二、変転 (1)

 リサコは心地よい朝の光の中で目を覚ました。清潔なシーツにフカフカのベッド。肌触りのよいパジャマ。リサコは自分がどこにいるのかさっぱりわからなかった。


 体を起こすと、目の前に大きな窓があった。少し開いた窓の隙間から、春の風が入り込み、白いレースのカーテンを揺らしていた。カーテン越しに木の枝と向かいの家のベランダが見えた。


 どこなんだろう、ここ。


 リサコはぐるりと部屋を見渡した。反対側の壁には本棚。ぎっしりと本やCDが詰まっている。とにかく本がたくさんある。ハードカバー、文庫本、漫画、色とりどりの背表紙がリサコの方を向いていた。本は収まり切らずに床にも積み重なっている。この部屋の主は相当な本好きね。リサコはぼんやりした頭でそう分析した。


 ベッドの横には古めかしい机があって、真ん中にパソコンが置いてある。少し前の型のようだ。リサコが使っていたのよりだいぶ古い。パソコンの周りには紙が散乱している。紙には細かい文字がずらっと印刷されているようだった。


 部屋全体は、雑然としているけれどそれなりの秩序があり、持ち主には何がどこにあるのか把握してるのだろうという雰囲気。


 …持ち主ってわたし?


 リサコはそっとベッドから降りながら不思議な感覚を体験していた。知っているようで知らないような。自分のようで自分じゃないような。机の上に散乱している紙を拾って、印刷されている文字にさっと目を走らせる。


 『ドブに捨てられたネコはどんなに洗ってもドブ臭い。お前はドブネコだ。汚らしいいいいいい。りりりりりりささささささささここここここここのRRRRRRRRRRRR』


 わ!なにこれ…。


 ぞっとして紙を手離し、まるで汚い物にでも触ったかの様にパジャマのズボンに手をなすりつけた。


 コンコン。


 唐突にドアがノックされ、リサコは飛び上がるほどびっくりした。

 「リサコや、起きたのか?」

 見知らぬ老人が部屋に入ってきた。…いや、見知らぬ老人ではない、昨晩、新宿でリサコを助けてくれた老人だ。リサコは昨日の出来事を思い出した。あ、そうか、大変なことになっていたんだ…。


 「朝ごはんができているけど、食べるかな?おや、どうしたんだい、真っ青な顔して。」


 リサコは無言で机の上に散らばった紙を指差した。老人は、先ほどリサコが投げ捨てた紙を拾って読み始めた。リサコは老人の反応を固唾を飲んで見守った。


 リサコは老人の顔がみるみる険しくなるのを想像していたが、そうはならなかった。老人は顔をほころばせて「ずいぶんと前向きな文章を書くようになったんだねぇ」と言った。予想外の反応にリサコは動揺して、老人から紙を奪い取るともう一度読んでみた。


 わたしは小さな子猫。無力でか弱い。

 でもとっても幸せ。だって自由なんだもん。

 どんなことだって新鮮で楽しいわ!

 わたしには可能性であふれる未来が待っているの!


 ……………。なんだこれ。

 リサコは他の紙も拾い上げて読んでみた。どれもさっきのサイコな文章とは似ても似つかないメルヘンチックなポエムが書かれていた。訳がわからなかった。リサコの精神は唐突に限界を迎えた。ああ、もう無理。何が何だかさっぱりわからない。


 「違ったの!わたしが見たのはそんなんじゃなかった!いったい何なの!」


 リサコは両手で顔を覆うと声を出して泣き始めた。老人は困った顔をして優しくリサコの肩を抱いた。

 「おじいちゃんにもリサコがどうなっているのかわからないんだよ。済まなかったね。さあ、とりあえず下に行ってご飯を食べよう。食べながらおじいちゃんに全部はなしてくれるかい?」

 リサコは無言で頷くと、しゃくりあげながら、老人と供に部屋を出ると一階のリビングへと向った。


 大きな窓からたくさんの日光がはいりこみ、明るくて清潔で心地よい香りのするリビングだった。この香り、どこかで嗅いだことがある。リサコは思い出した。おじいちゃんの車に乗った時と同じ香りだ…。


 窓と反対側の壁には鷹の絵が描かれた大きなタペストリーが飾ってあった。ネイティデブアメリカンが伝統的に使用するような柄だ。このリビングの雰囲気にはいささか不釣り合いだとリサコは感じた。


 リサコがタペストリーを見上げていると、厚切りのベーコンとスクランブルエッグ、そしてたっぷりバターが塗られたトーストが出てきた。とてもこんなにたくさん食べれないと思ったが、老人に促されて席に座り、卵をひと口食べたとたん、みるみる食欲が湧いてきた。


 ベーコンを食べると力がみなぎり、この老人に全てを語ろうという気になってきた。リサコはペロッと大盛りの朝食をたいらげた。


 食後のコーヒーが絶妙なタイミングで出てきた。

 「すごい…、喫茶店みたい…。」思わずつぶやいた。

 「そりゃそうだ。おじいちゃんは去年まで喫茶店をやっていたんだから。それも忘れちゃったのかい?トーストを食べたら思い出すと思ったんだがねえ。」


 老人はにこやかな顔をしていたが残念そうだった。彼をがっかりさせてしまってリサコは悲しくなった。

 「ごめんなさい…」とか細い声で言った。

 「あやまることはない。まあゆっくりやっていけばいいさ。さて、そろそろ気が向いたらリサコのこと話してくれないかな。夕べはどうしてあんなとこにいたのかな?」


 「新宿に行けって言われたから…。誰かが待っているって言うから…。その、あの、おじいちゃんは私を待っていたんじゃないの?」

 老人はゆっくりと首を横に振った。


 「おじいちゃんたちはリサコを探していたんだよ。いつの間にかどこかへ行ってしまったから。新宿にいたのは何か訳があったのかい?」

 「何が起きているのかさっぱりわからないの…何から話せばいいかわからない…」


 「誰かに会ったのかい?何かを聞いた?どんな些細なことでもいいから話しておくれ。リサコが困っていることのヒントが見つかるかもしれないよ。」


 老人は優しい顔をしてリサコを黙って見つめた。この人なら私の体験したことを信じてくれるかもしれない。リサコはそう思った。


 「まず、私が一番に困惑しているのは、あなた、あ、あの、おじいちゃんが私のおじいちゃんというところなの。私が知る限り、私の家族はお父さんとお母さんしかいない。お母さんは死んじゃった、首を吊って。何度考えても、私には昨日まで父親と二人で暮らして来た記憶しかない。とっても申し訳ないんだけど、私にはここがどこだか解らないし、あなた…おじいちゃんのことも誰なのか解らない。」


 老人は静かに首をふった。

 「リサコや、お前の知っている家族のことと、それからお前さんに起こったことを教えてくれないか。」

 リサコはしばらく頭の中を整理するとゆっくりと語り始めた。


 母親が自ら命を絶ってしまった日のこと。それからしばらくして父親が暴力をふるうようになって、学校には友達がいなくなってしまったこと。万引きをしたこと(泥酔してホテルへ連れて行かれたりのくだりは割愛した)。

ブログを始めたこと。ブログの中で友達ができたこと。


 学校の担任は河原という気味が悪い数学教師だということ。河原の授業中にヒバリが死んでしまったこと。


 それからのおかしな出来事の数々は特に事細かく話した。この一連の怪事件は、ヒバリが死んだところから始まっているのではないかとリサコは考えていた。公園でブログを書いたこと、ペンペン草のこと、緑のものを吹き出して溶けてしまった父親。


 Rからのコメントとメール、へんてこな夢。双子のおじさん。Rと連絡が取れなくなってしまったこと。


 夢のお告げ通り新宿に向かい、やっとの思いでアイアンタワービルにたどり着いたのに、河原に遭遇して逃げ出したこと。河原も緑のドロドロだったこと。逃げる途中でサラリーマンがエレベーターに乗ってきて助かったこと。闇雲に走って歌舞伎町でおじいさんに発見されたこと。リサコは思いつく限りのことを話した。


 話し終わると、二人はしばらく無言で向かい合って座っていた。沈黙をやぶったのは老人だった。


 「リサコ、ずいぶん大変な目にあったんだね。怖かっただろう。これだけは保証しよう、この家にいればお前は安全だ。もうどこかに行こうなんて考えないでおくれ。お前の話を聞いてもおじいちゃんにはわからないことがたくさんあるけど、でもひとつだけはっきりしていることがある。それはお前が薬をちゃんと飲んでいないということだ。いったいいつから飲んでないのかね。」

 リサコはキョトンとして老人を見返した。


 薬?何の話?


 自分の話を聞いてくれる人が現われたと思ったのに想定外の反応が返ってきて一気に絶望的な気持ちになった。このじいさん何言ってんの?

 「ほら、この薬だよ。」

 老人はテーブルの上に白い錠剤を置いた。ありふれた薬に見えたが、リサコには心当たりがないものだった。

 「朝と晩、二錠ずつ、きっちり渡していたじゃないか。きちんと飲んでいるものと思っていたのに、飲んでいなかったのかい?」


 リサコは首を振った。頭の中が一旦白紙状態になり、心の隅々まで困惑が広がって行った。そして、困惑はやがて怒りへと変換され、リサコの体を走り回った。


 「知らない、こんな薬知らないったら!」


 なぜ、こんなに腹が立つのか自分でもよくわからないが、リサコの心はすっかり怒りに支配されてしまった。彼女は勢いよく立ち上がると、テーブルの上に置かれた薬を掴み、老人に向かって投げつけた。


 老人は傷ついた表情を浮かべ、黙ってリサコを見上げた。その目を見ていたら、急に心の中が罪悪感でいっぱいになり、彼女はたまらず目をそらした。気まずい沈黙がリビングを支配した。


 リサコは両手で顔を覆うと、静かに泣き始めた。

 「ごめんなさい。ゆるして。でも私、もう何がなんだかわからないの…」


 そうして泣いていると、誰かの手がそっとリサコの肩に置かれた。てっきり老人が自分を慰めてくれているのかと思い面をあげると、リサコの肩を抱いていたのは老人ではなく、昨晩一緒に車に乗っていたあの金髪の少年だった。


 リサコが顔をあげたのを見ると、少年はさっと手をおろしてリサコから離れ、老人の方を向いた。もっさりした前髪で目が見えないため、少年の感情は読み取れなかった。


 老人は同じ姿勢で固まっていて、未だ寂しそうな表情を浮かべていた。

 「じいちゃんさ、そんなに落ち込むなよ。いままで通り、ゆっくりやればいいじゃん。」

 そう言うと、少年は黙ったままの老人とリサコを交互に見た。


 二人が黙ったままだとわかると、少年はくるっと後ろを向き、そのままスタスタ歩いてリビングの奥のドアへバタンと入ってしまった。


 リサコと老人の間では、またしばらく沈黙が続いたが、空気は幾分軽くなっていた。

 「そうだな、良介のいう通りだ、じいちゃん焦ってしまったね。すまなかった。」

 リサコはもう怒っていない事を伝えるために首を振り座りなおした。


 (あの子、良介っていうんだ)


 「じゃあ、ゆっくりやろうか。じいちゃんも、リサコの話を信じる事にするよ。どっちにしたって、リサコはリサコで変わりない。私の愛する孫娘だ。」


 リサコはその言葉を大変ありがたいと心の底から思ったが、全くこの老人のことを思い出せず、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 そんなわけで、老人が遠慮がちに差し出した薬を今度は素直に受け取って飲みこんだ。薬を飲んでも急激な変化は起こらず、リサコはひとまずホッとした。アリスだったら、ここで巨大化するとこだわ。じいさんが芋虫で、あの少年がウサギとか。


 「ねえ、あの子は誰なの?弟?…まだ私、ここでの生活のことをまるで思い出せなくて申し訳ないんだけども…」

 「ああ、良介のことか?あの子はお前の弟じゃないよ。私の弟子だ。本当は中学に通わないといけない歳なんだが、学校にどうしても馴染めないようでな。時計を組み立てたいってんで、半年前にここを見つけて訪ねて来たんだよ。」

 「時計?」

 「じいちゃんは若いころ時計職人だったんだよ。もう十年前に引退したけどね。そのあと喫茶店を始めて、それも去年閉めてしまった。そしたら良介がやって来たんだ。」

 ふーん。リサコは良介が入って行った奥のドアを見つめた。


 それから数週間は何事もなく平穏な日々が過ぎ去った。毎日きちんと薬も飲んだが、リサコにこちらでの生活の記憶は戻ってこなかった。そもそも、この家での記憶なんてものは元々ないのかもしれない。


 老人の名は元村茂雄と言った。茂雄が言うには、リサコは小学四年生ころから妄想を現実と思い込む病気を患い、それ以来学校には通っていないとのことだった。


 もちろんリサコにはそのような記憶はない。リサコの記憶にある中学や高校での授業の風景は何なのだろうか?リサコは覚えている。担任の河原が黒板に微分積分の数式を書いていたことを。あれも妄想だというのか。空想上の両親はまだ分からなくもないが空想上の退屈な授業って何だ?


 茂雄や良介には話せなかったが、暴力を振るう父親と暮らしていた日々はまぎれもない現実であるとの結論にリサコは達していた。


 何らかの事件(幡多蔵の毒殺?)が起こって事実を隠蔽しようとしている人がいるのではないだろうか?


 そうだとしたら、茂雄たちも共犯なのだろうか?いや、それはないだろう。信じきることはまだできないが、彼らから不穏な空気は全く感じられない。彼らも何かに利用されているだけではないだろうか。リサコは直感的にそのように考え始めていた。


 せめてリサコが以前の暮らしをしていた証拠があれば…。リサコがここに来た時に唯一所持してた携帯電話と着ていた制服は、翌朝目覚めたときには既になくなっていて、再び出てくるとはとても思えなかった。


 身体中にできた傷にはここでは別の理由が存在しており、あの緑のドロドロでできた傷はいつのまにか消えてしまっていた。


 ではブログはどうなったのだろう。リサコが書いていたブログ。部屋に置いてある古びたパソコンを使って何度かブログにアクセスを試みたが、アカウントが削除されてしまったのかログインもできないし、ページもなくなってしまったようだった。


 ある日の夕食時、かつて管理していたブログにアクセスできないことをふともらしたところ、良介がたいへん興味をもった様子だった。


 「再登録はしてみたの?」

 「再登録?」

 「たいていのブログサービスでは、ユーザが退会した後もしばらくは完全にデータを削除しないで残しておくんだ。もちろん閲覧はできないんだけど、期間を空けずに同じユーザが再び登録した際に情報が復活するようになっている。」


 リサコはぽかんとして良介の話を聞いていた。

 「良介はね、時計の他にコンピュータだとかインターネットだとかに関心があってね。随分勉強をしているんだよ。リサコにパソコンを教えたのも良介なんだがね。」

 「もしもリサコが本当にブロクを書いていたんなら、再登録してみるべきと僕は思うけど。」


 リサコは良介と老人の顔を交互に見比べた。良介は無表情。老人は悲しい顔をしていた。先に口を開いたのは茂雄だった。

 「おじいちゃんは反対だ。それでリサコの書いたブロクとやらが出てきても出てこなくても、どっちにしろ悲しい気持ちになるのには変わりない。だったらこの問題には触れずにしておくのが幸せだと思うのだがね。」


 茂雄は変化を望んでいない。このまま何事もなく暮らしていくことが彼の幸福なのだ。リサコにそれがヒシヒシと伝わって来た。


 …おじいちゃんの言うことはもっともだ。そうなのかもしれない。記憶が戻らなくても、ここで幸せに生きていくことはできるだろう…。


 リサコが老人の意見に納得しそうになったところで良介が口を開いた。

 「じいちゃん、それは違うよ。リサコには真実を知る権利がある。リサコは僕らが知らない何かによってとても不安なんだよ。それをごまかして幸せなフリをするなんて、それこそこの世の地獄ではないか。」


 知る権利…。リサコの中で何かがグニャグニャと動き出した。


 そう、リサコには知る権利がある。自分の身に起きている不可解な出来事の真相を知る権利が。そして不条理な暴力を受けずに幸せに暮らす権利があるのだ。


 知る権利っ!知る権利っ!

 権利っ!権利っ!リサコは権利を主張するっ!


 リサコは良介と茂雄を連れ立って二階の自分の部屋へやって来た。古びたパソコンの前に座り電源をつける。ジャーンという調子ハズレな音がしてパソコンが目覚めると、続いてウィーンカリカリ…とモータ音とハードディスクが回転する音が聞こえて来た。


 ウィンドウズが起動するまではしばらく時間がかかる。リサコは振り返って良介と茂雄の顔を見た。茂雄は心配そうな顔をしていた。


 良介のもっさりした金色の前髪の隙間からはパソコンの画面を見つめる二つの瞳がのぞいていた。可愛い目をしている。なぜいつも隠しているんだ。出せばいいのに。良介の視線がチラッとリサコを捉えて一瞬ふたりの目があった。すると良介はすっと両眼を前髪の後ろに隠してしまった。


 ウィンドウズが起動すると、次にリサコはインターネットエクスプローラーを立ち上げた。これにもしばらく時間がかかる。オンボロPCは何をするにも時間がかかるのだ。


 ようやくインターネットをひらくと、リサコはかつて使っていたブログサイトのトップページを表示させ、念のためにログインを試みた。


 先日試した通りリサコのIDとパスワードは弾かれて、間違えているか登録されていない、とのメッセージが表示された。


 続けて新規登録のボタンをクリックすると、登録情報のフォーム画面が表情された。入力を促すがごとく、テキストエリアでカーソルが点滅していた。


 リサコは最初に登録した内容とまったく同じ内容でブログサービスに登録をした。登録は瞬時に完了した。


 ようこその画面が表示され、いつでもブログを書ける準備ができている旨が示された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る