一、救済 (4)

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読んだ?

書いた通りにやってみて。できるはず。お願い。念のため同じ内容送る。


そのドアを開けて外に出ること。

ドアは簡単に開けられる。

階段があるので上ること。

他の部屋は絶対に開けない。

突き当たりのドアから外に出られる。

芝生にずっと同じ建物が並んでいるのでまっすぐ進む。

他の建物に入ってはいけない。

突き当たりにちょっと違う建物があるのでそこには入らずに右に曲がる。

またしばらくまっすぐ行くと左側に生け垣がある。

その合間に道があるので入る。

道は隠れているので注意すること。

生け垣の間の道を進むと小さな小屋がある。

そこに入る。

あとはそこにいる人がなんとかしてくれる。

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 リサコはじっとメールの文字を見つめた。何これ?するとまたメールが来た。


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早く!夢の牢獄から逃げ出して。あまり時間がない。そんなに長く鍵もあけてられない。いそいで。

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 やっぱりわたしの夢のことを言っているんだ。リサコはあたりをキョロキョロ見回した。向こうはわたしが見えているの?メールが来た。


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早く!時間がない!

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 リサコは状況がなかなか理解できずにそわそわした。これは何?いたずら?寝ろって言われても無理だよ。


 そう思ったのもつかの間、睡魔がリサコを襲った。リサコはあくびをすると机にうつ伏せて、スヤスヤと寝息をたて始めた。そして数秒で夢の世界へと旅立つと、全てを忘れ去った。


・・・・・・


 目をあける。コンクリートの四角い部屋。

 壁に背中を押し付けて体育座りしている。

 正面には錆びたドア。

 右側の壁の上の方に鉄格子がはまった小さい窓。

 窓の向こうには真っ青な空。雲はない。


 リサコは全てを忘れてぼさーーーっとしている。なんか、とても重大なことがあったような…。ごろんと倒れて目を閉じる。自分が何者なのか全くわからない。とりあえずここにいれば安全だし。目を閉じる。そして全てを忘れた少女は数秒で夢の世界へと旅立った。


・・・・・・


 目を開ける。リサコは見知らぬ狭い部屋にいる。体を起こすと目の前にパソコンのモニターがある。ああ、そうかネットカフェだ。手元に転がっている携帯を見ると、さっきの睡魔から一分も経っていなかった。ダメだ。全々無理。


 メールが来る。


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自分を信じて。絶対できるから。今度はもっとゆっくり睡眠に導入する。

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 これではっきりした。あちらにはこっちが見えている。そしてなぜだかわからないがリサコの睡眠をコントロールできるようだ。


 リサコは突然閃いた。


 わかった!これは全部夢なんだ!こんなことあるはずないもの。父さんのくだりから、いや、むしろヒバリの辺りから夢なんだ。目が覚めたらきっと教室にいるはず。それなら何でもいいから早く目覚めないと。


 メールが来る。


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疑いの方に精神を持って行っちゃだめ。

うまくいかなくなる。

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 「わかったよ。やるよ。やればいいんでしょ。」

 リサコは声にだして言った。リサコはまた目を閉じた。


 先程より緩やかな眠気が来た。「そのドアを開けて外に出ること。」心の中で復唱する。「ドアは簡単に開けられる。」大丈夫覚えている。「階段があるので上ること。」上る……。


・・・・・・


 目をあける。コンクリートの四角い部屋。

 壁に背中を押し付けて体育座りしている。

 正面には錆びたドア。

 右側の壁の上の方に鉄格子がはまった小さい窓。

 窓の向こうには真っ青な空。雲はない。


 リサコは全てを忘れてぼさーーーっとしている。なんか、とても重大なことがあったような…。


 そのドアを開けて外に出ること。

 ドアは簡単に開けられる。

 階段があるので上ること。

 ぺんぺん草。


 唐突に思い出す。

 そうだ、ここから出るんだった。


 「そのドアを開けて外に出ることムニャムニャ。」


 眠りについたネットカフェのリサコが繰り返し寝言を言っているのが聞こえてくる。自分が二つに分裂したようで気味が悪いが始めての感覚ではない。


 「そのドアを開けて外に出ること…。」


 ムニャムニャリサコは、何度も何度も念仏のように同じことを繰り返す。

 「はいはい、わかってる。だから黙ってくれる?」


 彼女はブツブツ言いながら立ち上がると錆びたドアに近づく。「ドアは簡単に開けられる。」ドアノブに触る。ヒヤッとしている。ゆっくりとまわすと簡単にまわる。手前に引くと、ドアは簡単に開けられた。


 本当だ。簡単に開いた。


 リサコはゆっくりと部屋の外に出た。生まれて初めて夢の中で部屋の外に出た。しかもこんなにあっさりと。リサコは、動揺か感動か、どっちかが襲ってくるのではと思ってちょっと待ってみたが何も来なかった。彼女は至って冷静なのだ。


 前方を見ると部屋と同じようにコンクリートで囲まれた暗い廊下が続いている。後ろで部屋のドアが閉まった。振り返ってみるとドアには「リサコ 表/裏」と書いてあった。表裏って何よ。リサコはこの表記が可笑しくてニヤニヤ笑った。ともかく、もうこの部屋には用がないんだ。


 廊下はすぐに終わっていて、突き当たりに階段が見える。「階段があるので上ること。」また頭の中で念仏が始まる。こんなことがなければ一生出なかったかもしれない部屋の外。外に空間があったとは想像も絶することだ。


 階段のところまでソロソロ歩く。階段は短くて数段しかない。階段を登る。1・2・3・4…5段の階段だ。


 階段を登った先にはまた廊下が続いている。今度はだいぶ長い廊下だ。両側に部屋がいくつも並んでいて、ずっと向こうの突き当りにはまたドアがあるようだ。


 リサコは一つ一つのドアを眺めながら歩く。全てのドアにはぺんぺん草な「リサコ」と書いてある。一つ一つのドアはものすごい引力でリサコを魅了する。開けろ、開けろ、とドアが念力を飛ばしているようだ。


 ぺんぺん草。ダメダメ。そっちへ行ってはダメ。


 しかしリサコは我慢できなくなって、ドアの一つのノブを掴んだ。ビビビビっと電気のような快感ともいえるような感覚が全身を走る。リサコはゆっくりノブを回し、ドアを開けた。


 その向こうに見えたものに、声を失う。


 そこは猛烈に汚れたトイレだった。汚物がどっかり詰まっている。悪臭。


 上から木の札が勢いよく落ちてきて「ブッブーー!」と音が鳴る。札には「やりなおし!ぺんぺん草!」と書いてあった。


・・・・・・


 目を開ける。リサコは見知らぬ狭い部屋にいる。体を起こすと目の前にパソコンのモニターがある。ドアを開けたのは完全に失敗。メールの内容を一字一句、間違いなくやらなくてはいけないのか。


 背中が痛い。手元に転がっている携帯を見ると、今度は五分ほど経っていた。リサコはこのちょっとした睡眠であまりに多くのことが変わってしまったので正直動揺している。夢の中のリサコは動揺しなかったが、こちらのリサコは動揺するのだ。リサコはドアに書いてあった言葉を思い出す。


 「リサコ 表/裏」


 それで言ったらこっちのわたしが完全に裏だ。向こうが表。そうに違いない。それにしても、なぜあのトイレのドアを開けてしまったのかわからない。リサコは夢の中でドアノブを触った時の感覚を思い出して身震いする。


 何だろうあれ。すごく危険な感じ。気をつけないと。


 そして「ぺんぺん草」。ぺんぺん草が何を意味するのかはわからないが、どうやら夢がぺんぺん草に汚染されてきたようだ。


 何がなんでもわたしはこれをやり遂げないといけない。これがどれほど大事なことか彼女はもう知っている。またやれるだろうか。まだ間に合うだろうか。リサコは目を閉じる。今度こそ、間違えないようにと祈りながら。


・・・・・・


 目をあける。

 コンクリートの四角い部屋。

 壁に背中を押し付けて体育座りしている。

 正面には錆びたドア。

 右側の壁の上の方に鉄格子がはまった小さい窓。

 窓の向こうには真っ青な空。雲はない。


 振り出しに戻ってしまった。リサコは立ち上がる。彼女はさっき「リサコ」と書かれたドアのところで失敗したのを覚えている。彼女は自分が何をしなければいけないのか、ちょっとおさらいする。


 大丈夫、今度はできる。


 自分が二人いる感覚はさらに強くなったがむしろ心強い。わたしが表であっちが裏。二人で一人。リサコは二人で一人なんだ。そして彼女は自分がやるべきことを知っている。それについては疑う余地はない。彼女は自信に満ちた足取りで正面のドアを開けて廊下に出る。


 今度もドアには「リサコ 表/裏」と書いてあった。


 短い階段を上って長い廊下に出る。そしてさっき失敗したドアたちを無視して進む。


 「他の部屋は絶対に開けない。」


 大丈夫。もう開けない。このドアの向こうは汚物がいっぱい詰まったトイレだから。ぺんぺん草だから。


 「突き当たりのドアから外に出られる。」


 Rから届いたメールの文章を唱えながら長い廊下を歩いていく。やっと突き当りまで到着してドアを見る。小窓がついていて、そこから外の景色が少し見える。Rの言うとおりの風景になっているようだ。


 芝生にずっと同じ建物が並んでいるのでまっすぐ進む。


 ドアを開ける。外に出る。涙が出るほどまぶしい。晴天の昼下がりといった感じだ。芝生にずっと同じ建物が並んでいる。真っ白で四角いコンクリートの建物。鉄格子のはまった小さな窓がいくつもついている。


 リサコが出てきた部屋もこれの一つなのだ。わたしの部屋は半地下にあったんだ。リサコは振り返って自分が出てきた建物を見る。他と区別がつかない。見える範囲にあるのは全て同じ形の建物だ。


 「芝生にずっと同じ建物が並んでいるのでまっすぐ進む。」


 リサコは出てきたドアを背にして立ち、正面を見る。ずーーーと向こうに少し色の違う建物が見える。あそこまで行くんだ。


 リサコは歩き始める。


 「他の建物に入ってはいけない。」

 ぺんぺん草

 「他の建物に入ってはいけない。」


 呪文のように繰り返しながら歩く。そうしていないと、ふらっと建物の中に入ってしまいそうになる。建物はトイレのドアと同様、すごいぺんぺん草な引力があるのだ。入ったら間違いなくトイレだ。汚物が詰まった。そして恐らくもう次のチャンスはない。


 「他の建物に入ってはいけない。」

 「他の建物に入ってはいけない。」

 ブツブツ。


 裸足に触れる芝生が心地よい。それにしてもなんてよい天気だろう。空は真っ青。ところどころに雲。芝生は黄緑。建物は真っ白。


 「他の建物に入ってはいけない。」

 「他の建物に入ってはいけない。」


 ようやく突き当たりの建物がよく見えるようになってきた。どうやらあれだけぺんぺん草レンガの建物らしい。あれにも入っちゃだめだ。


 「入っちゃだめ」

 「入っちゃだめったら、入っちゃだめ」


 どんどん近づいてくるレンガの建物から目を離さずにリサコは歩いていく。近づくと見上げるような大きな建物だ。とにかくでかい。


 レンガの建物の前で立ち止まると、リサコはしばしその美しい屋根を眺めていた。「ふーん。」リサコは右を向く。


 その途端、背後で物凄い音がした。振り返ると巨大なおぞましい形の機械がリサコが出て来た建物の辺りを片っ端から壊していた。見ているだけで不快な気持ちになるクレーン車のようなやつ。


 わ!なにあいつ?!

 リサコは恐ろしくなって走り出した。


 「突き当たりにちょっと違う建物があるのでそこには入らずに右に曲がる。」リサコは右に曲がってぐんぐん走る。


 早く行かなくちゃ。

 Rが急げって言っていたのはこういうことだったのか!


 向って右側には白い建物、左側はレンガの建物が続く道。


 「またしばらくまっすぐ行くと左側に生け垣がある。」


 あの辺でレンガが終わっているから、その先にあるんだ、ぺんぺん草の生垣。リサコは弾ける様に走って行く。


 壁が終るといきなり生垣になった。あぶない。あぶない。もうやり直しはきかない。いま振り出しに戻ったらわたしは死ぬかもしれない。あのおぞましい機械がわたしの居場所を壊し回っているから。


 「その合間に道があるので入る。」

 「道は隠れているので注意すること。」


 生垣を注意してみると、かろうじてわかる切れ目があった。リサコはそこに入っていく。Rの言うとおり細い道が続いていた。木々の間をぬって進むと、正面に小さな小屋が見えてきた。


 リサコは再び走り出す。あそこに誰かがいると思うと居ても立ってもいられない気持ちだった。


 山や畑の中にあるような小屋とそっくり。ほんとに小さい小屋だ。住居ではないが道具をしまったり休憩してお茶を飲んだりくらいができる小屋。リサコは小屋の前までたどり着くと力いっぱい引き戸を開けた。


 小屋の中はなんとも庶民的な雰囲気だった。手前には土間があってナタやノコギリなどの錆びた道具が無造作に置いてある。本当に畑とか山とかにある小屋みたいだ。


 そして奥には畳の部屋とちゃぶ台。ちゃぶ台の向こうに並んで座っている二人の男。男達に視線を移すと、二人が同時に「いらっしゃーい」と言って手招きをした。


 リサコは土間を横切って畳の部屋へ上がった。靴を脱ごうとして裸足であるのを思い出す。「どうぞ」ちゃぶ台の向かい側を指して二人が同時に言う。リサコはぺこりとお辞儀をすると彼らの向かいに座った。


 まじまじと二人の男を観察する。どうみても双子だ。四十代?二人ともちょび髭をはやし、おでこが広い。白髪まじりの油っぽいストレートヘアで横分けボブカット。二人を何度も見比べてみるが区別がつかない。服装もまったく同じでカラシ色のシャツに紺色のチョッキ。ズボンは見えないが細身のGパンに違いない。なぜかリサコにはそれがわかった。


 左側がポットからお茶を注ぐとリサコの前に出した。会釈して一口すする。おいしかった。


 「で、君がリサコ?」右側が言った。


 リサコは両方のおじさんを交互に見比べながら頷く。どうにかしてこの二人を区別するヒントを見つけたかった。


 「オーケー。じゃ、手続きしちゃおうか。」


 あ!わかった!右側のおじさんには、鼻の下に小さなホクロ、もう一人の耳たぶにピアスの穴みたいなかすかな跡がある。


 え?ピアス?


 ホクロの方が水色のバインダーを取り出した。何枚かの書類が挟まっている。彼は人差し指をベロっと舐めると上から二枚をとり、リサコに差し出す。ピアスの方がボールペンを取り出してちゃぶ台の上に置いた。


 「ここと、ここにサインして。」


 リサコは書類を受け取るとまず読んでみる。


 乙は甲の安全を確保しいかなる場合も……。


 「これ、契約書?」

 「そうだ。心配ならよく読みなさい。我々が君を全力で守るっちゅう契約だ。」

 「おじさんたちがR?」

 「いや、おじさんたちはRではない。Mだ。」


 ?


 ホクロがバインダーごと残りの書類をリサコに渡す。リサコは胡坐をかくと、眼の間にシワを作りながらもう一度書類の内容を読んでみた。難しい言葉で書いてあるのでよくわからなかったが、乙が甲を守ること、みたいな内容が回りくどく書いてあるようだった。


 「その乙ってのが我々で、」

 「甲ってのが君のことだ。」


 ホクロとピアスが交互に言う。リサコは他のページもめくって見てみた。

様々な場面を想定してどのようにリサコの安全を確保するのがベストなのか、そういうことが詳しく書いてあるようだった。


 「ヴァイラスの攻撃に対しては適切なワクチンを即座に検索し対応すること」「不整合が発見された場合は即座に周囲から隔離し原因を追究すること。対策はマニュアルの三六七項参照」


 何を言っているのか全くわからない。内容が理解できない契約書にサインするなんて正気の沙汰ではないが、そもそもこの状況自体が正気の沙汰ではないのだ…。


 「サインしたくないって言ったら?」

 「そしたらサインするまでずっとこうして向かい合って座っているだけ、話が先に進まないだけだよ。」

 「じゃあ、サインしないで出ていったら?」


 双子は同時に肩をすくめる仕草をして言う。

 「君がサインをしないでここから出て行った場合は、ブブー。またやりなおしだ。振り出しに戻る。」

 「そしてもう手遅れだ。君は死ぬ。見ただろう?あの機械の野郎を。」


 リサコは頷くと機械を思い出して身震いした。あそこに戻るのは問題外だ。ありえない。リサコはしばらく契約書のページをパラパラめくって考えた。今の説明は説得力がある。つまり、サインしないと先に進まない仕組みになっているんだ、ゲームで既定のイベントをこなさないと次に進めないみたいに。サインしないとゲームオーバー。自分には選択の余地がない。


 リサコはボールペンを握ると、双子が示した二箇所にサインした。

 「よろしい。」

 朱肉がちゃぶ台の上に置かれる。

 「母印でいいから、こことここね。」

 リサコは言われた通りにする。

 「それから、ここに割り印」 ぺと。 「はい、以上。」


 双子の間を書類が渡り、ピアスがなれた手つきで数箇所に印鑑を押す。一番上にあった紙をリサコに渡しながらピアスが言う。

 「これで手続き終わり。これは君の控え。」

 リサコは紙を受取ってもう一度読んでみる。やっぱりわからない。ホクロがティッシュを取り出して朱がついたリサコの指を拭いてくれる。

 「ここに契約を交わしたので我々は全力で君を保護する。これから次の誘導に入るが準備はいいか?」

 「ひとつ聞いてもいい?」

 「なんだね」

 「ぺんぺん草って何?」

 双子が顔を見合わせる。まずいことを聞いてしまったかと思ってリサコは後悔する。

 「そのうち修正される。気にするな。」とホクロ。

 「修正される。気にするな。」ピアスも繰り返して言う。

 ホクロは額にたれてきた髪を撫で付けて頷く。なぜかわからないがリサコも頷き返す。

 「それでは誘導に入るが準備はいいか?」

 リサコは頷く。

 「それではリサコ。これから我々が言うことをしっかり聞く。いいね。」

 「はい」

 「この後、君は目を覚ます。変わらずインターネット カフェで目覚めるはずだ。ここまではいい?」

 「はい」

 「そしたら、すぐに店を出て新宿へ向かえ」

 「新宿」

 「そうだ。そして新宿の南口から出て、左に行く。タワレコとかがある方だ」

 「南口でタワレコのある方…」

 「そのまま甲州街道沿いを真っ直ぐ行ってしばらくすると、アイアンタワービルという雑居ビルがある」

 「金融会社の看板ばっかりついているビルだよ」ピアスが口を挟む。

 ホクロが続ける。「エレベーターでそのビルの九階に行く」

 「九階」

 「そしたら、そこで次の案内人が待っているだろう。これで説明は終わり。質問は?」

 「案内人が居なかったら…?」

 「必ず居ることになっているから心配いらない。他に質問は?」

 彼女は首を左右に振って質問がないことを示す。


 「よろしい。あっちでの冒険はこちらの世界と違って間違えてもやり直しはない。時間制限がない代わりに、ちゃんとたどり着かないと路頭に迷うことになるから注意して」

 「は、はい。」

 「では、君をあっちに戻すよ。こちらのことは心配しなくていい。契約通り全力で保護しよう」

 「あ、ちょっと待って。やっぱり、もうちょっとここで休んじゃダメ?」

 「ダメだ。行きなさい。それじゃあ、気をつけて」

 「さようなら」


 双子はリサコの願いは全く受け付けない様子で、それぞれ別れの言葉を口にして手を降り始めた。耐え難い眠気が襲ってきた。さっきインターネット カフェで体験したのよりも強烈で強引。


 ちょっと待った!

 やっぱり、わたしにはムリ!

 こっちにいたい!


 リサコは必死に睡魔に抵抗する。景色がぐんにゃり見えて吐き気がする。これは人生最強の睡魔だ。

 「いやー!一人にしないで、おじさんどっちかついて来てよ!」

 リサコは子供みたいに泣きわめいて懇願した。さすがに双子も困った顔になる。

 「ムリムリ!おじさんついていけないよ!」

 「ダメダメ、我慢すると辛いよ。寝ちゃいなさい。」

 双子が全く同じ動作でわたわたとしている。

 「一人はもう嫌!嫌なの…むにゃむにゃ」


 リサコは白目をむいてその場にくずれ落ちた。双子は顔を見合わせると立ち上がり、優しくリサコの体を横たえる。そしてそっと毛布をかけてやる。


・・・・・・


 目を開ける。リサコは見知らぬ狭い部屋にいる。体中が痛い。ぎくしゃくと体を起こすと目の前にパソコンのモニターがある。ネットカフェに戻ってきた。リサコはこちらの世界に戻って来てしまったことにひどくがっかりした。


 手元に転がっている携帯を見ると夜の十時になっている。Rからは新しいメールは来ていなかった。


 起き上がっていろいろなことを考え始めると、さっきまで見ていた夢が急速にぼやけ始めた。リサコは焦って双子に言われた道筋をおさらいする。


 新宿南口を左、甲州沿いにずっと行く。アイアンタワー。九階。本当にあるの?そんなビル。


 目覚めてみると、双子もあの空間も全てが頼りなく、単なる夢としか思えなくなってきた。夢のお告げ通りに行って何も無かったらどうしてくれるのよ。


 …どうにもならないだけだ。


 行ってみて何も無かったとしとも、状況は何も変わらない。ちょっと移動するだけ。ここにずっといる訳にもいかないし。もうこうなったらヤケクソだ。そのアイアンタワーとやらに行ってやろうじゃないの。


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新宿に向かいます。

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 リサコはRにメールを送った。すぐ返事が来た。と思ったら宛先不明のお知らせだった。ブログを介しているのに宛先不明はおかしい。何かサーバーに不具合でもあるのだろうか?リサコはもう一度メールを送ってみた。状況は変わらず、メールは届かなかった。Rと連絡がとれないのを、とても心細く思った。


 仕方ない、独りで新宿に行くしかない。リサコはよっこらと立ち上がった。身体中がギシギシ痛んだ。それにしてもひどい痛みだ。


 ああ、そうだ…階段から転げ落ちたんだった。父さんが溶けちゃって…。殴られた顔もヤバイ感じ。


 カバンをあさると鏡を取り出し、自分の顔を恐る恐る写してみると、まるで試合後のボクサーのような顔になっていた。この顔でウロついていたらさすがに怪しまれるな。まずはこれをどうにかしないと。


 髪の毛でできるだけ顔を隠して席を立ちネットカフェを後にした。店員が顔も上げずに「ありがとうございましたー。」と言った。


 ネットカフェの向かいには煌々と輝くコンビニエンスストアがあった。リサコはうつむいたままコンビニに飛び込むと、男性用の大きめのマスクを購入した。これで顔の半分以上を隠すことができる。マスクをしていてもなんの違和感もない国。ブラボー東京。ブラボー日本。


 コンビニから出ると、雨が降ってきた。リサコは限界に近い体力を振り絞りできるだけ早足で駅へ向かった。駅に着くと、ちょうど電車が来たので素早く乗り込んだ。ドアに張り付くように立って他の乗客の視線から顔を隠す。電車はリサコを乗せてネオンの街を通り過ぎ、新宿へと突き進んだ。


 ガタンゴトン、ガタンゴトン。


 夢でみた変な双子の言うとおりに新宿に来ちゃうなんてほんとバカな話…。リサコはマスクに隠れてニヤニヤ笑う。ビルが無かったらどうしよう、誰も居なかったらどうしよう…不安の裏でリサコは双子の言うとおりになると解っていた。だって全部夢なんだもん。


 (いや違う、断じて夢ではない。)


 やがて電車は新宿に到着し、ドアが開くと、ホームではたくさんの人がこちらを向いていた。リサコにはその全員が自分を見ているように思え、一瞬ひるんだ。ホームの人たちはただ降りる人が済むのを待っているだけなのに。リサコはできるだけ平然とした振りをしながら電車を降りると、改札に向かった。


 念のため、Rに新宿に到着した旨を連絡したが未だメールは送れなかった。わたしを待っているのはRなのだろうか。それとも別の人?


 駅には人が溢れかえっていて、何十人もの人とすれ違った。誰もリサコには注目していない、かのように見えて、実はみんな見て見ぬ振りをしてるだけ。もしも明日リサコが死体で発見されたら意外とたくさんの目撃者が出てくるだろう。東京ってそういう街だ。


 彼女はエスカレータを上って左の方へ行き、タワレコの一番近くの改札から駅の外へ出た。待ち合わせの人達がたくさんいる。


 リサコはギイギイいう足を叱咤しながら階段を下りて雨の下へと歩きだした。春とは言えどジワジワと冷たさが体に染みこんで来る。そろそろ、びしょぬれで制服姿の女の子に不信感を持って話しかけてくる人が出てくるだろう。特にお巡りさん。早く辿り着かなければ。


 リサコはなるべく平常心を保つように努力しながら、痛みがひどくなる身体を引きずり必死で歩き続けた。


 そのまま、まっすぐ、甲州街道沿いを歩いた。どんどんまっすぐ。飲食店やデパートの裏側を通り過ぎて駅前の大騒ぎから離れて、まっすぐまっすぐ。まだ目的のビルは見えてこない。


 やっぱり、ないよね…夢の中のおじさんが言ったビルなんか。


 諦めてそろそろ引き返そうかと悩みだしたころ、ようやくそれらしいビルが見えてきた。金融会社の看板だらけのビル。


 リサコはほっとして歩調をゆるめた。よかった、あれだ。ビルさえあればあとは必ず双子の言うとおりになるだろう。リサコはほぼ確信していた。どんな人が待っているか知らないが、双子のときと同じで行けばわかるだろう。


 数分後、リサコは「アイアンタワービル」の真下に立っていた。ビルを見上げると、ほとんどの階の明かりは消えていて人気はない様子だった。


 ビル名の下に各階の案内が出ていたので問題の九階を見た。「有限会社 ヨクトヨタ」と書いてあった。…会社なの?…予想外だった。先ほどまでの自信が急速にしぼんでしまい、ちょっと心配になってきた。


 こんな時間に会社の人居るのかな?やっぱりあれはただの夢だったのかもしれない。


 リサコは周りの様子を伺いながらゆっくりビルの中へと入った。ビルのエントランスの一番奥に古そうなエレベーターが1台あった。1号機と書いてある。リサコは昔風の「上」ボタンを押した。ガゴンという音がして、二階にいた箱が降りてきた。ドアが開く。誰も乗っていない。よかった。こんな時に誰かの記憶に残るような状況はできるだけ避けたい。


 小さな箱に乗り込み、九階を押す。身体中が痛い。おまけに寒い。寒さで体の震えが止まらない。エレベーターはイライラするほどゆっくり昇っていく。誰も途中で乗ってきませんように…彼女はずっと祈っている。エレベーターはのろのろとリサコの身体を階上へと運び、やがて六階へ到達。止まることなく順調に七階を通り過ぎ八階も通り過ぎた。


 よかった…。ガクンと揺れてリサコを乗せたエレベーターは不器用に止まった。


 ドアがゆっくり開く。

 お願い。誰か、居て。

 期待と不安で張り裂けそうになりながらリサコは祈った。


 リサコの視界に人物が入ってきた。


 ずんぐりした体型。異常に狭い額。その額に油っぽい髪の毛が張り付いている。メガネの奥の濁った瞳。


 リサコは自分の見ているものが信じられなかった。


 疲労困憊の彼女を出迎えたのは、あろうことか、今一番会いたくない知人、担任の河原ツトムだった。あまりの衝撃でリサコは口を開けたまま固まった。


 「やまぁもとぉ~りさぁこぉ~」


 河原は不気味な笑みを浮かべて、よたよたとエレベーターへにじり寄ってきた。右足を不自然に引きずっている。河原の右足首から緑色のウミが靴下に染み出しているのが見えた。


 緑!?また?


 また!!??


 リサコは父親の最後の姿のフラッシュバックに襲われながら、必死でエレベーターの閉まるボタンを連打した。古いエレベーターは腹が立つほど反応が鈍い。ゆっくりと扉がしまる。


 早く早く!


 リサコは拳でボタンを何度も叩いた。河原の方もリサコの意図を汲み取ると、一瞬で真顔になり、エレベーターのドアへと突進して来た。そしてせっかく閉まりかけた扉に見事に挟まった。


 リサコはぎゃっと叫ぶと後ろへ飛び退き、河原の体をかわした。河原を挟んだエレベーターの扉はばい~んと跳ね返ってまた開いてしまった。一瞬だったが、河原の濁った目線とリサコの視線が重なり、激しい嫌悪感が彼女の背筋を走った。


 リサコは足をあげると、力一杯、高校の担任河原ツトムの腹あたりを蹴り上げて、彼をエレベーターから押し出した。河原はとても人間とは思えない声を出して、床に倒れこんだ。リサコの足には、ぐんにゃりした気味の悪い感触が残った。


 リサコは目にもとまらぬ速さで閉まるボタンを連打した。連打してもエレベーターのスピードは変わらないはずであるが、今度はリサコの望みどおり、河原が飛びつく間もなく扉が閉まり、エレベーターはスルスルと階下へ降りて行った。心臓が早鐘の様になっている。


 早く早く。


 リサコは心の中で必死にエレベーターを急かした。階段であいつが降りて来ているかもしれない。そう思うといてもたってもいられず、無意識に彼女はその場で足踏みをした。そんな彼女をあざ笑うかの様にエレベーターは三階まで来ると、ガクンと揺れて扉が開いた。


 リサコはびくついて身構えたが、三階から乗って来たのは体躯のよいサラリーマン風の男だった。男はリサコの姿を認めると少し驚いたような顔をしたものの、すぐに見て見ぬ振りを始めた。そうそう、こんなところにいる汚い女子高生にかまってると、ろくなことないよ、おじさん。


 リサコとサラリーマン風の男を乗せたエレベーターは下降を続け、ついに一階へと到着した。扉の近くに立っていたサラリーマン風の男が先に降り、リサコがその後に続いた。それと同時に非常階段から河原が転がる様に出没した。


 サラリーマン風の男はぎょっとしてそちらを見た。河原も予想外の人物に驚き、慌てて階段の影へ引っ込んだ。リサコはその隙を逃さなかった。最後の力を振り絞ると、猛ダッシュでアイアンタワービルのエントランスから逃げ出した。


 薄暗いエレベーターホールには、状況がつかめずにぽかんと少女が走り去った先を見つめるサラリーマン風の男と、恨めしそうにビルの出口を見据える河原が二人残された。


 リサコはめちゃくちゃな道を通って新宿駅の方へと戻った。とにかく人の多い方へ。河原に見つかる前に人混みに紛れてしまわないと。


 リサコは気力だけで走った。


 どこをどう通ったのかわからないが、リサコはいつのまにか歌舞伎町の真ん中の広場にうずくまっていた。雨がボソボソと降っていたがもうどうでもよかった。もう膝がガクガクして立ち上がることすらできなかった。


 わたし、悪い夢を見ているんだ。じゃないと何もかもつじつまがあわない。あんなところに河原がいるわけないし、そもそもあの緑のドロドロは何なの?あんなふうに人間から緑の液体が染み出すことなんてあるの?


 それとも自分の知らないところで、組織ぐるみの何かが動いているのだろうか。今日の出来事を考えるとそんな思いが湧いてきてしまう。何だか周りの人たちがみんなリサコを観察しているという異常な感覚が襲ってきて頭からはなれなかった。


 みんな、わたしが困惑しているのを見て喜んでいるに違いない。こんなこと考えるなんて、わたし、頭がおかしいんだ。


 リサコはうずくまったままクスクス笑いだした。最初から警察に行って保護されたらよかったんだ。頭がおかしくなった子として施設にいれてもらおう。


 くっくっく…。


 リサコの口から笑い声とも嗚咽とも判断しかねる声が漏れた。そうしてリサコはしばらくその場にうずくまっていた。もう何も考えられなかった。

もう、ここでこのまま寝てしまおう…。もう知らない…。


 「リサコ、リサコ、こんなところにいたのか。おじいちゃん、探したよ。」


 急に肩越しからやさしい声がした。顔を上げると見覚えのない老人がリサコの顔を覗き込んでいた。


 コーデロイのハンチングをかぶり、ロマンスグレーの上品な口髭を生やしたダンディなおじいさんである。リサコはキョトンとして老人を見返した。


 「さ、お家へ帰ろう。」


 老人はリサコの肩に手を置き、立ち上がるように促した。リサコは首を振って細やかな抵抗を示した。


 「だめだよリサコ、こんなところにいたら風邪をひいてしまう。」

 リサコはなおも首を振って拒否を続けた。

 「もう一歩も歩けないもん。」

 「大丈夫、おじいちゃんに捕まって立ってごらん。」

 リサコは言われるままに老人の腕に身を任せ、なんとか立ち上がった。老人の腕は見た目よりも力強かった。

 「すぐそこに車を停めてあるから、がんばれるかい?」

 リサコは小さく頷いた。老人と少女は身を寄せ合ってゆっくりと歩きだした。


 「思い出すねえ。リサコがまだ小さいころに、よくこうやって手を繋いでお散歩したんだよ。」

 リサコは黙っていた。一緒にお散歩?そう言われると記憶の片隅にそんな風景があるような気もするが、この老人には全く見覚えがなかった。


 (この人が、わたしの案内人?)


 わたしがあのビルに入って河原に会って逃げ出して、ここでこの人に会うまでが予定通りってこと?何がなんだかもうさっぱりわからなかった。


 憔悴しきったリサコにはもう深く考える気力はなく、このやさしそうな老人に自分の運命を託すことしかできなかった。どうせ他に行くあてもないのだし。リサコは老人に支えられてなんとか歩いた。今にもぶっ倒れそうだったが、なんとか持ちこたえていた。


 老人の車は歌舞伎町を抜けてすぐの大通りに停めてあった。ハザードを出して停まっている黒い車。老人がほら、あそこだよ、とリサコに教えた。車を認めると急に力が抜けて、足がぐにゃぐにゃになってしまった。まっすぐ歩けない。

 「ほれ、どうしたリサコ。あともう少しだ。がんばって歩け。」

 老人に励まされ、必死に前に進もうとするが思うようにいかず、リサコはその場にへたりこんでしまった。


 だめ…もう歩けない…。


 すると老人の車の助手席のドアがあいて、もっさりした髪を金色に染めた少年が出てきた。少年はうつむき加減に背を丸めて、ゆっくりとリサコの方へと歩いて来ると、老人の反対側からリサコの体を支え、ヒョイっとリサコを立ち上がらせた。リサコは少年の顔を覗き込んだが、半分以上が前髪に覆われていて目を見ることができなかった。


 「ほら、歩けよ」


 うつむいたまま少年が言った。少年の声は、知っているような、知らないような、懐かしいような響きがした。


 リサコは頷いて歩く努力をした。足はまだ右へ左へとぐらついていたが、老人と少年に助けられて、リサコはなんとか車の後部座席に乗り込んだ。

車の中には懐かしくて安心する不思議な香りが漂っていた。

 「よし、回収完了。」

 老人がつぶやき、運転席へ乗り込むと、少年もするりと助手席へ座った。


 車は咳き込むようにエンジンをスタートさせ、のろのろと動き出した。後部座席のリサコは安堵と困惑を同時に抱きながら、ゆっくりと気を失っていった。気を失いながらリサコは見た。振り返った少年の前髪の隙間から、チラッと心配そうな瞳が覗いているのを。


 大丈夫、心配しないで。わたしは大丈夫。

 リサコは言葉にならない言葉を少年へと投げた。


 Mission In Kaleidoscope .........

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