夜の学校、美少女と出会う


 木曜日の夜、学習机に向かう渉は明日のホームルーム前が提出期限となっている英語の問題集に、締め切り直前の漫画家さながらの形相でシャープペンシルを走らせていた。

 一人の夕食を済ました午後七時から四時間かけて英語まみれの中、ついに答え合わせまでにたどり着く。


「よっし、あとは答え合わせだけだ」


ささやかな歓喜を呟き、解答用の薄っぺらい冊子を使うとき以外常に挟んでいる問題集の本紙の最後ページまで一気にめくる。

なんだと……なんだと!

 解答用の冊子が挟まれてないのを、渉は目の当たりにしてしまった。そして渉は帰り際の幼馴染の少女とのやり取りを不意に思い出して、シャープペンシルを指先から落とす。


「雪那に貸してもらって、机の中に入れっぱなしたままだ」


 ああああ、と渉の喉からしわがれた喘ぎが漏れる。


「朝には返してって言われてたんだった」


 些細な約束が彼をさらに悲嘆させた。

 机の端のぶち猫が横たわっているデザインの置き時計で、現時刻を確認する。


「十時か……今から取りにいかないと、朝雪那に返せないな」


 時間も惜しく部屋着の紺のトレーナーの上に黄褐色のコートを上に羽織って、渉は自宅を出た。



 歩いて十数分、校門前まで来て見えた夜の校舎の壮大な不気味さに、一瞬背筋が冷えたが戻る気までは起きず、さほど高さのない校門の格子を手間も取らず登って越えた。

 学校の敷地に足を踏み入れてしまえば怖いものもないと、通学する時の要領で自身が置き忘れた借り物の冊子を取りに一年生の教室が連なる三階を目指した。

 カツカツと廊下を歩く彼の足音以外に音がない校舎内は、ひどく物寂しく外気とは違う寒さが籠っていた。


 渉は何事もなく三階の彼の教室まで来ると、自席の机の中から目的の冊子を回収し立ち去ろうと背面黒板傍の出入り口に目を向けた。

 軽金属の物が倒れるような鈍い音が、予兆もなく彼の神経を驚かす。


 なんだこんな時間に、巡回の人が何かにつまずいて倒しちゃったのかな?


 ドジな巡回さんだな、と渉はさきほどの音を気にも留めず教室を後にして、校舎内に入ったとこと同じ昇降口に向かい足を進めた。

 一階と二階を繋ぐ階段を渉は降り切って、廊下に出る角を曲がる。

 渉の目がいっぺんに開ききった。


 ん? 廊下に誰かいやがる。


 暗い廊下の中ほどに弱い月明かりが射し込む窓の下で、小柄な人がうずくまっている。

 詳しく姿を確認するため、渉は目を凝らした。


 髪が長いな……女か?


 淡い月の光を浴びる水を表しているような明るい色合いの長髪と闇に溶けこむ黒い半袖のカシュクール・ワンピースを着ている謎の少女だが、体育座りをした膝の間に頭を埋めているため、彼が少女の顔を見ることはできない。


あの髪の毛染めてるのかな? もしくは外国の人?


 うずくまっている謎の少女が、不思議にも迷子のように見えてきた渉は、親切心で驚かさぬよう音量を抑えて声を掛けてみる。


「おーい」

「……」

「聞こえてますかー?」

「……」


 寝ているのか、それともシカト?

 反応すらしない謎の少女に、試しに渉は意地悪な問いで再び声を掛ける。


「お手洗いの場所わかりますかー?」

「……」

「足元が水浸しみたいですけど、大丈夫ですかー?」

「ひぇへ!」


 少女は顔を上げ急に後ろに飛び跳ねると、自分のうずくまっていた場所を見下ろす。

 無論、水浸しになどなっていない。

 飛ぶ跳ねた少女の顔が月明かりの下で露わになる。

 顔全体の三分の一を占める大きくつぶらな髪と同色の瞳が目立つ、幼さの残った可愛い顔立ちは渉の想像を絶していた。

 ……あんな美少女、この世にいたのか。


「あっ、あれ? 水浸しになってない」


 しかし、なぜこんな夜遅くに学校の校舎なんかにいるんだ?


「こ、声がしたってことは誰かいるんだよね? ううう」


 もしかして夢? でも確かに家を出たよな?

 渉はズボンのポケットをまさぐる。

 自宅の鍵はきちんと入っている。


 夢ではないか。じゃあ、あの美少女は一体?

 渉は少女の状況にいろいろな可能性を思い巡らした挙句、一つに帰結した。

 雰囲気を楽しんでるようじゃないから、迷い込んじゃっただけだろう。

 そこで彼は教室でのことを思い出す。

 俺がさっき聞いたデカい物音は、まさかあの美少女のしわざか? うん、ないこともないよな。


 階段前の角からじっと覗く渉の存在に気が付く素振りのない謎の少女は、出所の不明な尋問してくる声に怖くなってきて、あたふたと涙目で両手を大気の中で彷徨わせ始めた。


「こここここ怖いよー、ううう」


 スゲー怖がってるよ。……こんなとこに置いてくのも可哀そうだし、学校の外まで案内してやるか。

 傍まで行こうとした彼の微かな衣擦れが、怪奇な尋問をしてくる声のせいで敏感になっていた少女の耳の鼓膜に触った。


「いいいいいい今、ガサって聞こえた! なななななな、なんの音怖いよぅ」


 叫んでひっくとすすり上げだした。

 見るに堪えられなくなった渉は、さっき来たばかりの人っぽく涙が溢れる泣き出す手前の少女に歩み寄る。


「あれっ、こんなとこに女の子がいる」


 少女が濡れた瞳を背後の渉に向ける。

 途端に顔が青ざめた。


「つつつ、ついに幻覚まで見え始めましたぁ、ううう走馬灯が流れて……」


 少女の目が虚ろになって、渉を見据える。

 ガチガチに震えてんじゃねーか、こいつ。俺のことを幻覚に出てくる人だと思い込んで、怖がりまくってる。


「幻覚じゃないから俺、怖がることないぞ……」

「体も冷えてきて、ほんとに死んじゃうよぅ」


 消え入りそうに呟いた。

 その呟きに言葉途中の渉はああと合点して、左手の冊子を脇に挟ん持ち直した。

 右手と空いた左手で灰緑色のコートを脱ぎ、右手に持つと少女に差し出す。


「これ着ろよ、寒いんだろ?」


 寒さで自分を抱くように腕を回した少女は、予期せず目の前に現れたコートに理解に困ったという目になる。

 ポカンとしたままで受け取らない少女に、渉はこの無言ぶりじゃどうにもならんなと自らコートを彼女の狭い肩にかけてやった。

 少女がおもむろに口を開く。



「優しい幻覚なの?」

「現実だ、いい加減に把握しろよ」

「はんばく……するの?」

「反駁すんな把握しろ。お前の見ているのは現実だ、幻覚じゃねーぞ」


 呆れて渉は言った。

 現実と幻覚の区別ができていない少女は、急にはっとして大きな目を瞬く。


「ここって、どこなの」

「……わかってて来たんだろ?」


 問われて少女は頭を横に振る。


「転移ゲートに入ったら、ここに飛ばされてた」

「ふざけるのはやめてくれ」

「ううう、ほんとの事なのに」


 むきになり唇をすぼめて突き出す。

 うわー、転移ゲートだって厨二ってやつかこいつ。否定して不機嫌になられても困るな。


「はいはい、そういうことにしとくわ」 


 彼女の不平を軽くいなした渉だが、次の時にはニヤッと悪意ある微笑を作った。


「俺帰るけど、お前怖くて一人じゃここから出られないだろ」

「一人でも出られます!」

「あーあ強がっちゃって、怖いよーってさっき泣いてただろ」

「あれは寒さで死んじゃうのが怖かっただけ」

「怖かったのは認めるんだ」

「あぁー、はめられた」

「いや、俺はめてない」


 悔しくて潤みかけた恐ろしさの微塵もない睨みで、少女は渉を鋭く見つめた。

 当然渉は向けられた睨みにどうということなく、目の前の少女に尋ねる。


「俺、ここから出る場所知ってるぞ着いてくるか?」

「出られるの、ここから?」

「俺に着いてこればな」


 渉の表情じっと観察して、彼女は勘繰る。


「嘘ついてない?」

「俺がお前に嘘をつく道理がない」

「じゃあ……送り狼?」

「する気が起きない」

「ううう、それはそれで酷い」

「俺が送り狼だったら良かったって言うのか?」

「そんなわけない、送り狼なんて嫌いだもん。送り豚なら美味しそうだけど」

「精肉工場に運送されてる豚か、それ?」

「違うよ、送り豚が送られるのは精肉店だよ」

「加工済みだった……って豚の話はどうでもいい。着いてくるかって聞いてんだ」


 再度聞き直してきた渉にそういえばそうだったね、と少女は陽気な笑みで返した。

 悪気はないんだなと渉も怒る気をなくす。


「で、どうするんだ?」


 聞いた渉の視界前方、廊下の突き当りが白い光に照らされ壁面のほとんどを露にする。

 瞬時に彼の背筋がびくつく。

 やべぇ巡回の人だ。

 次には彼は少女の手をとって、昇降口に向かい駆け出していた。


「逃げるぞ」

「えええ、なな何!」

「巡回だ、見つかれば追ってくる」


 突然に引っ張られ足をもつれさせながら、少女は目を丸くする。

 目を丸くしている少女に構わず、渉は疾走した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る