第三章 「取り残された少女  Don't leave」3-2

5


 辿り着いた屋敷の前で、一朔かずさは足を止めた。

 屋敷の玄関には、誰の姿もない。

 染治は、この屋敷の離れに住んでいるため、呼び鈴を鳴らしてもほとんど出てこない。そのため、彼が出てくる可能性は低いはずだ。

 そう思い。そして、呼び鈴を押した。

 高い音で響いた呼び鈴の音が、屋敷の中を通る。

 三度流れ、そして止まる。数秒待つと、玄関の扉が開いた。

 姿を現したのは、白と黒のエプロンドレスを着た女性。

 無表情を浮かべるのはかなでだ。

「お待たせいたしました」

 美しい一礼が、一朔を迎える。

 奏はこの屋敷の持ち主であり、染治の後見人でもある。

 一朔は、染治が出てこなかった事実に胸をなでおろす。

「……これは、一朔様。おはよございます」

「おはようございます」

 一朔が笑顔を返すと、奏は無表情の顔の傾けながら、

「一朔様、本日はどうなされましたでしょうか。……まさか、またお菓子でございますか?」

「いえ、残念ですけど今日は持ってきていませんよ?次に来る時は持ってきますね!」

「それは……ありがとうございます。お喜びになられます__染治様が」

「はい!今朝会った時、染治さんは持ってくるな。って言ってましたがそんなことないですよね?喜んでくれてますよね?」

「ええ……そうですね……そういう事にいたしましょう」

 奏の目線が一朔から、どこか遠くへと向かう。

「?」

 疑問符を浮かべる一朔に、奏はため息を吐いて話題を変える。

「……そんなことよりも、なぜ本日はこちらに?染治様でしたら、道場の方にいらっしゃいますが、お呼びいたしましょうか?」

 奏の提案に、一朔は浮かべていた笑顔を淀ませた。

「えっと、それは……今は顔を合わせずらいので……」

「そうでございますか?……まさかあの男何か仕出しでかしましたでしょうか。これはそろそろ本当に一度、折檻せっかんする必要がございますね……」

 眉を顰めて呟いた言葉の端に、一朔は慌てる。

「待ってください。奏さん!染治さんは何もしていませんから、ひどいことはしないで上げてください!」

 染治は何もしていない。過去の話題を出したのも、怒らせてしまったのも一朔なのだ。

「……悪いのは……私、ですから」

 肩の落ちた暗い顔をする一朔。その様子を見た奏は、

「……畏まりました。一朔様が仰るのでしたら、許すことにいたしましょう」


6


「それでは、どのような御用でございましょうか?」

 改めて言われた問いに、一朔は自身の右腕に抱えていた荷物を思い出した。

「あ、えっと、そうでした。これなんですけど、お父さんからこの小包を奏さんにお渡しするように言われまして、持ってきました」

克己かつみ様から……でございますか?」

「はい。こちらです」

 抱えていた小包を奏に渡す。

「それでは失礼いたします」

 小包を受け取った奏は、数秒手元で眺める。

「こちら、開けさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「え、あ、はい。大丈夫だと思います」

「では、」

 言うと、奏は小包の梱包を剥がして中身を取り出す。

 中から出てきたのは、木製の箱と折りたたまれた一枚の紙。

 木箱には、複雑な文字が書かれている札のようなものが、幾枚か貼られている。

 折られた紙には、何か文章が書かれていて、手紙となっているようで、裏側からインクが透けて見える。

「これは……」

 奏は、手紙を開き中身を読みだした。

 目線だけで、内容を確認した奏は、最後の一行を読み終えると目を細める。

「……なるほど」

「お父さんはなんと?」

「……私への仕事の依頼のようでございます」

 仕事。

 それは、克己が定期的に奏へと依頼しているものだ。だが、その内容までは聞いていない。

 電話で仕事のやり取りをしていることはあったが、今回のように手紙での依頼は初めてではないだろうか。

「急ぎの要件の様でございます。本日中には動きださなければ__」

「いつもありがとうございます。奏さんもお忙しいはずなのに……」

「構いません。私もいつも克己様にはお世話になっておりますので」


7

 

「それじゃあ、お忙しいと思うのでこの辺りで失礼しますね」

「畏まりました。またいつでもお越しください」

 そう言うと奏は深く頭を下げた。

 一朔は屋敷の前を後にしようと振り向く。

 だが、今朝から思っていた疑問に足が止まる。

「あ、そうだ、その……帰る前に……一ついいですか?」

 声と共に振り向くと、奏は下ろしていた頭を上げてこちらを見る。

「はい。何でございましょう?」

「えっと、その……染治さんに彼の過去を……忘れてしまったものを教えてあげることはできませんか?」

 一朔の放った躊躇いがちの問いに、奏は表情を硬くした。

 奏の表情に気付かず、一朔は続ける。

「染治さんは忘れてしまったものが何なのか解らず苦しみ続けているんです。その姿を私は……見ていられない」

「自分が、なぜこの屋敷の離れで暮らしているのかさえ染治さんは知らないんです!」

「そんなの……もう……だから、だから!教えてあげることは……できないんで……しょうか」

 少しづつ語気を落としていく一朔は、語気と共に肩と視線も落ちていく。

 その様子に、奏は冷静な首肯を示した。

「一朔様……お気持ちはわかります。確かに染治様は己の過去に悩み続けておられる」

 肯定に、一朔は期待に視線を上げる。だが、奏の口から続いたのは否定。

「ですが、それでも染治様にお伝えすることはできません」

「そんな……」

 一朔は奏に訴えるような瞳を向ける。その必死な姿に奏はため息を吐く。

「仕方がありませんね……」

 本当に仕方ない。といった表情で言葉を作った。

「教えないというのは、ただ悪戯に行っているものではございません」

「それは……?」

 どういうことか。疑問の視線を向ける。

「染治様は非常に特殊な体質をしていらっしゃるのです。もし己の過去を、を知ってしまった時、その体質がどのように転ぶか、私達にも一切予測できないのでございます」

「それは__」

 唖然とする一朔に、奏は続ける。

「本当のことを伝えないのは、染治様を守るためなのでございます。だからご理解をお願いいたします」

 またも奏の頭が下がった。

「__」

 答えられない一朔に奏は、

「それに、あの日のことをお忘れですか?一朔様」

 奏の言葉に一朔は目を見開いた。

 その様子を気にせず奏は、こちらを真っ直ぐに見据えて、

「ですが、もし染治様が覚悟と決意を持ち、自身の過去と相対するならば。そしてその時、染治様の傍に染治様を支えることの出来る誰かがいらっしゃれば。染治様は自身のに立ち向かうことが出来ると、私は信じております」

 告げられた言葉に、一朔は何も答えることが出来ない。


8


 奏と別れ屋敷の玄関から離れた一朔は、屋敷のへいに沿ってもと来た道を歩いていた。

 両手でスクールバックを持ち、俯いた表情は暗い。

 足を動かしながら考えるのは、先ほどの奏の言葉。

「信じる……ですか」

 こちらを見つめる奏は普段の無表情ではなく、口元に笑みを浮かべた優し気な表情で、本心からの言葉であると分かった。

 そして、忘れられるはずの無いあの日のこと__。

 ふと足を止めた。

 視線を足元から、左の塀、そしてその奥に見える瓦の屋根へと移す。

 それは、先ほど奏から聞いた染治が現在いるはずの場所。

 だが、道路側からは道場の中を覗くことはできない。

「染治さん……」

 吐息が漏れる。そして自然に右手が自身のひたいへと伸びた。

 それは、傷痕きずあと

 前髪にて隠されていた小さな傷は、三日月の形をしていた。

 触れ、そしてなぞる。

 痛みは無い。それは、既に古傷ふるきずと呼ばれるもの。

 手に返される感覚にともなって想起されるのは、過去の記憶だ。

 傷と共に、文字通り心に刻まれた古傷。

 7年前、染治の覚えていない一朔だけの苦い思い出。

「私は……」

 あの日の空は、曇天だった。


9


 曇天の分厚い雲が、空を覆っていた。

 もうすぐ降り始めそうな暗い空の下。幼い一朔は、右手に折りたたまれた真っ青な傘を持って立っていた。

 場所は、屋敷の離れ。その玄関。

 締め切られた扉に手を掛け、開ける。

 離れの中、土間から奥に続く廊下は暗く、人の気配が感じられない。

「お邪魔します」

 玄関の土間には、子供用の黒い靴がその一足のみ揃えて並んでいた。

 傘立てに持っていた傘を差し、脱いだ自身の靴を黒い靴の隣に並べる。

 離れに入ってすぐ。目の前にある階段を上る。

 上がった二階の一番奥にある扉。またも締め切られた扉を、開ける。


 その部屋にあったのは、何も並んでいない本棚とベッド。

 そして、ベッドの上に寝かされた子供。

 10歳ほどの少年は、目を開けて中空の一点を見つめ動かない。

「染治さん、来ましたよ?」

 一朔が声を掛ける。だが、染治からの反応は無い。

 身じろぎもしない彼を、見つめる一朔は悲し気な笑みを浮かべる。

 染治が行方不明になって数日後、彼は一朔の暮らす神社の裏山にある湖で、染治の姉である藍奈あいなによって発見された。

 それから数か月、彼は自失状態でこちらからの呼びかけに答えてくれない。

「染治さん、藍奈さんが用事で出かけていらっしゃるので、私がお世話しますね」

 返答の無い問いかけが、暗い部屋にむなしく響く。

 人形のような状態で食事なども誰かに支えられなければ、不可能なほど。そのため、普段は藍奈が付きっ切りで看病している。だが、今日は藍奈が急な用事で出かけなければならないようで、奏も忙しく付きっ切りは難しい。そのため、一朔が染治の看病を頼まれたのだ。

 毎日様子を見に来ていた一朔は、ある程度染治の状態を分かっていた。それでも、一日看病を任されるのは初めてで、

「私、がんばりますね」

 両手を胸の前で握り、笑顔を無理やり作る。


 近付き、掛けられていた布団をずらす。

「染治さん、起きましょうか」

 寝かされた染治の背中に腕を入れて、体を起こす。

 染治は、こちらの動きに身を任せてくれて、その感覚に嬉しさを感じる。

 だが、その感情があまりにも自己中心的で、嬉しさは一瞬で嫌な感情にまみれた。

「その……ごめんなさい」

 独り言の謝罪が、意味もなく吐き出される。

 染治を枕に腰掛けさせる。

 どうしようか。と視線を彷徨わせると気付く。

 染治の手元。右手の中で何かが握られている。

「これは……?」

 よく見ると、それは銀の鎖に付けられたペンダントのようだ。

「これはどうされたんですか?」

「__」

 答えは無い。

 どうすればいいか分らなくなった一朔は、問うてしまう。

「染治さん。あの日何があったんですか?」

「染治さん。何で忘れてしまったんですか?」

「染治さん。なぜ変わってしまったんですか?」

 全ての質問に答えは無い。

 だが、最後の問いにだけは違いがあった。

「染治さん、覚えていますか?」

 それは、奏から口止めされていた問い。

 自然と問うてしまった言葉に、一朔の心に失敗の文字が並ぶ。

 そしてその問いに、焦点の定まっていなかったはずの染治が反応を示した。

 それは、叫び。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 目を剥き、鬼のような形相となった染治が両腕を振り回した。

 至近距離にいた一朔は染治の腕に突き飛ばされる。

 床に転び、腰に痛みが来る。

 染治に起こった、唐突な豹変ひょうへんに一朔は動けない。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 叫びは、何かに嘆くかのようで、否定するかのようで。

 驚きと恐怖に転んだ痛みにも意識が行かず、一朔は唖然となる。

 怒涛の怒号の中で、染治が右腕を上下に振り下ろした。

 その動きで、手の中に納まっていたペンダントが宙に飛ぶ。

 それは動けなくなっていた一朔に飛び、そして当たる。

 鈍い音がして、強い痛みが額に来た。

 赤い色が付いたペンダントが足元に転がる。

 右手で当たった部分に触れると、強い痛みと共に手が赤く染まる。

 頬を赤い液体が流れた。

 そこで、一朔の意識は途切る。


 静まり返った部屋。

 額に傷を受けた一朔は床に倒れ、染治はすでに意識を失いベッドに横たわっていた。

 動きの無い空間の外で動きが発生した。

 それは、部屋の窓に入った一筋の線だ。

 雨。

 曇天は、我慢ならず雨を流す。

 それは彼らを眺めていた世界が流す涙のよう。

 叫びを聞きつけたのか、階段を駆け上がる足音が響いた。

 扉から覗いたのは奏。

 染治の大声に、母屋から急いで駆け付けたのか、白と黒のエプロンドレスは雨に濡れていた。

「これは……」

 無表情を歪めた奏は、一朔と染治に駆け寄る。

 窓の外。連なる雨は強くなっていく。

 それは何かに嘆くかのように、否定するかのように__。


10


 記憶と同じ動きで、一朔は額の傷痕をなぞった。

「私が間違っているのでしょうか……?」

 問うても染治には届かない。

 あれ以来、を話題に出さないようにしてきた。

 だから、どうしても染治とのやり取りはぎこちなくなってしまう。

「変わってしまったあなたに、私は、なんと声を掛ければよいのでしょう……?」

 それは、今朝から、そして7年前から変わらない疑問。

 だけど、もう__。

「これ以上、私は、染治さんを傷つけたくないです」

 それでも、願ってしまう。

「思い出して欲しいんです。すべてを」

 きっとこの願いは、

「私のわがままでしかないのでしょう」

 私は間違い続けている。

 だけど、この願いを捨て去ることはできない。

 だって、

「じゃないとあの子が可哀想じゃないですか」

 一朔は道場から目線を切った。

 繰り返した言の葉を引きずって、足を踏み出す。

 逃げるように向かうのは、本来の目的地だ。

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超克のディザイア ー小さな太陽ー 和風(wakaze) @wakaze_666

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