弐 西洋街の神隠し(二)

 千枝はやわらかい光が照らした廊下を歩いていた。窓からは遠くの生け垣に咲いた薔薇が見える。どこまでも続く空にわたのような雲がぽつりぽつりと浮かんでいた。

 こんな日は環に庭の散歩をねだられるものだが、今日はそうもいかない。環の婚約者、藤堂とうどう直幸なおゆきが屋敷に訪れる。一緒にお茶をするだけ、という名目だが、客が来ることに変わりはない。春の陽気が少し肌寒い風で落ち着くように、屋敷は静かな緊張を抱いていた。


「千枝」


 呼ばれた千枝は足を止めて振りかえった。心臓の速度が早くなったが顔には出ていないはずだ。声の主を確認して、丁寧にお辞儀をする。


「準備は順調かい?」


 穏やかな目を細めて、紀壱きいちは小首をかしげた。今日は休日のようで、フロックコートではなく、着流しに羽織姿だ。

 千枝は伏せ目がちな目はそのままに口を開く。


「はい。お嬢様の準備が調いましたので、お茶をご用意しようとしておりました」

「私の分も用意してくれるかな」


 千枝は、かしこまりました、と応える。


「環は応接間?」

「はい」


 千枝の簡素な答えに紀壱はじゃあ、またと声をかけて、階段を降りていく。

 千枝は青年の背に見送り、その場を後にした。廊下の角を曲がり体の動きを止めた後、無意識に詰めていた息を吐く。

 自分が仕える環の好みに合わせて香りがいい紅茶をいれる予定だったが、ミルクティーにも合うアッサムを準備しよう。確かシロップが馴染んだレモンケーキもあったはずだ。そこまで考えて、千枝は気付いた。

 環にはこれから来客がある。これではちょっとした休憩が立派なアフタヌーンティーになってしまう。二人分のアッサムティーと一人分のレモンケーキ、それで充分である。

 そう考えを正して、ごまかすように足を踏み出した。



 ❖ ❖ ❖



「藤堂様がご到着されました」


 入室した従僕が用件を伝えたのは、千枝が準備した紅茶をちょうど飲み終えたときだった。

 お通ししてください、と環が応えると従僕は礼をとって去っていく。ほどなくして、従僕に案内された婚約者が現れた。ダークグレーの背広といぶし銀のようなベストを品よく着こなしている。環の近くまで歩みよりうすい唇を開いた。


「久方ぶりです、環さん」

「ごきげんよう、直幸様。本日は楽しみにしておりました」


 ソファから立ち上がった環は綺麗に笑う。

 直幸は環の白い手を取って自身の唇を寄せた。

 触れるか触れないかのわずかな距離を環は微笑んで受ける。

 我が国は外国からのマナーを学び、貴族の挨拶が洒落たものになった。鎖国を貫いていた千枝が生まれる前では考えられなかったことだろう。礼儀とはいえ、あまり環に触れてほしくない千枝は時代遅れと言われるかもしれない。


「今日は私もお邪魔させてもらうよ。また興味深い話を聞かせてくれるんだって?」


 微笑みあう二人の横から、いたずらっぽい顔をした紀壱が声をかけた。

 直幸が体ごと令息に向けて、優雅に頭を下げる。


「紀壱様、ご無沙汰しております。いくつか面白い話を持ってきたので、お楽しみいただけたら幸いです」


 どこか芝居がかった言い方に千枝は心の中だけで直幸を罵る。何が『お楽しみ』だ。持ってくる話はいつも面白くも楽しくもない。壁際に立つ千枝は不躾に令嬢達を見ないように目を伏せた。

 三人はソファに腰を下ろして談笑し始める。


「先日、環さんがタルトに興味を持たれたようだったので、うちの料理人に作らせてみました。本場と同じとは言えませんが、試してみてください」

「まぁ! さっそくいただいてもよろしいかしら?」


 環の輝いた目に直幸は笑顔で首肯した。

 従僕は明確な指示を待たずに退室する。環の了承を得れば、準備をするように声をかけられていたのだろう。


「帝大が新しい催しをすると小耳に挟んだが、直幸君は関わっているのかい?」

「いえ、僕は関わっていません。何人かの学友が自分達の想いを伝える会を開こうとしているみたいで――」


 卒業生でもある紀壱が直幸の話を興味深く聞いている。

 このまま、何事もなく終わればいいのにと千枝は絶望に近い希望を抱いていた。

 控えめなノックが千枝の耳に届く。千枝は静かに扉を開け、確認すると従僕からワゴンを受け取った。空気になるよう心がけている千枝に誰も注意をむけない。

 会話を小耳に挟みながら、千枝はティーポットをかたける。普段は嗅がない最高級の香りに、一滴もこぼせないなと心の中だけで独りごちた。会話の邪魔にならないように、些細な力でもかけてしまいそうなティーカップと菓子ののった皿を慎重に並べていく。

 緊張を悟られないようにできるようになったのはいつからだろうか。達成感を味わいながら、部屋の端に戻ろうとしたそのときだった。


「先日、僕のところに不可思議なな話が舞い込んで来ましてね。申し訳ないのですが、ぜひ山本さんのお力をお借りしたい」


 千枝は睨み付けたい衝動を抑えて、環に視線を寄越した。

 環は困ったように苦笑して、目だけで千枝に自分のそばに控えるよう示す。


「内容にもよりますわ」


 環の言葉に千枝は見捨てられたような気持ちになった。そうは言っても、大抵のことなら断らない。全ての感情を無理やり押さえつけ、千枝は環の後ろに移動した。

 直幸は、紀壱様のご意見もお聞かせ願いたい、と前置きをして、流暢に話し出す。


「此度の一件は、西洋街で起こったことです。かの土地でも窃盗や殺人はたびたび起こることですが、今回の事件の大筋は神隠し。年若い娘だけが被害に合っています。神隠し、と言っても、ただ消えるだけではないようで……被害者の関係者によりますと、自ら出ていったと言うのです。話しかけても返事をせず、引き止めても逆らって何がなんでも行動を起こす――まるで、操られているように」

「被害者の共通点は?」


 紀壱の問いに直幸は首を振る。


「年若い娘、という以外は同じ地区に住んでいたことぐらいでしょうか。姿を消す時間も朝だったり夜更けだったり、定まりません」

「全員の動向も調べる必要がありそうだね」


 直幸の説明に紀壱は唸るように同調する。

 環は口をはさまずに思案げに二人を眺め、千枝は今回の案件は長引きそうだと内心ため息をついた。


「被害者等の情報は集められますが、不可思議なことも多い。西洋のあやかしが関わっていることも考えて、山本さんの手をお借りしたいのです」


 直幸は一瞬だけ千枝に視線を投げた後、環をじっと見つめた。

 環は向けられた視線を正面からしばらく受け、小さく息をつく。


「わたくしは直幸様のことを信じております。今回も千枝の無事を約束してくれますね?」

「はい、もちろん」

「調査の予定を組まれる際は必ず、前日までにお知らせください。手はずを整えます」

「わかりました」


 直幸は真剣な面持ちを一変させ、破顔で頷く。

 両手を軽く握りしめた環は自身を落ち着かせるように間をとった。


「千枝、頼めますね」


 環は振り返らずに、小さいながらもよく通る声で千枝に命じた。

 千枝は意識して、口端を少しだけ上げる。思うことはごまんとあるが、返事はもう決まっていた。


「微力ながら協力させていただきます」


 目を伏せた千枝は視界には絶対、直幸を入れなかった。


 


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