二、変転 (3)

 リサコは息をのんで良介を見た。


 なんですって?


 この一瞬でリサコの涙はすっかり引いてしまった。良介は静かな声で自分の素性を語りだした。


 ある日突然、良介は時計だらけの部屋で目覚めたそうだ。良介の記憶はそこから始まっている。リサコと違って良介には前の記憶はなかった。何が起きたのかわからずに部屋から出ると、茂雄のおいしい朝食が出てきた。良介は黙ってそれを食べた。目の前の老人が誰なのかさっぱりわからなかったが、悪い人ではないと判断した。


 良介はリサコと違ってこのおかしな生活をすんなりと受け入れた。記憶がないことを訴えて面倒なことになるくらいなら、なんとなく話を合わせて生活を続けようと思った。なぜだかわからないが、自分を出すことがとてつもなく恐ろしかったのだ。


 波風立てず、凪のような毎日であれば安心。何かのショックで記憶を失ったのであれば、いっそ思い出さない方がいいのかもしれないし。


 そうして、この突然始まった生活にようやく馴染んできたところで、今度は急に部屋にパソコンが出現した。それは朝起きると、少々ホコリを被った状態で、まるで前からいましたけど的な顔をして机の上に置かれていた。


 良介は記憶にある限り、初めてパソコンなるものを見たはずだが、始めから使い方を知っていた。それで自分の素性や茂雄について調べ始めた。が、何も手掛かりになることは見つからなかった。


 良介と茂雄は毎日時計を作って過ごした。茂雄の話から、自分は中学に行くはずが馴染めず、ここに時計職人として修業に来ているらしいことがわかっていた。確かに、時計作りは楽しかった。茂雄の時計にはストーリーがあり、良介はその世界観に没頭していった。


 そこへリサコがやってきた。

 リサコの登場も突然だった。


 普通に夕食を食べた後、風呂から出ると、リサコがいないと茂雄が騒いでいた。良介が知る限りでは、この家には良介と茂雄しかしないはずだったが、また何か変化が起きたようだと良介は解釈した。


 パソコンに続き、今度は人だ。これは、ただの記憶喪失ではなさそうだ。人知を超えた何かが起こっているようだった。


 それとも、自分がイカれているだけなのだろうか?まあ、何でもいい。良介はすべての流れに身を任すことに決めていたのだ。


 茂雄は「あの子は病気なのに」「一人で家を出るなんて今までなかったのに」と繰り返した。そこから良介は病弱な小さな女の子が行方不明になったのかと予測した。


 そして急に分かった。

 リサコが新宿にいることを。

 それは、ズンと脳の中に情報が落ちてきたように感じた。

 まるでダウンロードされたように。


 「新宿!じいちゃん、リサコは新宿にいるよ!」


 茂雄を励まして新宿へ向かうと、茂雄がボロボロの女子高生を連れてきた。もっと小さな子かと思っていたので少し驚いたそうだ。まるで知らない女の子だが、どこかでよく知っているような気もしたと良介は言った。


 「俺が誰なのかについては、俺自身に記憶もないし、手がかりが少なすぎてさっぱり調べが進まない。それに比べてリサコには記憶がある。そして、その記憶通りの場所はどうやらこうして存在しているらしい。

 俺は知りたかったんだよ。リサコの記憶が本当なのかウソなのか。でも、このままリサコの暮らしていた街を調べても、明確な決め手となる証拠は出てこないかもしれない。俺にはだんだんそう思えてきている。

 でも俺は見たんだよ、君が制服を着て新宿の真ん中で震えていたのを。そして手にケガをしていたのも。」


 二人は夕暮れ前には帰路についた。

 結局リサコが通っていたはずの学校や、いつも使っていた商店街には行かなかった。帰りの電車で二人は黙ったままだった。これからどうして生きていったらいいのだろう。リサコにはさっぱりわからなかった。


 この日以来、良介はリサコのブログを調べるのをやめた様子だった。二人の間に会話もほとんどなくなり、それぞれの部屋にこもっている時間が増えた。といっても険悪な雰囲気というわけではなく、リサコも良介もしばらく一人になりたい気分だったのだ。


 リサコは本棚の本をかたっぱしから読み漁った。本棚には一生かかっても読み切れなさそうなほどたくさんの物語が詰まっていた。


 「2001年宇宙の旅」「幼年期の終わり」「都市と星」「ソラリスの陽のもとに」「星を継ぐもの」「ダーク・タワー」「箱男」「タイタンの妖女」「指輪物語」「はてしない物語」「悪童日記」…どれも素晴らしい物語だった。


 リサコは物語の中に精神を置き、ふわふわとして掴みどころのない現実から目を背け続けた。その中でも安部公房の「壁 – S・カルマ氏の犯罪」という短編集に心打たれた。


 名前を失いアイデンティティを失ってしまった主人公が奇妙な世界に巻き込まれていく物語だ。


 これはまるで私のことだわ。私もある意味名前を失ってしまった。この物語の主人公のように、もといた場所を追われてさまよっている。私の本当の居場所はどこなのか。このままここで自分をだましながら暮らしていていいのか。


 リサコの心の中には答えの出ない疑問がいつまでも渦巻き続けた。


 良介も彼の部屋で何かに没頭しているようだった。まる一日姿を現さない日も度々あった。茂雄は良介の変化に気が付いていない様子で、未だリサコのブログを調べていると思っているようだった。


 リサコは知っていた。良介は、何かを作っている。何を作っているのかしら。私にも見せられないもの?


 良介は時々外出して、部品のようなものを買ってきては部屋に持ち込んでいるようだった。良介が出かけていくと、リサコは決まって寂しい気持ちになった。私はこの家から出られないというのに、あの子はいつでも出て行かれる。


 そんな良介が外出したある日、リサコはどうしても良介の作っているものを見たくて仕方がない衝動に駆られた。


 リビングへ行くと、茂雄はテレビを見ながら居眠りをしていた。リサコは足音を消して、そっと良介の部屋の扉を開けた。さっと中に入り込む。


 あの香りがした。良介の香り。


 リサコはしばらく目を閉じてその独特な香りを吸い込んだ。これはあれだ。春先の香りとそっくりだ。緑が一斉に芽吹く命の香り。あの子は植物のような香りがするのだ。


 壁一面の時計がチクタクチクタクと別々の時を刻んでいる。リサコはガラクタを踏まないように注意しながら部屋の奥へと入っていった。


 良介の机の上には、いままで見たこともない物体が置かれていた。


 機械仕掛けの2匹の動物?

 ゼンマイやネジ、マザーボードに金属片。

 それらの集合体が形を作っていた。

 それはヤギのような動物に見えた。

 ヤギは双頭だった。

 双頭のヤギの上には大きく羽を広げた鷹のような鳥。

 これは、リビングの場違いなタペストリーと同じモチーフだ。

 この家にとって、この鷹は何かの意味を持っているのかもしれない。


 リサコは理解の難しい良介の思考回路と、かすかな狂気を感じ取り身震いした。あの子は独りで苦しんでいるのかもしれない、私以上に。私たちはもっと真剣に、このおかしな状況と向き合うべきなのかも。


 その夜、良介は遅くに帰ってきて、自分の部屋へ直行した。リサコは勝手に部屋に入ったのがばれたらどうしようかソワソワしていたが、良介が部屋から出てくることはなかった。


 良介が作っていた像がリサコの頭の中に繰り返し出てきて、なかなか寝付けなかった。良介は良介なりに、何か考えがあってあんなものを作っているに違いない。


 この状況で何の理由もなくあんなものを作るわけがない。


 それに比べて私はなに?

 ただ時間がすぎていくのをやり過ごしているだけだ。


 私はこのままでいいの?


 いいわけないじゃないっ!


 リサコはむっくりとベッドから起き上がってしばらく部屋に広がる闇を見ていた。


 私はもう一度あそこに行くべきなのかもしれない。

 私の本当の家に。

 そしてそれは昼間ではダメなんだ。誰もが寝静まった夜中。

 それがあの家へ行く正しい時間だ。


 リサコは抜き足差し足でリビングへ行くと、電話機の下の引き出しをそっと開けた。茂雄がここにお金を隠しているのを知っていたのだ。もう電車は動いていない。家にはタクシーで行かなくては。リサコは茂雄のへそくりから一万円を頂戴した。

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