈夫ですか? よければ、俺、ロビーまで迎えに行きますけど」

「大丈夫、アテンドは前村さんにお願いしているから……あ、噂をすれば、ね」


「失礼します」


 決して大きくはなかったが、その時執務室のドアが開いた音は、部屋の中の誰もに聞こえたはずだ。全員の興味と視線が、部屋の入り口に殺到する。そこにいるのは、やや緊張した面持ちの前村さんと、そして、その後ろから――


 まさか。


 時間が止まった。音も、空気も匂いも、全てが止まった。その中で、走馬灯のように、記憶から消したはずの会話がフラッシュバックする。


――花束ってさ、本数でも花言葉があるんだって。一本だと『あなたに一目ぼれしました』。二本だと『この世界には、私とあなたの二人だけ』。

――へぇ、じゃあ、三本の花束は?

――三本の花束の花言葉は、


 次の瞬間、部屋全体に電流のようなときめきが駆け巡り、抑えきれない嬌声があちこちで花を咲かせた。無理もない。そいつの容貌が、非の打ち所のない完璧なものだったから。そいつの顔が、一度見たら忘れられないほど美しいものだったから。

 そう、一度見たら、忘れられないほど。俺の思い出から、ずっと消えてくれないほど。

 今でも、夢に見るほど。


 そのキラキラした双眸は、なんとなく部屋を見渡した後、俺の方を向いて、止まった。


「あっ、風太……?」


「シロ……」

 間違いない。そこにいたのは、かつて俺の「親友」だった男だった。


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