第一章 「失った青年 Lost desire」1-2

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 染治の住む幻能げんのう市は、山々に囲まれた盆地に広がる街だ。

 彼の住む家の位置は、盆地の北側。

 周囲を囲む山の一つ。そのふもとにある。

 盆地特有の気候で、寒さは底に溜り、暑さで街が蒸される。

 今は早朝、春に入ってたと言っても、まだ寒さが溜る時間だ。足元から忍び寄ってくる冷気を蹴るように足を動かしていく。


 丘の上に存在する屋敷から、左右を木々に囲まれた坂道を下る。

 坂道の終わりと共に、木々も途切れて住宅街へと入った。

 早朝の薄暗い住宅街は、人の影が見当たらない。

 唯一電気が灯っているのは、住宅街に場違いに建てられた喫茶店のみ。

 『喫茶 空』と看板を掲げた喫茶店は、染治がバイトでお世話になっている場所だ。

 今日は昼からのシフトを入れていたはず。灯が付いているのは、マスターがすでに準備を始めているからか。

 喫茶店の前を通り過ぎ、住宅街をまっすぐに数分走ると、左折。そのまま道なりに抜けるとだんだんと民家の数が減少した。

 民家の減少に比例して、道は傾斜を上げていき、山登りのていを見せてくる。

 左右にまた木々が並び始める。それが車道を挟んだ左手はアスファルトの壁に、右手はガードレールとその先に木々の並ぶ下向きの斜面へと移り変わった。

 すでに山のある程度を上っており、右手の眼下には、幻能市のほの暗い街並みを望むことが出来る。

 右側から、染治の通う高校、病院、電波塔が並ぶ。そして、川を挟んだ先には、複数のビルが並んでいる。

 見慣れた街並みを視界の右に置きながら、坂道を上る。

 視界の端、左手の壁が途切れた。

 途切れは、階段であった。

 目的地であるそれに向けて、足を速める。

 階段を駆け上がり、見えてくるのは鳥居。

 神社だ。


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 幻能神社。幻能市の東に位置する、この街唯一の神社。

 天照大御神を主祭とする、神明しんめい社系列に当るそうだ。

 太陽の神を祭る神社の境内は、未だ未明の暗がりに包まれていた。

 鳥居をくぐり、少し進んで足を止めた。

 乱れた息を整える。

 吐息と共に境内を見渡す。足元の参道は、正面の拝殿に繋がり奥には本殿が見える。右手には階段。その先には、社務所兼自宅となっている建物が見える。

 左手には、参道から分かれて、拝殿の裏手への道が続く。この道の先は、裏手の山を登る山道に繋がっている。目的地はその先だ。


 もう一息だ。そう思い駆け出そうと、一歩を踏み出した時、右手から声が来た。

 「あれ?染治さんですか?」

 突然の声に足を止め、声の方角に振り向く。

 声の主は、女性。白衣はくえ緋袴ひばかまで構成された巫女装束を着た、短髪の黒髪で背の低い少女だ。

 彼女は、神明かみあけ一朔かずさ。この神社の神主の娘として巫女を務めている。染治と同学年で、7年よりも依然からの知り合いらしい。伝聞形なのは、やはり彼女についても、7年より以前を覚えていないからだ。


「おはよう。一朔」

「はい、おはようございます。今日は早いのですね」

 社務所から出てきた一朔は、社務所から参道に繋がる階段を駆け下りてくる。

「あぁ、奏さんにも同じことを言われたよ。そんなに俺が早起きするのは意外か?」

「そんなことないですよ。染治さんはいつも同じ時間に来られますから、少し驚いただけです」

「どうだかな」

 肩をすくめて答える。

「そんなにねないでください。また沢山お菓子作って、持っていきますから」

 上目遣うわめずかいで、こちらを見上げてくる一朔のひたいを、てのひらで叩いた。

「いたぁ!何するんですかぁもお」

「お前の『沢山』は尋常じゃねえんだよ!なんだよ、お菓子だけで業務用の冷蔵庫が埋まるって。聞いたことねえよ」

「えぇー。いいじゃないですか。おいしいが一杯ですよ?それに奏さんも受け取るとき笑顔ですし」

「あれはキレてんだよ!いつも無表情の奏さんが笑顔の時点で察しろ」

 えぇー。と唸った一朔は納得がいかない様子だ。


 頬を膨らませた一朔に、半目を向けながら問う。

「そういえば、克己かつみさんはどうした?」

「あぁ、お父さんなら今日は、神主同士の集会で県外に出てますよ」

「そうか」

「何か用事がありましたか?」

 一朔の父親である神明かみあけ克己かつみは、唯一、呪いについて伝えている人間だ。今朝の出来事について相談したかったが、不在らしい。

「少し相談したいことがあってな。帰ってきたら教えてくれ」

「分かりました。伝えておきますね」


 頼むと嘆息を一つ入れ、気を取り直す。

 そろそろいくからな。と言って走り出そうとすると、呼び止めの言葉が来た。

「まって!」

 足を止め、どうした?と肩越しから問う。

「えっと、その……思い出せましたか?」

 背後から掛けられた、詰まりながらの問いは記憶の確認。ならば理由も明白で、

「それは……」

 言葉に詰まる。失った記憶についての話題は、染治にとって最も問われたくない問いだ。

 だから

「思い出せない。思い出せてねーよ」

 背を向けたまま、そっけなく答える。

「そっか……」

 明らかな落胆の声。それは期待している証拠だ。

「もう思い出せなくていもいいだろ。そりゃ思い出せたらいいだろうけど、忘れちまったことはどうしようもない。失った物に思いをせ続けても、何も始まらないからな。それに___」

 肩越しの答えは、早口で言い訳をしている様だった。

「それに?」

「いや、何でもないよ」

「……そっか」

 悲しそうな声に罪悪感が心を突く。それを無視し、じゃあ行くな。と残して逃げるように走り出した。

 向かうのは、神社の裏手に続く道。


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 拝殿と本殿の横を抜けて、裏手に回る。

 山の中腹へ向かう階段にたどり着く。その隣には、ほこら。山肌が崩れた上に小さな社が備えられていた。

 祠を横目に、階段に足を掛けた。

 左右を木々に挟まれた道は、急な角度で山の高い位置へ繋がっている。

 ただ無言で階段を踏みしめ、駆け上がっていく。

 道中は落ち葉なども少なく、整備が丁寧に行われていることが分かる。脳裏に浮かんだ一朔の顔に頭を振った。


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 そしてたどり着いた場。そこは山の中腹に広がる、小さな湖のほとりだった。

 小さな広場となっているそこは、階段から見て右側を鬱蒼とした森に囲まれ、左側は湖に面している。

 湖には木造の柵が張られ、入り込むことが出来ない。

 階段から、柵に近づく。そこには小さな石碑があった。

 丁寧に整備され、苔の一つもないその石碑には、何か言葉が刻まれている。しかし、その言葉は、掠れてしまっていて読むことが出来ない。

 柵の傍、石碑から離れた位置で足を止め、手すりに手を掛ける。

 視界を上げ、湖を見渡した。


 早朝、そろそろ日が昇ってくる時間だろうか。東に位置する山脈のみねが少しずつ光をたたえ始めていた。

 湖は、空の黒を反射させ漆黒を映している。

 感じるのは、風。

 山からの、吹きおろしの風が湖を揺らし木々が騒めく。


 束ねていた髪留めを外す。山風に晒された髪が流され、はためいた。

「ここは、あの日から何も変わらないな。」

 口から漏れ出した言葉は、懐古。

 7年の月日。他者よりも短い時間としての最古。生きてきた時間。それらが、今の天桐染治を作り上げてきた。

 失った過去。思い出。時間。それらはすべて己の中に存在しない。

 一朔との会話を思い出す。

「それに、思い出しちまったら、今の俺が俺じゃなくなっちまうんじゃないのか?」

 あの時、発することの出来なかった感情が、今頃言葉として成立する。

 それは。思い出してみなければ分からないこと。だが、だからこそ、思い出してしまうことが恐ろしく感じる。

 湖に映った空の色が、己の心をも映しているように感じる。

 痣が疼く。

 それは呪いの前兆。捕らわれるはずの怨念に身を構えた。


 その時、響いたのは鈴の音。

 澄んだ鈴の音は、心を洗い流し正していくかの様。

「?」

 疑問が浮かぶ。予想とはかけ離れた音に、心が空白を生んだ。

 音が聞こえてくる位置は、小さな石碑がある方向だろうか。

 湖に置いていた視界を、右に向けた。


 石碑の傍、染治から離れた位置に立っているのは、少女。

 白の装束に赤を基調として、金の装飾が施させた衣を纏った少女。

 肩にかかる亜麻色あまいろの髪は、風に揺れて揺蕩たゆたっている。

 薄暗い中では、表情を確認することはできない。だが、彼女がこちらを見ていることだけははっきりと感じた。

 いつの間にか鈴の音は止まっていて、

 言葉が来た。


「やっと会えたね。ずっと、ずっと待ってたんだ」

 それは待ち人への待望を伝える言葉。

「初めまして、出会ってくれてありがとう」

 新たなる出会いを祝福し歓迎する言葉。

「千年、僕は君を待ち続けてきたんだ」

 長い時を経た再会を祝福し歓喜する言葉。

 それらを紡いだ声は、何処までも届き祝福する鈴の音ような響きを持つ。


 太陽が山脈の峰から、姿を見せた。光が溢れ少女を照らし出す。

 陽光を受けた少女の亜麻色の髪が、光に答え金の色に輝く。

 照らされた少女は、咲き誇る向日葵ひまわりのように、明るく美しい笑顔で、浅く眉を立て真っ直ぐにこちらを見つめていた。

 少女は、こちらに真っ直ぐ手を伸ばしていた。

 そして、

「僕は君の願いを、叶えに来たんだ」

 それは、

「教えて、君の願いを」

 己が願いを問う言葉だった。

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