参 西洋街の神隠し(三)

 話が終わったと思った千枝は壁際に戻ろうとする。それを引き止めたのは直幸の声だった。


「急で申し訳ないが、明日には調査に向かいたい」


 空気が固まる。

 言葉の意味を噛み砕いた千枝は瞳だけを冷たくした。確かに前日までに、とは言ったがあまりにも配慮がない。

 急な要望に紀壱と環は視線をかわしていた。

 千枝の正面にいる直幸は彼女の凍てつく瞳に必ず気づいているはずだ。しかし、まるで自分の申し出が必ず通ると思っているようで、人好きのする表情をくずさない。

 環は千枝が大丈夫なら、という小さな声を落とした。

 環の言葉を聞き取った直幸は千枝に笑顔を向ける。


「山本さん、大丈夫かな?」

「……問題ございません」


 千枝の口から思ったよりも低い声が出たが仕方がないだろう。

 心配した環がわずかに振り返った。

 紀壱はごまかすように紅茶を口に運んでいる。

 直幸は膝に両肘をつき、指を絡ませた。前髪越しに黒い瞳が見上げてくる。


「九時に迎えに来るから準備を済ませてほしい」

「お気遣いありがとうございます。ですが、私などにお手を煩わすのは気が引けますので現地で落ち合いましょう。どちらに伺えばよろしいでしょうか?」


 ずっと直幸の調子に合わせるなんてまっぴらごめんだ。千枝は義務的に断った。

 直幸は堪えた様子もなく、優美に言葉を紡ぐ。


「こちらが助けを請う側なのに、そんな無粋なことはできない。遠慮せずに我が家の馬車に乗ればいい」

「ですが」


 千枝、と環が小さく窘めた。

 千枝は環の意図を汲み取り、一呼吸おいて深く礼をとる。


「お言葉に甘えさせていただきます」


 直幸が満足そうに目を細める。

 千枝は床を眺めながら、あれと馬車に詰めこまれて運ばれると想像しただけで疲れた。

 直幸はさらに追い討ちをかけていく。


「服装は洋装でお願いしたい。持ち合わせがないようなら、僕が準備をしよう」

「それなら問題ありません。洋装でしたら、舞踏会でも付き添えるように侯爵家から頂戴しております」


 お仕着せではないかを問われ、千枝は頷いた。首もとまで詰まった深緑のドレスではあるが問題ないだろう。


「明日はよろしく」

「かしこまりました」


 紅茶はすっかり冷えてしまった。



 ❖ ❖ ❖



 玄関ホールまで直幸を見送った環は嘆息した。


「こんなに危険な依頼が来るとは思っていなかったわ」


 千枝に振り返った環は不安そうに瞳を揺らしている。両手を腰の位置で握りしめ、耐えるような顔で続けた。


「千枝、絶対、危ないことはしてはだめよ? もしものことがあったら……私、どうしたらいいかわからない」


 涙まで浮かべる環に千枝もつられそうになる。心優しい主人は直幸を立てて依頼を受けただけだ、と心があたたかくなった。


「私はお嬢様を残して死にません」


 千枝は真剣な顔で宣言した。

 環は小さな子供のように笑う。


「だめよ、千枝。そういうのは私以外に言わなくちゃ」


 環はおどけて言うが千枝の態度は変わらない。

 西日が三人を包んでいた。

 環は横に立つ紀壱を上目遣いで見やる。


「兄様、明日は仕事なの?」


 遠くを見つめていた紀壱は大きく瞬きした。組んでいた腕をほどき、環の頭を撫でる。


「明日は外せない会議があってね。付いていけそうにないな」


 紀壱に申し訳なさそうに見られた千枝は少しだけ気落ちした。心の底で期待していた自分はあさましい。

 残念ね、と環は口を尖らした。淑女らしからぬ仕草だが、とても可愛らしい。

 紀壱は眉尻を下げて環の頭をぽんぽんとなだめる。


「時間ができた時は直幸くんに手を貸そう」

「約束よ」


 重ねるように言われた環の言葉に紀壱が頷く。

 機嫌を直した環は満足げに口端をあげ、千枝の腕に自身のそれをからめる。


「千枝、明日の準備をするわよ」

「準備?」

「どこに出掛けても恥ずかしくないようにしてあげる!」


 千枝はそんなことできるはずがないと言いそうになるのを寸前の所で我慢した。

 萩色の瞳が爛々と輝いている。力があると一目でわかる花の色。脈々と受け継がれる萩久保家の血だ。

 その瞳に映りこんでいる姿を千枝は直視できなかった。色素の抜けた髪に眼鏡で隠すようにした透ける瞳は作り物のようだろう。際立つ黒髪も奥の見えない黒い瞳も持ち合わせていない自分は、異質だと幼い頃から分かっていた。環の純粋な目に自分はまがいもので、能無しだと思えてしまう。

 めざとく機微を読みとった環は千枝の腕に込める力を強めた。


「千枝はきれいよ。もっと胸を張らないと」


 返事ができずに曖昧な笑みしか返さない千枝に環は顔をしかめる。


「いいわ。私が一等きれいにしてあげる」


 固辞する千枝にかまわず、環は自分の部屋へ先導する。


「侯爵にもよろしく伝えておいて」


 去り行く二人の背中に紀壱は声をかけた。

 ひこずられる千枝は頭だけ紀壱に向けて礼をするだけでいっぱいいっぱいだ。沸いて出た疑問を口にする間もなく、視界から紀壱が消えた。

 千枝は侯爵子息に会う予定はあるが、侯爵にはない。意図がよくわからなかった。

 さらなる不安が千枝を襲い、眉間にしわがよる。明日が来なければいいのに、と叶うはずもない願いを抱いた。

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