第一章 「失った青年 Lost desire」1-2
7
染治の住む
彼の住む家の位置は、盆地の北側。
周囲を囲む山の一つ。その
盆地特有の気候で、寒さは底に溜り、暑さで街が蒸される。
今は早朝、春に入ってたと言っても、まだ寒さが溜る時間だ。足元から忍び寄ってくる冷気を蹴るように足を動かしていく。
丘の上に存在する屋敷から、左右を木々に囲まれた坂道を下る。
坂道の終わりと共に、木々も途切れて住宅街へと入った。
早朝の薄暗い住宅街は、人の影が見当たらない。
唯一電気が灯っているのは、住宅街に場違いに建てられた喫茶店のみ。
『喫茶 空』と看板を掲げた喫茶店は、染治がバイトでお世話になっている場所だ。
今日は昼からのシフトを入れていたはず。灯が付いているのは、マスターがすでに準備を始めているからか。
喫茶店の前を通り過ぎ、住宅街をまっすぐに数分走ると、左折。そのまま道なりに抜けるとだんだんと民家の数が減少した。
民家の減少に比例して、道は傾斜を上げていき、山登りの
左右にまた木々が並び始める。それが車道を挟んだ左手はアスファルトの壁に、右手はガードレールとその先に木々の並ぶ下向きの斜面へと移り変わった。
すでに山のある程度を上っており、右手の眼下には、幻能市のほの暗い街並みを望むことが出来る。
右側から、染治の通う高校、病院、電波塔が並ぶ。そして、川を挟んだ先には、複数のビルが並んでいる。
見慣れた街並みを視界の右に置きながら、坂道を上る。
視界の端、左手の壁が途切れた。
途切れは、階段であった。
目的地であるそれに向けて、足を速める。
階段を駆け上がり、見えてくるのは鳥居。
神社だ。
8
幻能神社。幻能市の東に位置する、この街唯一の神社。
天照大御神を主祭とする、
太陽の神を祭る神社の境内は、未だ未明の暗がりに包まれていた。
鳥居を
乱れた息を整える。
吐息と共に境内を見渡す。足元の参道は、正面の拝殿に繋がり奥には本殿が見える。右手には階段。その先には、社務所兼自宅となっている建物が見える。
左手には、参道から分かれて、拝殿の裏手への道が続く。この道の先は、裏手の山を登る山道に繋がっている。目的地はその先だ。
もう一息だ。そう思い駆け出そうと、一歩を踏み出した時、右手から声が来た。
「あれ?染治さんですか?」
突然の声に足を止め、声の方角に振り向く。
声の主は、女性。
彼女は、
「おはよう。一朔」
「はい、おはようございます。今日は早いのですね」
社務所から出てきた一朔は、社務所から参道に繋がる階段を駆け下りてくる。
「あぁ、奏さんにも同じことを言われたよ。そんなに俺が早起きするのは意外か?」
「そんなことないですよ。染治さんはいつも同じ時間に来られますから、少し驚いただけです」
「どうだかな」
肩を
「そんなに
「いたぁ!何するんですかぁもお」
「お前の『沢山』は尋常じゃねえんだよ!なんだよ、お菓子だけで業務用の冷蔵庫が埋まるって。聞いたことねえよ」
「えぇー。いいじゃないですか。おいしいが一杯ですよ?それに奏さんも受け取るとき笑顔ですし」
「あれはキレてんだよ!いつも無表情の奏さんが笑顔の時点で察しろ」
えぇー。と唸った一朔は納得がいかない様子だ。
頬を膨らませた一朔に、半目を向けながら問う。
「そういえば、
「あぁ、お父さんなら今日は、神主同士の集会で県外に出てますよ」
「そうか」
「何か用事がありましたか?」
一朔の父親である
「少し相談したいことがあってな。帰ってきたら教えてくれ」
「分かりました。伝えておきますね」
頼むと嘆息を一つ入れ、気を取り直す。
そろそろいくからな。と言って走り出そうとすると、呼び止めの言葉が来た。
「まって!」
足を止め、どうした?と肩越しから問う。
「えっと、その……思い出せましたか?」
背後から掛けられた、詰まりながらの問いは記憶の確認。ならば理由も明白で、
「それは……」
言葉に詰まる。失った記憶についての話題は、染治にとって最も問われたくない問いだ。
だからこいつは苦手なんだ。
「思い出せない。思い出せてねーよ」
背を向けたまま、そっけなく答える。
「そっか……」
明らかな落胆の声。それは期待している証拠だ。
「もう思い出せなくていもいいだろ。そりゃ思い出せたらいいだろうけど、忘れちまったことはどうしようもない。失った物に思いを
肩越しの答えは、早口で言い訳をしている様だった。
「それに?」
「いや、何でもないよ」
「……そっか」
悲しそうな声に罪悪感が心を突く。それを無視し、じゃあ行くな。と残して逃げるように走り出した。
向かうのは、神社の裏手に続く道。
9
拝殿と本殿の横を抜けて、裏手に回る。
山の中腹へ向かう階段にたどり着く。その隣には、
祠を横目に、階段に足を掛けた。
左右を木々に挟まれた道は、急な角度で山の高い位置へ繋がっている。
ただ無言で階段を踏みしめ、駆け上がっていく。
道中は落ち葉なども少なく、整備が丁寧に行われていることが分かる。脳裏に浮かんだ一朔の顔に頭を振った。
10
そしてたどり着いた場。そこは山の中腹に広がる、小さな湖の
小さな広場となっているそこは、階段から見て右側を鬱蒼とした森に囲まれ、左側は湖に面している。
湖には木造の柵が張られ、入り込むことが出来ない。
階段から、柵に近づく。そこには小さな石碑があった。
丁寧に整備され、苔の一つもないその石碑には、何か言葉が刻まれている。しかし、その言葉は、掠れてしまっていて読むことが出来ない。
柵の傍、石碑から離れた位置で足を止め、手すりに手を掛ける。
視界を上げ、湖を見渡した。
早朝、そろそろ日が昇ってくる時間だろうか。東に位置する山脈の
湖は、空の黒を反射させ漆黒を映している。
感じるのは、風。
山からの、吹きおろしの風が湖を揺らし木々が騒めく。
束ねていた髪留めを外す。山風に晒された髪が流され、はためいた。
「ここは、あの日から何も変わらないな。」
口から漏れ出した言葉は、懐古。
7年の月日。他者よりも短い時間としての最古。生きてきた時間。それらが、今の天桐染治を作り上げてきた。
失った過去。思い出。時間。それらはすべて己の中に存在しない。
一朔との会話を思い出す。
「それに、思い出しちまったら、今の俺が俺じゃなくなっちまうんじゃないのか?」
あの時、発することの出来なかった感情が、今頃言葉として成立する。
それは。思い出してみなければ分からないこと。だが、だからこそ、思い出してしまうことが恐ろしく感じる。
湖に映った空の色が、己の心をも映しているように感じる。
痣が疼く。
それは呪いの前兆。捕らわれるはずの怨念に身を構えた。
その時、響いたのは鈴の音。
澄んだ鈴の音は、心を洗い流し正していくかの様。
「?」
疑問が浮かぶ。予想とはかけ離れた音に、心が空白を生んだ。
音が聞こえてくる位置は、小さな石碑がある方向だろうか。
湖に置いていた視界を、右に向けた。
石碑の傍、染治から離れた位置に立っているのは、少女。
白の装束に赤を基調として、金の装飾が施させた衣を纏った少女。
肩にかかる
薄暗い中では、表情を確認することはできない。だが、彼女がこちらを見ていることだけははっきりと感じた。
いつの間にか鈴の音は止まっていて、
言葉が来た。
「やっと会えたね。ずっと、ずっと待ってたんだ」
それは待ち人への待望を伝える言葉。
「初めまして、出会ってくれてありがとう」
新たなる出会いを祝福し歓迎する言葉。
「千年、僕は君を待ち続けてきたんだ」
長い時を経た再会を祝福し歓喜する言葉。
それらを紡いだ声は、何処までも届き祝福する鈴の音ような響きを持つ。
太陽が山脈の峰から、姿を見せた。光が溢れ少女を照らし出す。
陽光を受けた少女の亜麻色の髪が、光に答え金の色に輝く。
照らされた少女は、咲き誇る
少女は、こちらに真っ直ぐ手を伸ばしていた。
そして、
「僕は君の願いを、叶えに来たんだ」
それは、
「教えて、君の願いを」
己が願いを問う言葉だった。
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