第一章 「失った青年 Lost desire」1-1

1


 暗く深い森、その道なき道を二つの影が走っていた。


 息は途切れ、足をもつれさせながら、転がる様に走る彼らは、それでもお互いの手を握りしめ、離さない。

 前を走る少年は、歯を食い締め、恐怖をかみ砕きながら、 後ろで少年に手を引かれた少女は、恐怖に顔を青ざめながら、 必死の形相で走る二人は、追われていた。


 追うものとの距離を、確かめるように振り返った少年の瞳に映ったのは、異形。

 影が立体として固まった球体、それの後方を長く引き伸ばした楕円形だえんけいの何か。

 正面、こちらに向けたられた楕円の先、顔と思われる場所には、穴が三つ。目と口の代わりだとでもいうのだろうか。

 目であろう二つの穴は、空虚を称え、一切の感情を感じ取ることが出来ない。 だがその空洞は、確かにこちらを見つめている。


 ムカデのように幾本いくほんも生えた足は、どれもが同じ形をしていない。 様々な生き物を、パッチワークのように無理やりつなぎ合わせたのようだった。

 長さの不揃ふぞろいな足を強引に動かして、ずろずろとその巨体を引きずり、異形が追いかけてくる。


 口の場所に存在する穴は、こちらに向けて弓なりに笑っているように見えて、おぞけが全身に走る。気持ち悪い、おぞましい、恐ろしい。 幾つもの負の感情が心を締め付ける。

 子供の足では、あと十数メートルも走れば追いつかれてしまうだろう。

 少年は自身の、そしてすがる様に手を握り返してくる少女の命が、幾何いくばくもないことを理解する。

 あれに捕まれば、一瞬のうちに蹂躙じゅうりんされ、ひき潰される。


 死。


 その一文字が脳裏を過ぎり、足が止まりそうになる。

 それでも、幼き意思を振り絞って視界を前に、必死の形相で足を動かす。


 走って、走って、走って、走った。


 いつの間にか周囲は木々の群れから、右手側に湖が広がる丘へと移り変わっていた。 少年の知っている場所だ。

 もうすぐ、もうすぐで人里まで下りることが出来る。

 助かる、そんな希望に一瞬心が緩みそうになって、


 一瞬の緩みが致命的であった。


 少年は気づけなかった。もうすでに怪物は、自分たちのすぐ後ろまで迫ってきていることに。

 異形は、小さな二つの命を一撃にて粉砕するため、そのいびつな腕の一本を振り上げていた。

 唯一、異形の動きに気付くことが出来たのは、後ろを走っていた少女。

 叩きつけの一撃が落ちる。その瞬間、

 

不意に、少年の体が宙に浮いた。


 異形の進路から体が離れ、湖の方向へと落ちていく。 理解できないまま、宙で体をひねり、少年は振り向いた。

 そこにあったのは、少年を突き飛ばした少女の姿。

 あんなにも強く握りしめられていた左手は、いつの間にか振りほどかれていた。

 離された手で必死に少女の手を掴もうとするが、届かない。


「_________!?」


 少年が少女の名を叫ぶ。だがその叫びは、ただむなしく響くだけだ。 彼の表情は、恐怖から一変、驚き、そして悲壮へと移り変わる。

 それを見つめる少女は、


「__________」


 思い出せない言葉とともに、笑みを浮かべていて___。

 そして、落ちていく体は、水面みなもへと叩きつけられた。


2


 叩きつけの感覚とともに、天桐あまぎり染治せんじは目を覚ました。 荒く息を吸う。数秒のほうけの後、眠っていたのだと気付く。

 夢を見ていたようだ、とびっきりの悪夢を。それは全身から噴き出した玉のような汗が物語っている。

 汗で着ているTシャツがにじみ、体に張り付いた感触が気持ち悪い。

 不快感に顔をしかめながら思う。どんな夢を見ていたのだろうか、と。


 確かに夢を見ていたのだ。だがその内容を思い出すことはできない。覚えているのは、全身を嘗めまわすような確かな。ただ、その感情の理由がわからない。

「なんなんだよ……」

 呟きとともに、不快感に頭を振ると、ベッドから体を起こす。


 周囲を見回し、視界に入ったのは、壁に掛けられた通っている高校の制服、カレンダー、時計、タンス、雑多な本とトロフィーの詰められた本棚。そして窓の横に置かれた天球儀てんきゅうぎ。そこは自身のよく知る空間、染治の部屋だった。

 時計が指示した時間は、午前4時52分。入り口横のカレンダーは、3月26日に赤く丸が付けられている。春休みの初日、早朝というには早い時間帯だ。

 起きるにも早く、だが理由のわからぬ恐怖で、体と心を縛られていては、寝直す気にもなれない。


 起こした体を引きずり、ベッドの端に腰掛けた。

 目を細め思う。消えてしまった夢は、きっと幼い時代の記憶だろうか。

 染治は、10歳までの記憶を失っている。7年前、何かの事件に巻き込まれ、数日間行方不明になっていたらしい。

 覚えているのはその時、湖の傍で姉によって発見された辺りからか。といっても生活する分の知識は残っていた。忘れてしまったのはエピソード記憶と呼ばれる思い出についての記録だけだ。


 人間は幼少期に人格が育まれるともいわれる。ならば自分はどうなのだろうか。

 失った記憶は、底に穴の開いたおけのようで、記憶にともなっていたはずの感情から、大切だったであろうさえも取りこぼしてしまっていた。


 染治は、肩まで長く伸びきった黒髪を乱雑に掻き,雑念を振り払いながらつぶやく。

「シャワーでも浴びてくるか」

 ベッドから立ち上がると タンスから着替えを引っ張り出し、廊下へと出る。

 廊下は冷え込んでいた。春といっても、早朝はまだまだ寒い。寝起きの体に寒さが響く。風邪を引く前にさっさと浴室へ向かったほうがいいだろう。


3


 廊下を歩きながら窓の外を見る。見えるのは母屋おもや、染治が住んでいるのは離れであり、本家の家屋からは広い庭を挟んでいる。

 内装や建物の構造から、この家はもともと温泉宿を営んでいた。という予想が立つ程度で、この館が何時から存在しているのか。誰が経営していたのか。地域の人間も、暮らしている染治自身でさえも知らなかった。そのため周囲の人間からは、『知らずの館』と呼ばれている。

 外装も内装も古めかしく、それに敷地は広大だ。

 昔はたくさんのお客や従業員で賑わっていたのだろうが、現在はほとんど使われなくなった部屋の数々が、静まり返っている。

 その中で、染治の暮らす離れは、もともと従業員が使っていたようで、母屋とは別に浴室やキッチンなど、生活をするために必要なものは大体揃っていた。


 現在、母屋にて生活しているのは、この家の持ち主であるかなでという女性のみ。染治は居候として離れに住まわせてもらっている状態だ。

 7年前の事件の後、記憶を失ってからは、この離れで暮らしている。両親は二人とも染治が記憶を失う前に亡くなっており、姉はすでに家を出ているため、ほとんど一人暮らしような状態だ。だが奏に、たまに料理を作ってもらったり、おすそ分けを頂いたりと、とても助けてもらっている。

 彼女はもう起きているのだろうか?そんなことを考えながら廊下を抜け、階段を下り、浴室に向かう。


4


 浴室は、廊下以上に冷え込んでいた。

 寒さに体を一度震わせる。汗を吸って重くなったTシャツを、不快感と共にかごの中へと乱暴に叩き込む。

 見上げた視線の先、洗面台の鏡に映ったのは、不機嫌そうな自身の姿。

 普段の鍛錬の成果か、細く締まった体には、ある程度動ける筋肉がついている。

 肩まで伸びた髪が、首元と左目を隠してしまっていた。

 鏡に映った右目は、切れ長で鋭く、瞳の黒は何も映し出していない。その空虚な瞳を、どこかで見たことがある気がして、

「毎日見ているか」

 疑問に自分で納得して、片目を隠している前髪を、左手で掻き上げた。

 隠されていた片目と共に、首筋があらわになる。

 そこには、黒くよどんだあざがあった。


 痣は、染治の左半身、首から背中にかけて黒々と大きく広がっている。

 何時からこの痣が存在するのかを、染治は知らない。生まれたときからなのか、7年前の事件によってなのか、どうしてこんな物が刻まれたのかを、誰かに聞くのも躊躇ためらってしまっていた。

 この痣の答えもまた、失われた記憶の中に存在するのだろうか?浮かべた疑問と共に、

「またか___」

 震える言葉も続かぬうちに、それは来た。


『軽蔑、愚弄、軽侮、軽蔑、嗤笑、嘲笑、嘲弄、冷笑、冷嘲、侮辱、侮蔑、蔑視、黙殺、疑懼、疑心、疑念、怪訝、嫌疑、猜疑、不審、恐慌、当惑、哀願、哀切、哀憐、悲哀、憫笑、憐憫、鬱憤、焦心、焦慮、不満、空虚、失意、失望、喪失、喪心、阻喪、懐疑、疑惑、不信、暗鬱、暗澹、陰鬱、陰気、鬱々、鬱然、億劫、気鬱、気重、邪魔、悄然、沈鬱、煩瑣、煩雑、面倒、憂鬱、憂悶、横柄、権高、高慢、傲慢、増長、尊大、独善、不遜、慢心、優越、遺憾、遺恨、意趣、怨言、怨恨、怨嗟、怨情、怨色、恩讐、怨敵、怨念、悔恨、旧怨、私怨、宿意、宿怨、呪詛、積怨、長恨、痛恨、憤怨、羨望、億劫、滑稽、鬱憤、嚇怒、癇癪、逆上、激昂、激怒、激憤、叱責、私憤、瞋恚、痛憤、怒気、悲憤、憮然、憤慨、憤激、憤然、憤怒、憤懣、憤懣、憤悶、勃然、憂憤、立腹、鬱屈、失意、失望、消沈、絶望、憮然、憂鬱、落胆、邪念、暗愚、迂愚、鳥͡滸、頑愚、頑迷、愚挙、愚計、愚見、愚行、愚者、愚鈍、愚物、愚昧、愚劣、軽薄、大愚、馬鹿、凡愚、杜撰、粗雑、適当、偏屈、偏見、偏執』

 人間が持ちうる負の感情。そのすべてが濁流だくりゅうとなって、心を飲み込みむしばんでいく。本来、個人が決して耐え切れぬであろう怨嗟えんさの数々を、染治はその欠けた心で耐え切った。


 気付くといつの間にかしゃがみ込んでいた。息が荒い。肩を上下させながら立ち上がり、タオルで顔をぬぐう。

 全身に滴る汗は、目覚めたとき以上。鏡に映った自身の顔は見れたものではない。

 深呼吸を一つ入れる。

 染治は、背に受けた痣と共に、人間の負の感情を呪いとしてその身に刻まれていた。

 先ほどのような負の濁流を今まで何度も何度も体験し、そのたびに耐えてきたのだ。だが、繰り返しの怨嗟によって、自身が少しづつ壊れていくような___。


 嫌な考えが頭をよぎり、目を細める。シャワーで暗い思考を流してしまったほうが良い。

 残りの服を脱ぎ捨てて、風呂場の扉に手を掛けた。


5


 汗を流水にて流した染治は、部屋から持ってきた黒の下地に白いラインの入ったジャージに袖を通した。

 着慣れたジャージは色あせが始まっていて、裾や袖に解れが見え始めている。

「そろそろ買い替え時だな」

 だが貰い物のため、捨ててしまうのも申し訳ない気がして、なかなか新調出来ないでいる。

 伸びた髪を持ってきた髪留めで後ろにまとめる。

 着替えた理由、それは日課のランニングだ。

 7年前の事件以降。天候で外に出られない日以外、ほぼ毎日ランニングを続けている。

 普段よりも早く起きてしまったが、ならば日課の時間を早めるだけだ。

 準備を済ませると、運動靴を履き、離れから外に出る。


 玄関を開けると、肌寒い空気が体を包んだ。

 冬が終わり、季節が春に移り変わろうとしていく時期。まだまだ寒さが残っており、早朝と昼間の寒暖差は激しい。

 離れの前、染治が立ったのは、庭。

 右手に塀とそれに沿う形で整えられた樹木が並び、左手は丁寧に整備された芝生と、数匹の鯉が泳ぐ小さな池が広がる。

 池を挟んだ先、かなでが育てている小さな花壇と、異様に広い、昔ながらの日本家屋である母屋が見える。

 足元には点々と石畳が続いており、それは庭を横断し、母屋の玄関前に繋がっている。


 寝起きで、まだ体はほぐれきってはいない。運動の前には、柔軟を入念に行っておく必要があるだろう。

 寒さから逃れるように、ストレッチを始める。

 関節をほぐし、筋を伸ばしていく。体が軽く熱を持ち始めた。

 「そろそろいいか」

 最後に追加で屈伸を一つ。その勢いで走り出した。


6


 石畳の上を辿り、母屋の玄関に向かう。

 庭から出ると、そこには人影が一つ。かなでだ。

 細身で、長身。腰まで伸ばした黒髪を、背後で編み込んでいる女性だ。両手で箒を持ち、玄関前を掃除している。なかでも特徴的なのは、昔ながらの日本家屋に一切似つかわしくない、白と黒で構成された、洋風の古き良きロングドレス。ヴィクトリアンメイドと呼ばれるメイド服を着ていることだろうか。


 真剣に掃き掃除に勤しんでいる奏は、走ってくる染治に気付くと、切れ長の目で、無表情を浮かべた顔を、こちらへと向けた。

「おはようございます。染治様」

 抑揚のない良く通る声が、朝の挨拶を告げる。

「あぁ、おはよう奏さん。早いですね」

 かけられた声に足を止め、挨拶を返す。

「染治様がこの時間に出てこられるとは、珍しい」

「早く目が覚めてしまったので……奏さんはいつもこの時間から?」

「はい。染治様が普段起きてくる数時間前から、掃除など始めさせていただいておりますが?」

 コクリと首を傾けながら答えがきた。無表情なので何を考えているのか解りにくい。だが、今のは完全に煽ってきている。

「……いつもご苦労様です。昔から思ってたんですがなぜメイド服?」

「メイド服は、メイドの嗜みです。」

 バッサリと言い切られた。

「でも奏さん……メイドじゃないじゃないですか」

「はい。ですから趣味です」

「あっ……そうですか……」

 彼女は、その細腕一つで広大なこの家を管理している。他にも複数の土地を所持しているため、この辺りの地主のような状態だ。

 何故営業していない温泉宿を、管理し続けているのか、昔聞いたことがあるが、

『大切な、大切な約束があるのです』

 と言ったきり教えてくれかった。

 謎が多く、何時から暮らしているのかも誰も知らないため、周囲からは『知らず館の奏様』と呼ばれている。

 そうなると奏は現在、何歳なのだろうか?そう言えば30代の高校の担任が知らないと言っていた。そう思い、奏の様子を見る。


 ぱっと見20代から30代だろうか。若く見えるが担任が子供のころから変わっていないと言っていた。ならばもっと上の年齢だろうか?そんなことを考えていると、

「染治様、何か失礼なことをお考えではありませんか?」

「いえ?奏は今日もお美しいなぁと思っていたところです」

「何故か疑わしいですね……まぁ良いですが」

 今のは少々危なかった。年齢の事など考えていたと知られれば、鍛錬の時に畳まれる。

 内心、戦々恐々としていると、奏から問いが来た。

「本日も、またあの場所に向かわれるのですか?」

「……はい。そのつもりです」

 問われたのは目的地。日課としてのランニングには、確かに日課としての目的地がある。誰にも言ったことはないが、気付かれていたようだ。

 向かうのは湖、7年前自身が発見された場所。なぜかあの場所に自然と足を向けてしまう。

「戦い方や、運動方法の指針を与えたのはわたくしです。だからこそ言わせていただきますが……あまり、根を詰め過ぎないようにお願いいたします」

「根を詰め過ぎ……ですか」

「はい。染治様、あなた様は自身の痛みや感情に対して無頓着すぎます。努力を惜しまないのは良いことですが、己の管理に気を付けることにも、心を傾けるようにしてください」

「……わかりました。気を付けます」

 言うと奏は、目を細めた無表情、菫色すみれいろの瞳で、まっすぐにこちらを見つめた。バツが悪くなり目線をそらす。

「……気付いていない。というのならば、わたくしから言うことはこれ以上ございません」

「?」

「ランニング。されるのでしょう?行ってらっしゃいませ」

「……行ってきます」

 両手でスカートの裾を掴み、軽く持ち上げた美しいお辞儀。こちらへとまっすぐに投げられた礼に、急かされるようにまた走り出した。


 奏と別れると、背後に目線を感じながら、家の前を通る道を左へ。

 また心配させてしまったことを、申し訳ないと思う。

 記憶を失っている自分に、周囲はどうしても距離を取ってきたりと、接し方に違和感を感じることが多い。だからこそ事情を知っていても、どんな時もまっすぐな彼女は、

「ありがたい人だ」

 呟きと共に、右曲がりの下り坂を駆け下りていく。

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