夜の学校、シューズの中敷きを嗅いでいた男と出会う
「バケツにひっかかって転んだ脛が、まだ痛いや」
脛を硬い床にぶつけてしかめ面で巡回していた短髪の若い男性教師が、懐中電灯片手に独り毒づいた。
彼の進んでいく先からしないはずの男の声が微かに聞こえ、短髪の下の眉を顰める。
誰だよ、ここの生徒か?
適当な憶測を立てながら進む彼の懐中電灯の光が、グラウンド側の突き当たりのガラス窓を照らす。
それと同時に、先ほどの男の声が何か言い続いて同じ場所から狼狽えたような女の子の声が響いた。
彼は急いで声がしたグラウンド側の廊下に出て、真っすぐに奥までを明るくする。
ああっ!
最奥の昇降口近くの角を、照り輝く水色の絹糸らしき物が宙を浮いて曲がっていった。
しばし突っ立って、絹糸らしき物が曲がっていった角を見つめていたがやがて、
侵入者だ。逃がすかぁ! と脛の痛みも忘れて、職務全うだと勇んで侵入者を懐中電灯の光を大きく揺らして追いかけた。
渉は少女の手を握ったまま、先に見えてきた昇降口に安心し始める。
巡回の人に俺たちの姿を見られずに出られる!
しかし彼の安心はすぐに崩れ去った。
「きゃう」
彼の握っていた少女の手がするりと抜けると、彼女からいたいけな声が漏れ出してつんのめりうつ伏せに倒れた。
しまった!
渉は即座に足を急制動させ、倒れた少女を助け起こそとう身を翻す。
マジかよ。
走ってきたグラウンド側の廊下の壁を、人の姿はまだ見えないが懐中電灯の光が上下に揺れ動いていた。
渉は昇降口と彼の手を借りてゆっくり立ち上がった少女を、落ち着いて交互に見て一つの活路を見出した。
こいつだけでも、外に逃がそう。
ずんずんと巡回の急ぎ足が廊下の角に近づいてきている。
彼が昇降口を指さして少女に耳打ちした。
「あそこから外に突っ走って門から出ろ、振り向かずにな」
「ええ! 何がどうなっ……」
「いいから行け」
背中を押し、少女に走り出す助力を与える。前かがみになって転びそうになる。
「うあっあ」
「走れ」
「う、うん」
転ぶのを足を前に出して食い止めた少女は、わけもわからず困惑しつつ渉の言うことに従い、彼に背を向け昇降口の外へと遁走した。
少女が走り出したのを見届けた渉は、近づいてくる駆ける足音に自ら足を向けた。
巡回が角を曲がってすぐに、歩んでくるざんばら髪におおっと驚き立ち止まる。
「なんだ君は?」
巡回がざんばら髪の渉に懐中電灯の光を当てて尋問した。
渉は咄嗟に出した両腕で向けられた光を絞って、眩しくも巡回の顔を確認する。
巡回は光で照らしたよく知る人物の顔に、目をぱちくりさせる。
「あー、えーと……びっくりしました」
「心境を聞いてるんじゃないぞ、君」
「すいません」
こってり絞られるのかぁ、あーあ。
渉はシュンとした。
誰かと思えば渉か、と巡回の方も自分が光を当てている青年が誰なのかに気付く。
巡回の目が疑るように細められる。
「まさか渉、一夜でぐれて窓ガラスを割りに来たのか」
「ちち、違いますよ磯村先生」
渉のクラスの担任を務める、筋肉質のスポーツ刈りで恰幅のいい三十代過ぎの磯村 光一に事実無根の疑惑を掛けられ、渉は即座に否定する。
ふーむと磯村は顎に手を添え真剣に考え込んでから、再び糾問する。
「好きな子の体育館シューズを盗みに来たのか? はたまた中敷きの匂いだけ嗅ぎに来たのか?」
「誰がしますか、そんな淫行。というか、そんな漫画みたいなことするやつ実際いるんですか?」
磯村は尋ねられた途端に渋面を作る。
ひょっとして、と渉が薄々勘付いた。
磯村の唇が極度に震えだし、おずおずと口にする。
「先生がそんな漫画みたいなことを、中学生の時にした経験のある一人なんだ」
「中学校生活ふしだらですね、先生」
渉は汚物を見る目で突っ込む。
そんな目で見ないでくれ! と壮年のいい年をした男の磯村が、はばからずべそをかいた。
あれ、注意のひとつもなし? と遅まきに渉は毒気を抜かれて後ろ頭をさすった。
自身の黒歴史にべそをかいていた磯村は、急に深く息を吐きだして心を落ち着かせキッと教師らしく表情を引き締めると、渉の左肩にポンと手をのせる。
期せずして厳かに一変した担任教師の表情に、渉も身がしゃちこばった。
「な、なんですか」
「お前はいけないことをしでかした」
「やっぱりそうですよね。忘れ物を取りに来ただけとは言え校則違反ですよね」
万が一に期間は短いはずだけど謹慎とか停学を申し渡されたら、雪那にどうノート返えそうか?
渉はおのずと思案顔になる。
「いいか、渉……」
磯村が諭すふうにして口を開いた。
ごくりと渉は唾を呑む。
「やってしまったものは仕方ない。だが今回は一回目だ、処罰はなしにしてやるし他の人にも秘密にしといてやる」
「ありがとうございます」
ほっとして渉の顔が緩む。
気持ちはわかるぞと言いたげに、磯村はうんうん頷いて言う。
「今日の巡回当番が女子のシューズ嗅ぎ前科持ちの俺で助かったな」
筋肉が浮き出るたくましい腕で、グーサインを前に出して両の口角を上げた。
この人、俺を同罪者みたいに勘違いしてるよ。
「先生、俺は忘れ物取りに来ただけで……」
「さあさ、早く帰って勉強しなさい」
聞く耳持ってねぇ。
「俺は忘れものを……」
なおも弁明しようとした渉を、ぐちぐちうるさい帰れ、先生は暇じゃないんだと睨みつけて磯村は階段へと踵を返した。
体の大きな大人の男に睨まれて思わず竦んだ渉は、呼び止めるのに躊躇い背中を見送ることしかできなかった。
やべぇ、マジで怒らせたら退学もあり得るな。
勘違いされたままなのを不本意に思いながら、彼はやむを得ず昇降口から更けた夜闇に出ると帰途に着いた。
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