二、変転 (2)
…リサコの過去の記事は、残っていなかった。
しばらく誰も喋らなかった。ここにいる全員が、おそらく茂雄も、リサコの過去の記事が復活するであろうと予測していたのだ。
「つまり、これは、リサコは以前にブログなんて書いてなかったということか?」
茂雄が静かな声で言った。リサコは落胆した気持ちで、でもどこかホッとしてパソコンの画面を見つめていた。良介が言った。
「じいちゃん、そうとはまだ決まらないよ。この結果で、リサコが以前にブログを書いていたかどうか分からないってことがわかっただけだ。何らかの原因で登録データが消去された可能性もゼロとは言えない。データの復活はブログサービスが保証している機能ではないから、復活しないからと言って存在そのものを否定する証拠にはならない。」
何だかよくわからないけどこの子はとても頭がよい子だ。リサコは感心していた。
「リサコ、ブログのIDとパスワード、それから登録していたメールアドレスを教えてくれる?俺、ちょっと試したいことがあるんだ。」
リサコはそばにあった紙に言われた内容を書いて良介に渡した。良介はそれを受け取り数秒見つめると、そのままダダダダっと階段を駆け降りて行ってしまった。下でバタンとドアが閉まる音がして、それきり物音は聞こえなくなった。リサコと茂雄の二人はしばらく押し黙ったままでそれぞれの思いの中を漂っていた。
「さてと、ちょっと休憩しようかね。リサコや、コーヒー飲むかい?」
リサコは茂雄の誘いに頷き、ゆっくりと立ち上がると、老人に続いて部屋を出て階下のリビングへと向かった。茂雄がコーヒーを入れている間、リサコは奥の扉が気になって仕方がなかった。良介はいったい何を調べているのだろう??
「良介はな、ああ見えて面倒見のよい子なんだよ。じいちゃんやリサコが風邪を引いた時なんかつきっきりで看病してくれるしね。」
心地よいコーヒーの香りが漂ってきて、さっきまでの緊張がほぐれていった。そして茂雄の優しい声。この老人には人を癒す何か特別な力が備わっているようだ。
「あの子は感情が動いていないように見えて内側に熱いものを持っている。何に対しても真剣だし冷静なんだよ。時計作りに関しても、リサコに関しても。」
小さなカップに入れられたコーヒーがすっとリサコの前に出てきた。一口すする。琥珀色の飲み物は、ちょうどいまリサコが求めている温度と濃さだった。
「リサコが居なくなったとわかった夜、恥ずかしながらおじいちゃんパニックになってしまってね。リサコが一人で家を出るなんてことがそもそもなかったから。良介がいなかったらリサコを連れ戻すことはできなかっただろうね。なぜだかね、あの子にはリサコの居場所がわかるみたいだったよ。
おじいちゃんをリサコの元に連れて行ってくれたんだよ。なんでわかったのか聞いてみても、どうも本人もなぜだかわからんみたいだったが。」
老人の話を聞いていて、リサコはふいにRのことを思い出した。……私のブログに変なコメントを残して私をここに連れてきた張本人。Rならばこの状況を説明してくれるかもしれない。
…良介がRいや、それはあり得ない。今、私のブログが存在したのか否かを調べてるいのが良介なわけだし。
「ああ、もう何だかわからない。おじいちゃん、わたし、全部どうでもよくなってきた…」
リサコはぐったりとテーブルの上に上半身を投げ出した。視界の先には鷹の絵が描かれたタペストリーが物言わずリサコを見下ろしていた。
老人はにっこりほほ笑んでリサコのコップにコーヒーのおかわりを注ぎ足した。それと同時に良介が部屋から出てきて、リサコを呼んだ。
リサコは二人分のコーヒーを持って良介の部屋へ入った。良介の部屋は不思議な香りがした。この家に来て初めのころによく感じていた香り。何の香りか特定はできないけど、嫌いじゃない香り。これは良介の部屋の香りだったのか。というか良介の香りなのか。
良介の部屋は壁中にさまざまなからくり時計がかかっていて、それぞれが別々の時間を指していた。
チクタクチクタク…。
まるで時間が迫ってきているような部屋だった。うわ…とてもこんな部屋では落ち着いて暮らせないわ…。
コーヒーを渡すと良介は一瞬リビングの方向をチラッと見た。部屋のドアは閉まっていたが、そちらの方向には茂雄がいるはずだった。
「ほら、これみて。」良介が指し示した画面の先にはプログラミング言語のような文字列が並んでいた。彼が指さしているのは、その中の一行だった。
koto・k 涅ヨ槃ク寂ト静 Miho
「これに見覚えは?」
リサコは記憶の片隅に何かひっかかるものを感じたが、こんな意味不明な文字列に心当たりはなく、首をふった。良介は溜息をついて画面を閉じた。
「ブログのサーバをハッキングしてみたけど、拾えたのはこれだけだった。」
そんなことをして大丈夫なのかリサコにはわからなかったけれど、おそらくリサコがやめてと言っても良介は調べるのをやめないだろう。彼にも何か考えることがある様子だった。
それから毎日、良介は部屋にこもってリサコのブログを調べていた。思ったような効果があがらないらしく、唯一姿を見せる食事の席でも、ムッツリ黙って食も進まない様子だった。
茂雄が気を使って別の話題を始めても、会話に乗ってくることはなく、不機嫌そうに席を外してしまうことも多くなった。
元から内気な雰囲気の少年ではあったが、リサコのブログを見つけられない良介は、ますます負のオーラを放ち、彼の周りにはどんよりと薄暗い影が取り巻いているかに見えるほどだった。
自分のために一生懸命なのはありがたいが、不機嫌になられるのは困る。なにかよい方法がないか思いを巡らせていたら、リサコの頭の中に閃きが舞い降りてきた。
「ねえ、おじいちゃん、良介があんな状態だから、気分転換にデートに連れ出したいんだけど。」
リサコの言葉に茂雄はしばらく黙っていたが、やがてゆっくり首をふった。
「リサコが出歩くのはおじいちゃん心配だよ。それに、あの子は行きたがらないよ。出かけるのは好きじゃないんだ。」
「そんなの聞いてみないとわからないじゃない。ね、いいでしょ。買い物したいんだ。私なら大丈夫、お薬のおかけでこのところ安定しているから。」
リサコの説得で茂雄は渋々二人の外出を許可した。茂雄までついてくると言い出したらどうしようかと思ったが、幸いおじいちゃんはリサコを信用してくれた様子だった。そして良介はリサコの外出に同行することを了解した。
天気のよい日曜日の昼下がり。電車を乗り継ぎ、リサコは良介を連れて新宿へ向かった。
リサコは自分の足取りを逆にたどってみようと思い立ったのだった。良介を騙して連れ出す形になってしまったが、部屋に籠っているより何か発見があるかもしれないじゃないか。
新宿へ着くと、まずは歌舞伎町の広場へ向かった。リサコが茂雄と良介に発見された場所だ。良介は黙って着いて来たが、勘がよい子なのでリサコの目的をすでに理解している様子だった。
歌舞伎町にはヒントとなるものは何もなかった。
そのままリサコは甲州街道をめざして歩いた。
あるのかないのかアイアンタワービル。
甲州街道を進んでいくと、金融会社の看板ばかりが目立つ雑居ビルが見えてきた。気持ちの半分では無いだろうと予想をしていたのだが、アイアンタワービルは実在した。
良介とリサコは無言でビルを見上げた。
ビル名の下には各階の案内が出ていて、九階は「有限会社 ヨクトヨタ」だった。リサコの記憶のとおりだ。良介がチラッとリサコの方を見ると、ビルのエントランスへと入って行こうとした。リサコはあわてて良介の腕をつかんで彼を引き留めた。
「もういいよ。このビルがあるのがわかっただけでも。」
「なんで?九階がどうなっているか確かめないの?」
「河原がいるかもしれないし。」
「いないよ。」
良介はめずらしくじっとリサコの目を見て言った。良介の目を見ていたら、行かなくてはいけない気がしてきた。
「じゃあ、何かあったら私を守ってよね。」
良介は小さくうなずと、リサコを促してビルへ入った。みすぼらしいエレベーターがひとつ。「上」のボタンを押すと、ガゴンという音がして、二階にいた箱が降りてきた。
エレベーターに乗り込むと、リサコは激しいフラッシュバックに襲われて目まいがしてきた。たまらず良介の手を取ると、彼はぎゅっとその手を握り返してくれた。
前回リサコは一人ぼっちだった。今回は良介が一緒にいる。これは何という違いだろうか。
エレベーターは一度も止まらずに九階に到着した。
扉が開く。
リサコは河原の再登場をほぼ確信して、全身に力を入れてその時を待った。だが、期待を裏切り、エレベーターの扉が開いたその先には誰もいなかった。
九階のエレベーターホールは薄暗かった。日曜日なので会社が休みなのだ。リサコと良介はゆっくりとエレベーターを降りると、「有限会社 ヨクトヨタ」の看板を見上げた。青地に白くて太いゴシック体で「YOCTOYOTA」と書いてあった。それだけでなんの会社かは残念ながらわからなかった。
二人はしばらく静まり返ったエレベーターホールに立ち尽くしていたが、何も起こらないことがわかると、いささか拍子抜けしてしまった。このビルの存在が確認されたことは大きな進展ではあるけれど、リサコの体験したことの証拠としては弱い。
ここはあまりにありふれた場所だ。どこにでもある雑居ビルの一角。こんなところであんなことが起こるだろうか?
彼女の記憶にある河原との出来事が異常すぎて、むしろあれは夢だったのではないかという気持ちが強まってきた。
あの日、私はここに来たのだろうか?来てないんじゃないか?やはり私の頭は妄想だらけなのだろうか?
何の手掛かりも得られないまま、二人はアイアンタワーを後にした。
リサコは黙って新宿駅へ戻る道を歩いた。良介も無言でついてきた。リサコは悩んでいた。この勢いで行くべきかどうか。インターネット・カフェはどうでもいい。あの家だ。リサコが幡多蔵と暮らしていたあの悪夢のような家へ。
いや、もうどこにも行く必要はないのではないか。アイアンタワービルへ行ってリサコの中に芽生え始めた思いがあった。やさしいおじいちゃんと家族である自分が本当の自分であってほしいという思い。
「良介、今日はつきあってくれてありがとう。もう帰ろう。」
リサコは良介を振り返らずに歩きながら言った。良介はしばらく言葉を発しなかったが、やがて静かに言った。
「家にはいかないの?その、リサコが前に住んでた家。」
「もういいんだ。私おじいちゃんの孫になるよ。」
「でも記憶はないんだろ?」
「うん、でもいいんだ。」
「俺のことも誰だかわからないまま?」
リサコは立ち止まって振り返った。良介も立ち止まった。
「……行こうよ、ここまで来たんだから、君の家に。俺も知りたいんだよ。リサコがどこから来たのかを。」
駅前の商店街はさすがに通る勇気がなくて少し遠回りをして歩いた。リサコが暮らしていた時と町の様子は何も変わりないように見えた。家の近くに来ても、不思議なことに知った顔には一度も遭遇しなかった。
あの角を曲がれば、見える。家が。
馴染みの角を曲がり、リサコの家の並びが見えてきた。足を進めるごとに近づいてくる家。
一歩二歩、あともう少し…。
リサコは家の前に立っていた。
空き家のように見えた。
ドアに看板が立てかけてあった。
「住居者募集中」
かつてリサコが猛獣のような父親と暮らしていた家は、どうやら売りに出されているようだった。
これでは結局何もわからない。ここまでわからないと、誰かが意図的に真実を隠しているような気持になってきた。
おじいちゃんが言うには、このように周りの人間が陰謀を企んで自分をだましているという被害妄想もリサコの病気の特徴らしいのだが。
ある意味予想通りではあったが、このどっち着かずの結果にはがっかりだった。住み慣れた家を後にして、リサコはとぼとぼとと通いなれた道を歩きだした。
リサコはあの日の自分の足取りをたどって、学校から逃げ出してブログを書いた公園へと向かった。公園もピンクの巻貝の滑り台も、そっくりそのまま存在していた。
日曜日ともなれば子供たちであふれかえっていた公園。のはずだが、今日は誰も公園では遊んでいないようだった。
トワイライトゾーン。
リサコの記憶の中にある風景が別の次元で再現されているように見えた。同じに見えるけど、もしかしたら違う場所。子供たちがいないのもそのせいなのかもしれない。
リサコが慣れた身のこなしでピンクの巻貝へ入りこむと、良介もそれに続いた。定位置にしゃがみ込むと、言いようのない寂しさがこみあげてきて、リサコは泣き始めた。良介は困ったようにリサコの横で固まっていた。しばらく泣いていると、気持ちが落ち着いてきた。
「私は確かにここに居た。でも本当に父親とここで暮らしていたのか、心の奥底で結論を出したくない自分がいる。あっちの商店街に行けば、私が毎日買い物をしていた八百屋さんもあるだろうし、学校に行けば河原も同級生もいるかもしれない。でもそういう確信的なことを私は知りたくないの。ここに来れば家があってこの公園があるのもわかっていた。でもそこから深くは知りたくないの。もうどうしたらいいかわからない。」
一気にしゃべるとリサコは再び泣き始めた。良介はしばらく黙っていたが、こう言った。
「実は俺もわからないんだよ。」
リサコは泣き止んで顔をあげた。リサコが自分の言葉を理解してないと察すると、良介は同じことを繰り返して言った。
「俺もわからないんだ、自分が誰なのか。」
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