三、双頭 (1)

 リサコは夜中のタクシーへ乗り込み、かつて暮らしていた家の前へとやってきた。売りに出されたマイホームは、人が住んでいない建物が持つ独時の不気味さをもってリサコを見下ろしていた。


 リサコはまわりに人気がないことを確認すると、そっと門をあけ、玄関のドアへ近寄った。


 ドアノブを握ると、かすかにしびれるような感覚がして、リサコは慌てて手を放した。空き巣除けのセキュリティシステムとか導入されているのかもしれない。


 …いや、そんなはずはない。だってこの家はリサコが帰って来るのを待っていたのだ。


 リサコは再びドアノブを握ると、思い切って回してみた。ドアには鍵がかかっていなかった。かちゃりと音がして、ゆっくりとドアが開いた。そしてリサコは家の中へゆっくりと入っていった。


 ドアを開けて中に入ると、玄関の正面に小さな老婆が正坐で三つ指をつき、深々とお辞儀をしていた。


 「よくおいでくださいました。リサコ様。」


 老婆が顔を上げずに言った。それと同時に後ろのドアがガチャっとなった。振り返って確かめると鍵がしまっていて、どうやってもこちら側からはもう開けられないようだった。


 そうだよね。もう後戻りはできないんだ。


 リサコは靴を脱ぐと玄関に上がり、老婆の前にしゃがみこんだ。

 「私は何をすればいい?」

 老婆が顔上げてリサコを見上げた。老婆には目がなかった。目のあるところには黒い穴があいている。だいぶ不気味だが、不思議なことにリサコは全く恐怖を感じなかった。


 老婆は手元に置いてある棒のようなものをリサコに差し出した。リサコは素直にそれを受け取ると、眺めまわしてそれが何であるか理解しようと努力した。


 棒の外側は透明なプラスチックでできていて、中の構造が見える。中には電気が通ると思われるような部品があるが、何に使うものなのかよくわからなかった。棒の端にボタンが付いていて、どうもそっちが柄のようだった。

柄には金属の輪がついていて、ストラップのような派手な色のヒモがついている。


 ボタンを押してみると、棒全体がチカチカ七色に光りだした。棒は、一定のパターンを繰り返してネオンのように光った。


 なにこれ??


 老婆は再び頭を深く下げると「それは、あなた様が次の部屋からお使いになるものです。お持ちください。」としゃがれた声で言った。


 リサコは棒のボタンを再び押して光を止めると、ジーンズの後ろのポケットに差した。


 老婆は顔をあげると、慌てたようにこう言った。

 「リサコさま、そのような持ち方では危のうございます。このようにお持ちください。」

 老婆は腕をのばして光の棒を彼女のポケットから抜き取ると、ボタンの部分を握って横向きに持ち、体の外側に棒が出るようにした。それはまるで時代劇の侍が何かを切った後のようなポーズで滑稽だった。リサコは老婆から棒を再び受け取ると、同じように握った。


 「リサコ様、必ずそのようにして、体から離してお持ちください。」

 「わかった、こうやって持つよ。ありがとう」

 リサコは老婆にお礼を言うとチラッと階段の上を見た。あそこに緑のドロドロにまみれた父親が立っていた光景が思い出された。そうだ、お父さんは確かにあそこに立っていた…。


 リサコはまずはリビングへ入る扉を開けた。驚くべきことにリビングはリサコが暮らしていた時のままになっていた。見慣れたダイニングテーブルと、幡多蔵が夢中になって野球を見ていたテレビとその前に置かれたソファー。


 懐かしさがこみあげて、リビングに一歩足を踏み入れた瞬間、握っていた棒が変化して、すらっと長い日本刀に変わった。重さも倍以上になる。


 リサコは日本刀なんか触ったこともないはずだったが、なぜかそれが手にしっくりなじみ、使い方もよく知っている自分がいることに驚いた。


 確かにあのばあちゃんの言うとおりだった。ジーンズのぽっけなんかに入れていたら自分を切っちゃうとこだったわ。リサコは日本刀を持った物騒な姿でリビングをうろうろ歩いた。


 このソファー。見慣れたソファー。いかにも座れという感じで置いてある。それがリサコは気に入らなかった。何が彼女をイライラさせる。リサコは日本刀を振り上げると、ソファーに突き刺し、そのままバリっとイスの表面を切り裂いた。


 とたんにその裂け目から、数千匹のゴキブリがものすごい勢いで、ガササササササと飛び出してきた。リサコはぞっとして一歩下がる。が、そのせいで何匹かを踏んでしまった。ブチっと素足の下でつぶれる感触がする。


 足の下から圧縮を逃れた奴がモゾモゾ這い出して猛スピードで走り去っていく仲間に合流するが見えた。リサコは恐ろしくてそれ以上足を動かすことができない。


 ゴキブリたちはリサコの足元を眼にも止まらぬ速さでザザザザザと通り過ぎていく。何百匹ものゴキブリがリサコの足の上を渡っていく。その感触のおぞましいことと言ったら、言葉では表現できないほどだ。何千もの細い脚がモザモザモザとうごめいて通り過ぎていく。


 こうしてゴキブリの大移動は数秒間続いた。まるで湧水のようにソファーの割れ目からゴキブリが出てくる。これでもかと出てくる。


 リサコはソファーに日本刀を突き刺したままの姿勢で、金縛りにかかったように動けなかった。やがて最後のどんくさそうな数匹がウロウロ遠回りしながらソファーから滑り降りると、ゴキブリの噴水はぱったりと止んだ。


 リサコはゆっくり足を持ち上げ被害状況を確認した。不幸にも一匹が潰れて死んでいた。リサコはソファーの角に足の裏を擦りつけて昆虫の体液をぬぐい取った。その瞬間に全身鳥肌が立つ。


 おえっ。このソファーの方がゴキブリよりよっぽど不快。うちのソファーとそっくりに見えるけど、全くの偽物なんだ。正体をとっても知りたくない感じ…。


 きっとこのテレビもテレビのようでテレビじゃないんだ。リサコがちらっとテレビを見ると、ちょうど画面の真ん中あたりに白や緑のものが現われてどんどん増えているのが見えた。


 ぺんぺん草だ。


 リサコはぞっとして目をそらす。こっちには刀を刺すのを止めよう。ぜったい止めておこう。知らぬが仏。さっさとこんな部屋は出た方がいい。


 リサコはそれ以上テレビが視界に入らないようにくるっと向きをかえると、部屋の出口に向かってスタスタと歩きだした。


 ここの部屋はただの審査だ。


 リサコは悟った。何物かは知らないが、ここに入ってくる者の素質をチェックしているのだ。ここで合格なら先に進める。不合格ならゲームオーバー。外に放り出されるか殺されるかするのだろう。


 自分が合格したのか不合格なのかには全く不安を感じなかった。彼女にはなぜだか絶対的な自信があった。ずっと前から、もしかしたら母親が死ぬ前から、リサコはここに来ることになっていたのだ。


 不気味なリビングから出ると、そこは果てしなくまっすぐ続く廊下に変化していた。もうそこはリサコの家ではなかった。どういう仕組みか別の場所へ来たようだった。


 リサコはディズニーランドのホーンテッドマンションを思い出した。部屋かと思って入ったところが実はエレベーターになっていて、同じ入口から出たと思ったら別の場所へ出るのだ。


 どこまでも続く廊下は、全てが真っ白に塗られていた。リサコは夢の中でずっと過ごしていた牢獄を思い出した。ここはなんだかあの世界に似ている。


 廊下に出て歩き出すと、今度は刀がプラスチックの棒に戻った。リサコは老婆に教えられたとおりの持ち方で棒を握り進んだ。


 廊下の天井は全体がライトになっていて、太陽光のような白くて強い光で満たされていた。


 廊下にドアはない。ひたすらまっすぐだ。向こう側が見えないくらい、果てしなく続いている。リサコはこんなにまっすぐな風景を一度も見たことがない。もしかしたら一生かかっても出口には辿り着かないかもしれないという恐怖がここによぎる。


 リサコはそれでも廊下を歩き続けた。


 しばらく歩いていると前方に人影が見え始めた。一度リサコは立ち止まって人影を凝視し、その正体をつかもうとしてみた。が、無駄だった。遠すぎて見えないのだ。かろうじて人影だとわかる程度。


 その人影はピクリとも動かず、どうやらリサコを待っているらしいと予測できた。


 人影とリサコの間に距離を測るものがないのでどのくらい遠くなのかわからないが、一キロくらいは先にいると思われる。


 どんな人物がどんな目的であそこに居るのか、さっぱりわからないので少し不安に思った。夢の中で出会った双子とか、さっきの老婆とか、リサコを安心させてくれる人だといいんだけど。


 河原だけは絶対にいてほしくない。


 リサコは勇気を出して、その人影気に近づくために再び歩き始めた。歩いて歩いてどんどん歩いた。人影は徐々に大きくなって、やがてとても背の低い人物であることが分かってきた。骨格からして、間違えなく、あれは子供だ。その見覚えがあるような、無いような姿に胸騒ぎがしてきた。


 まさか?いやそんなはずはない。


 しかし人影がよりはっきり見えてくるにつれ、疑いの心は確信へと変わっていった。


 リサコは走った。

 老婆に教えてもらった棒の持ち方をすっかり忘れ、まるでバトンのように振り回しながら。ここにいるはずのない人に向かって彼女は走った。


 良介・・・!!

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