第三章 「取り残された少女 Don't leave」3-1
1
これは染治とアマテラスが出会う少し前。
時間は早朝。
夜の闇が、東にそびえる山脈の峰から漏れ始めた光によって白ずんできている。
青に至るにはまだ遠い空を天井に、明かりの無い、薄暗い森に囲まれた場所があった。
正面、階段の先に朱色の大きな鳥居が立っている。
鳥居の傍、縦に長い石碑には、この場所の名が刻まれていた。
幻能神社、と。
太陽の神を奉ると言われる神社。その境内に二つの動きがあった。
一つは、その場から立ち去ろうとする青年。
一つは、立ち去る少年を背後から見送る少女。
見送る少女は、緋色の袴に白の衣を身にまとっている。
困ったように眉を下げ、迷うような表情で青年を見る少女は、この神社の神主の娘であり、巫女でもある
一朔は、 黒地に白のラインが入ったジャージを纏い、神社の暗がりに姿を消そうとしている青年、
「まって!」
一朔は声を掛けてから気付く。彼を呼び止めた理由が解らないということに。
彼女の声に、染治は足を止めた。
「どうした?」
染治の普段より一段低い返答。咎めるような言葉に一朔は焦る。
「えっと、その……思い出せましたか?」
動揺と焦りで絡んだ思考の中、口から出たのは問い。
「それは……」
染治が言葉を止めたことで、一朔は己の失敗を理解した。
失敗は、問いの内容。
それは、記憶を問うものであり、また染治を怒らせてしまうものだ。
一朔が自身の間違いに動けなくなっていると、返答が来た。
「思い出せない。思い出せてねーよ」
そっけない言葉には、微かに怒気が含まれていて、心に生まれたのは後悔。
「そっか……」
己の行為に落胆し、肩を落とす。
失敗した。その思いが頭を支配する。
なぜ思い出せたかなどと聞いてしまったのか。
「もう思い出せなくていもいいだろ。そりゃ思い出せたらいいだろうけど、忘れちまったことはどうしようもない。失った物に思いを
一朔が後悔で精いっぱいになっていると、染治から来たのは言葉の羅列。
早い口調で紡がれたそれは、諦めを含む。
だが、言葉の端に、何かへの怯えを感じた。
「それに?」
止まった言葉の続きを問うが、何でもないとごまかさせる。
「……そっか」
去り際、じゃあ行くな、と残して染治は駆けていった。
神社の裏手へと走っていく染治の背を、一朔は見つめていた。
駆けていく染治は、こちらを振り向くことは無い。
彼は本殿の横を抜け、そして曲がった。
染治の姿が見えなくなっても、一朔はその場を動けない。
呆然と立ちすくむ一朔は、駆け去る直前。染治が見せた苦しそうな横顔を思い出す。
恐れるような、怯えるような表情が網膜に焼き付いていて、
「……ごめんなさい」
小さな吐息のように、謝罪の言葉が漏れた。
あの表情は自分のせいだ。
だけど、
「思い出を失ってしまったあなたに、私はなんと声を掛けてあげたらよかったのでしょう?」
境内に響く声は、自責と疑問を含む。
「あなたが思い出を置いて行ってしまうなら、その思い出に残されていく人間は……どうしたらよいのでしょう?」
問いは、境内の冷えた空気を揺らすだけで、誰にも届かない。
ただ、未明の暗がりに吹き黙るだけであった。
2
染治を見送った一朔は、社務所の裏に備え付けられた小さな倉庫の前に居た。
引き戸となっている倉庫の扉に手を掛け、開ける。
中から取り出したのは、竹箒。そしてバケツと
一朔は、使い込まれ少しくたびれの見えてきた箒を両手で持ち、境内の掃除を始める。
長く垂れた白衣の袖を揺らしながら、落ちた葉を掃う。
思うのは、先ほどの会話。
染治が、思い出についての話題を嫌うことは分かっていた。
それでも問うてしまったのは、一朔が彼の失った記憶。その内容を知っているからだろうか。
染治は、とても大切なものを忘れてしまっている。
だが、そのことについて一朔は伝えることはできない。
一朔の父である
彼は、己の過去を知る人間から、一切過去について教えられていない。
その事実が、染治を苛んでいるのだろう。
結果、諦めが生じてしまっているのかもしれない。
だからこそ、伝えられないことが心苦しい。
教えてあげたい。それで彼が少しでも楽になるのならば、でも……。
「……ごめんなさい。染治さん」
二度目の謝罪。
届かない謝罪に、意味は無いと分かっている。
それでも、口は勝手に動く。
「私からは教えられない。だからあなた自身に思い出してほしい。そう思ってしまいます」
いつの間にか自分の手が止まってしまっていたことに気付く。
慌てた動きで掃除を再開。
今日はこの後、用事があるのだ。早めに終わらせなければ。
3
太陽は、いつの間にか空に上がっていた。
長く続いた階段を登り切り、一朔が辿り着いたのは湖の畔。
小さな広場になっているそこは、神社の裏手から繋がる場所で、山の中腹だ。
一朔が両手で持つのは、水の入ったバケツ。そこには柄杓が刺さり、布が縁に掛けられている。
広場には、先に染治が来ていたはずだ。
だが、誰の姿も見当たらない。
いつの間にか、入れ違っていたのだろうか。
「……よかった」
思わず口から洩れたのは、安心の言葉。
言葉の意味に気付かずに、一朔は湖と広場を隔てる柵に近づく。
そこにあったのは、小さな石碑。
石碑には、言葉が刻まれている。
『日向』
二文字で構成された言葉は、名前だ。
「今日も、綺麗にしに来ましたよ」
一朔は、書かれた名に向けて優しい声を掛ける。
バケツから水を柄杓で取り出し、石碑に注ぐ。
そして濡らした布で、石碑の汚れを落としていく。
「染治さんが来ていたようですが、会えましたか?」
応答のあるはずの無い問いかけは、自己満足でしかない。
それでも言葉は続く。
「やっぱり……私はあなたを置いていくことはできません」
一朔が見つめるのは、石碑に刻まれた名前。その先にいる誰か。
『ブッチヌイて!ブットバシて!キッラメク必滅!悪・即・弾!』
突然、物騒な内容でポップな曲調の歌が、かわいらしい女の子の声で湖に響いた。
音楽と共に、懐の携帯が振動。
鳴ったのは、昔、友人に見せられたアニメのオープニング曲。
見た後に、その友人に無理やり設定させられたのだ。
それ以来、変更方法も解らず、そのままとなっている。
確か『月光美少女アルテミス』だったか。
月から降臨した女神アマテラスが、魔法少女として得意の弓技で謎のギリシャ怪人をボコボコにする。といった内容だった。
子供向けのかわいらしいキャラクターに、弓矢が貫通して鮮血が飛び散る演出がなかなか凝っていた。だが今思うと、あれは子供向けにしては過激すぎたのではないだろうか。
そんなことを思いながら、石碑を清める手を止めて立ち上がる。
懐から携帯を取り出す。
その画面に並んだのは、『お父さん』の文字。
一朔の父である克己からの電話だ。
『月の光に~照らされて~、穿て!必殺!「ルナティック・アロー」!』
曲の二小節目。必殺技が繰り出された直後、電話に出た。
『もしもし、一朔かい?』
「うん、どうされました?お父さん、今日は他の神主の方との会議だったはずですが」
疑問を投げると、ああ、と前置きをして、
『それが、家を出るときに伝えようと思っていたことを、すっかり忘れていまして』
「何でしょうか?」
『それが……おっと、危ない。一朔少し待ってておくれ』
言うと、声が遠ざかった。
『ちょっと!しげさん!白熱するのはいいですが、こっちに刃物投げてこないでもらっていいです!?危ないでしょう!……なんです?娘と楽しそうに電話しやがってクソ野郎。ですって?こちとらかわいい愛娘が春休みに入ったので、楽しく二人で過ごそうと思ってたのに、わざわざこちらに来たんですよ?悔しかったら、今から自分の反抗期の娘にでも相手してもらってください!無理でしょうがね!』
薄く届く言葉に、一朔は苦笑。
『おっとすいません、お待たせしました』
「いえ、お忙しそうですし、あとで連絡してくださっても大丈夫ですよ?」
『大丈夫ですよ。あんな人たちはほっとけばいいのです』
続いたのは困り声だった。
『お父さんの机に、茶色の小包が置いてあるのですが、それを奏さんの屋敷まで持っていってくれませんか』
「え__」
受けた言葉に思考が止まる。
奏の屋敷。それはイコールで染治の家である。
先ほどのことがあった後だ、顔を合わせずらいのだが、
『どうしましたか?都合、悪かったですか?』
一朔は、かぶりを振る。
「いえ……大丈夫です」
頷いて続けた。
「今日は、生徒会の用事で学校に行く予定でしたので、ついでに行ってきますよ」
『ありがとう。だけど、学校とは反対だろう?』
「途中までは同じみちです。それに、授業があるわけではないですし、よく行っていますから大丈夫です」
答えて、ふと思い出した。
「そういえば、今朝、染治さんと会ったのですが、お父さんに何か相談があったみたいです」
『染治君が……かい?』
「はい、何かあったんでしょうか?」
少々の間の後、克己は真面目な声で、
『……いや、きっと一朔をお嫁に下さい。ってやつだろう。帰ったらぶん殴ってやらないといけません。お父さんは認めません!てね。憧れてたんですよそういうシチュエーション』
「ちょッお父さん!?何トチ狂ったこと言ってるんですか!そんなことある訳ないでしょう!」
一朔は顔を真っ赤にして、焦った否定を叫ぶ。
それは、誰もいない湖に響いた。
4
青く晴れた空。
雲のまばらな空には、太陽が中天に置かれていた。
小春日和とも言える暖かな光が、坂道に降り注いでいる。
ゆるい傾斜を持つ道を、学生服を着た少女がゆっくりと歩いている。
黒髪を短く切った少女、一朔だ。
一朔の右手には、克己から言づけられた小包を浅く抱いている。左手には、手提げ型で革地のスクールバックを持っていた。
左腕に付けた、細いベルトに兎の意匠が入った女性ものの腕時計を見る。
時間は、10時30分を過ぎたところ。
神社の掃除を終わらせた一朔は、体の汚れを禊いだ後、制服に着替えた。
その後、朝食を食べて家を出たのだ。
一朔が目指すのは、奏の住む屋敷。
周囲の住人から『知らずの館』と呼ばれるその屋敷は、神社から少々距離がある。
だが、一朔にとってその道のりは、慣れ親しんだものだ
小学校。いや、それ以前から、克己に連れられて何度となく往復してきた。
目をつむってでも行って帰ってくることが出来るだろう。
そんな、迷うことなく辿り着けるはずの道を行く一朔の歩みは、それでも迷いを含んでいた。
奏の住む屋敷。その離れには染治が暮らしている。
今朝会ってからすでに時間がたっているため、とっくの昔に帰っているだろう。
朝から変わらない感情を抱く一朔は、染治と顔を合わせたとき、なんと言えばいいか解らずにいた。
「やっぱり、ごめんなさい……でしょうか」
謝ると言いうことは、彼に許しを請うということ。
きっと気にしていること自体が、染治を怒らせてしまう。
「それとも……気にせず話しかけた方が良いのでしょうか」
それでは、このわだかまる感情が納得してくれない
どちらも正しく、そして間違っているようにも感じて、
「今は……あまり会いたくありません」
名前の付けられない、暗い色をした感情を持て余す。
気落ちした心とは裏腹に、足は動いていく。
すでに、屋敷は目の前だ。
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