一、救済 (3)
学校から逃げ出して飛び込んだ公園の滑り台の片隅で、彼女はブログを開いた。今朝書いた日記に早速コメントがついていた。新しい日記を書く前にまずはコメントへの返信をしなくてはいけない。それがブログ界の礼儀なのだ。
今朝書いた記事はこんな記事だった。
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2010.4.29 THE 06:24 KOTOKO
みなさんおはよう。と言っても一睡もしてないんだけど。
また父さんが暴れだしてさっきまでひどかったんだ。
夕食前までは機嫌よかったんだけど、
応援してる野球のチームが負けたもんだから暴れだして。
もうむちゃくちゃ。
おととい蹴られた腰をまたやられて、アザがひどいことに。
こんなんじゃ将来彼氏ができても説明するのがめんどくさい。
とにかく、最近自分と関係ないことで父さんの機嫌が悪くなって
殴られるってパターンが多すぎる。
こっちは全く悪くないから納得いかないな。
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コメント1
Humitoshi 2010.04.29 THE 06:32
お父さんってもしかして巨人ファンですかい?
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(あ、またこの人。いつ書いてもすぐコメントしてくる。いったいいつ寝てるんだ。ニートって本当に常にパソコンの前にいるわけ?死んじゃうよ。。)
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> Humitoshiさん
そうですよ。このところずっと勝ってたのに…。
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コメント2
KumikoYahara 2010.04.29 THE 11:22
KOTOKOさん、お父さまがあなたと直接関係ない理由で
暴力を振るうようになったのは心配ですね。
やはり早めにどなたか(警察でもいいです)に
相談されたほうがよいと思います。
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(でた。おせっかいおばさん。わたしは話を聞いてもらいだけなの。自分のことは自分でなんとかするからほっといてよね。)
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> KumikoYaharaさん
そうですね。確かにもう理由なんてどうでもいいようになってきたかもです。
気が向いたら相談してみますよ。でももうほっといて。
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コメント3
no name 2010.04.29 THE 11:58
ネタに対してマジレスしてんじゃねぇよ。
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(誰これ?削除)
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コメント4
Take 2010.04.29 THE 12:10
おまえの裸ならどんなにアザだらけだってオレは気にしないぜ!
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(は?きもい。削除削除。)
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コメント5
†К@oяц† 2010.4.29 THE 12:35
ぁたしのパパもゃきゅーのことでキゲンゎるぅ~くなるょぉ。
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(あ!カオル!よかった生きてた!ずいぶん音沙汰なくて心配した…。)
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> †К@oяц†
じゃぁKOTOKOんとこと一緒だね!
野球自体がなくなればいいのにって思うよ。
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一通りコメントに返事を済ませて、今度は新規記事作成の画面に移る。リサコは目にもとまらぬスピードで指を動かし、新しい日記を書いていく。
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2010.4.29 THE 14:18 KOTOKO
学校から抜け出してきたよ。
今日はとってもショックなことがあったんだ。
授業中、鳥が飛んでたから見てたんだけど、
なんとその子が急に窓に激突してきて死んでしまったの。
あまりにショックで、かわいそうで悲しくて、
KOTOKOは学校を早退しちゃった。
もう勉強とかしてる気分じゃないし。
さぞかし痛かっただろうなと思って。
体を打たれる痛さはあたしよく知ってる。
今夜は鳥の夢を見ちゃいそう。
とか言って、あたし、だいたいこういう時
変な小さい牢獄みたいな部屋に監禁されてる夢しかみないんだけどね。
コンクリートがむき出しの狭い部屋で薄暗いの。
ああ、あたしって不自由なの。
囚われているの。
鳥みたいに自由になりたかったのに。
鳥は死んでしまった。
自由になるには死ぬしかないのしら。
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うん、このくらい変えてあれば、クラスの誰かに見られてもわからないだろう。リサコはもう一度記事を読み返すと投稿ボタンを押した。見えない電波に乗って、リサコの言葉が飛んで行った。
記事が投稿されたのを見届けると、リサコはパタっと携帯電話を閉じて目も閉じ、記憶の中からヒバリの感覚を捜し出して蘇らせた。
空を自由に飛んでいるあの感覚。お嫁さんが大好きだったあの子。そして無力に地面へ落ちて行ったあの子。かわいそうなヒバリ。死んでしまった。かわいそうなヒバリ。死んでしまった。涙がじんわり出てきた。ヒバリが死んでしまって悲しい。
リサコはハラハラと涙を流して泣き出した。ポロポロハタハタ涙は次々流れてきた。そうやって死を悼んで泣いているのがある種の快感に変わってきた。
ああ、わたしって狂ってる。最低な人間だ。
リサコは急に自分に対して嫌悪感が湧いてきて幸せな気持ちは終わりを告げた。むっつりした顔で彼女は自転車にまたがると地獄の我が家へ向かってペダルをこぎ始めた。
いつもなら商店街を抜けて家に帰るのだが、今日は変な時間なので誰かに目撃されるのを避けなければいけなかった。学校を早退したことが父親の耳に入ったら大変だ。夕食の食材を買いたいところだが、今日はあるもので何とかしないといけない。ちょっと回り道をして普段は通らない路地に入った。
小さな踏切がカンカンカンカンと音を鳴らして電車がくることを猛烈にアピールしていた。見知らぬおばさんが一人、電車が通り過ぎるのを待っていた。リサコはなるべく気配を消しておばさんの横についた。
カンカンカンカン…。
(ぺんぺん草!!!!!)
え?
突如に何の脈略もなく、場違いな言葉が聞こえてきた。
(ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!)
隣で電車を待っているおばさんをちらっと見てみたが、何食わぬ顔で立っているで、このおばさんにはこの声は聞こえていない様子だった。無論おばさんが言葉を発しているわけでもない。
(ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!)
おかしな声はひっきりなしに聞こえてきた。声はどうやらリサコの頭の中で鳴っているらしかった。
何これ?(ぺんぺん草)何なの(ぺんぺん草)これ??
リサコは必死に頭の声を黙らせようとしたが無理だった。急行列車が目の前をバーーァンっと通過した。空気の圧力が襲ってきて自転車がぐらついた。
「ぺんぺん草…」
思わずリサコは声に出して言ってしまった。おばさんが不審な目で彼女を見た。
やばい(ぺんぺん草)何これ?(ぺんぺん草)たすけて!!!
電車が通り過ぎて(ぺんぺん草)踏切が開いた(ぺんぺん草)。リサコは必死に(ぺんぺん草)平常を装いながら(ぺんぺん草)渡る。
(ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!ぺんぺん草!)
「分かったから!ぺんぺん草!何なの!?」
向こうから来た配達のおじさんがリサコに注目する。リサコは必死にペダルをこいでその場から逃げ出す。通りすがりの人達が自分に注目しているような感覚が襲ってくる。そして鳴り止まない頭の中の声。
ぺんぺん草!
ぺんぺん草!
世界中の人々がテレパシーでこの言葉を自分めがけて飛ばしてきている!そんなとんでもない妄想がリサコの心を満たした。
ぺんぺん草!
ぺんぺん草!
ぺんぺん草!
ぺんぺん草!
ぺんぺん草!
「やめて!やめてぇぇぇ!」
リサコは叫びながら自転車をこいだ。無我夢中で自転車をこいだ。何とか家の前までたどり着くと、『ぺんぺん草』の大合唱は頭の中からすーっと消えていった。
いったい自分はどうなってしまったんだろう。何かの発作?次にまたあんなのが来たら耐えられる自信がない。いっそのこと狂気に身を委ねてしまった方が楽になったりして…。
リサコはぐったりしながら玄関のドアをあけた。静まり返った家の中に足を踏み入れて、リサコは何か不自然さを感じた。
何かおかしい…。何?
足元を見ると、幡多蔵の大きな革靴が脱ぎ捨ててあった。
父さん?帰って来てる?
体中の血液が地面に吸い込まれたようにぞっとした。
こんな時間に?
あわてて脱いだように転がっている靴がとにかく異様だった。几帳面な幡多蔵がこんな靴の脱ぎ方をしたなんて今まであっただろうか?何となく音を立ててはいけない気がして、そっとカバンをおろした。心臓がドク、ドクとやたらと大きくなりだした。
何かの勘違いだ。こんな時間に父さんが帰ってきてるわけない。きっと今日は違う靴をはいて行ったんだ。で、朝わたしがあわててこっちの靴を蹴飛ばして出てきちゃったんだ。ああ、よかった、父さんの靴をこんなにしたのがばれたら殺されるところだった。
そんなわけない、と分かっていながらリサコは自分の立てた平和な仮説にしがみついた。靴箱をあけて他の靴を確認すれば、すぐ分かるのに、それはしなかった。なぜなら答をもう知っているからだ。
そっと家に上がって、まずはリビングを見てみる。電気はついていない。リサコが今朝出て行ったままだ。
そうよね。
すーっと食卓に手を滑らせて、ぎくりと止まる。
これ何??
リサコは目に入ったものを恐る恐る拾い上げる。小さな緑色の三角のもの。
…ぺんぺん草…?
それは紛れもなくぺんぺん草の三角の葉っぱだった。そう認識した途端、天井からギシっと音がした。リサコはぎょっとしてそちらを見た。ちょうどその真上にはリサコの部屋がある。
誰かいるの?
リサコはゆっくりと階段へ向かい、一段ずつ耳を澄ませながら二階へと上っていった。リサコの部屋のドアは少しだけ開いていた。ギシっとまた音がした。
あの音。椅子がきしむ音だ。
父さんは、わたしの机の前で椅子に座っている。椅子に座って何をしているの?
「父さん?」
リサコは思い切って自分の部屋に向かって声をかけた。返事はない。そのかわり、再びギシっと音がした。
リサコは恐る恐るドア押し開けた。
目の前にはリサコが想像した通りの姿で、幡多蔵がパソコンに向かっていた。
(やっぱり!見つかったんだ!KOTOKOのブログが!)
幡多蔵がゆっくりとこちらを見た。悲しそうな顔をしていた。彼は無言で立ち上がり、こちらへ歩いてきた。そしてリサコがよけるヒマもなく、おもいきり彼女を突き飛ばした。リサコは後ろに吹っ飛んで壁に頭をぶつけた。
「おまえ今日は学校をサボったんだな?」
恐ろしいほど冷静な声だ。
(え?そこ?まずそこなの?)
リサコは動転して尻餅をついたまま後ずさった。すぐさま幡多蔵は彼女の胸ぐらをつかんで立たせると、今度は彼女の頬を力いっぱい殴りつけてきた。目の前に火花が散った。アザが目立つのを懸念して今まで顔には滅多に手をつけなかった幡多蔵だが、今日は容赦なく行くことに決めたようだ。
「お前はまじめに勉強してると思っていたのに。」
ドス。
横腹に蹴りが入る。リサコは体を守るために丸くなった。
「それになんだあのブログは。」
ドス。
再びわき腹。チラっと幡多蔵の方を見ると、真顔であらぬ方を見ている。恐ろしくなってリサコは頭をかかえてぎゅっと目を閉じた。
「今日、言われたんだよ。キタヤマに。これオタクの娘さんじゃないですか?って」
(キタヤマ?誰?)
「そこで違うって言えばよかったんだがな。父さんショックで黙ってしまったよ。そしたらキタヤマの野郎、あ、やっぱりそうでしたか、ってニヤケた顔しやがってっ!くそっ」
幡多蔵はもう一度リサコの胸ぐらをつかむと、頬を殴りつけた。
「お前のせいで、父さんはおしまいだ!もう何もかもおしまいだ!」
父親は叫びながら娘を殴り続けた。
(殺される!)
幡多蔵の異様なテンション。今まで散々殴られてきたリサコだったが、本気で命の危険を感じたのはこの時が初めてだった。幡多蔵はリサコの生涯に終止符を打とうとしているようだ。リサコはやっとの思いで手足を動かし幡多蔵の攻撃から逃れようともがいた。
「まったく、お前ってやつは、大人しくしてると思ったらこんな形で父さんを裏切りやがって!」
四つんばいでもがいているリサコの腰に、容赦なく何度も蹴りが入れられる。
「母親も母親なら娘も同じだな!」
もう一発蹴り。
「やめてよ父さん。お願い。」やっとリサコは声を発すると、幡多蔵を見上げて何とか親子の情を蘇らせようと試みた。
幡多蔵はリサコの方を向いてはいたが、どこを見ているかわからない目をしていた。彼はゆっくりと腕を伸ばすと、リサコの首に手をかけた。そしてジワジワと締め上げてきた。
「父さんはな、悲しいんだ。」
リサコはありったけの力を使って抵抗した。それでも幡多蔵の手はまるで万力のようにがっちり彼女の首を挟みこんでびくともしなかった。幡多蔵は暴れる娘の首をぐいぐい絞めながら、眉間にシワを寄せて自分も息を止めている様子だった。
「もう何もかも終わりだ。終わりにしよう。」
ヤダヤダヤダ!
リサコはもがきながら幡多蔵の顔を見返した。
そして、彼の唇の端に緑のものがついてるのが見えた。リサコは自分の状況を一瞬忘れて、その緑のものに見入った。
(何?あれ?………まさか?!……ぺんぺん草…?父さん、ぺんぺん草を食べたの?何で…?)
「う、うぐう…ぺ…ン…」
リサコが喋ろうとするので、幡多蔵の両手にいっそう力が入った。
グイグイ グイグイ グイグイ…
とうやら幡多蔵は、首を締めるのが下手くそなようで、なかなかリサコの息の根は止まりそうもなかった。首筋を通る動脈を締めれば一発なのだろうが、それを知らないのだろうか?もしくは、幡多蔵の深層部分に残っている父性が止めを刺すことを躊躇わせているのか。
リサコは体中の力を振り絞って、幡多蔵の股間を蹴り上げた。リサコのキックは見事に命中し、ギャっと変な声を出すと彼はその場にうずくまった。
解放されたリサコはすぐさま逃げようとしたが、腰が抜けていて立ち上がれなかった。ずるずる這って階段へ向かう。
幡多蔵がゆっくりと顔を上げた。つるーっと口の端から緑色のヨダレが垂れて出た。ふわーっと生臭いにおいがした。
「父さんは…な…、かな…し…」
ごぼごぼっと幡多蔵の声が濁ったかと思うと、ダラダラと緑の唾液が唇の端から垂れ落ちて、とんでもない悪臭が漂って来た。リサコは驚いて固まってしまった。殺される恐怖心が吹っ飛び、代わりに人生で一番強烈な困惑が彼女を支配した。
幡多蔵は、よいこらしょと立ちあると、腕を前に突き出して、ゾンビみたいにこちらへヨタヨタと歩きだした。まるで三流ホラー映画のエキストラ並のぎこちなさだ。その動きが普段の幡多蔵とかけ離れていて、すこぶる不気味に見えた。
「父さんは…な…、かな…し…」
ワイシャツのあちこちにも緑のシミができ始めていた。どうやら体中からあの変な緑のドロドロが出ているようだ。みるみる幡多蔵の皮膚は、体から染み出す緑のドロドロで覆われてヌルヌルのテラテラになってきた。
臭い緑のドロドロは、床にも流れ出して彼の足元に溜まりだした。幡多蔵は壊れたオモチャの様に足を動かして前に進もうとするが、滑ってなかなかうまくいかない様子だった。ネチャネチャと幡多蔵の足が緑のドロドロを踏んづけている。
その様子を見ていたら吐き気がしてきた。もう何が何だかわからない。
力のない嗚咽と悲鳴がリサコの口から漏れ出て消えた。リサコは泣きながら必死で階段へ向かい、そしてそのまま下まで転げ落ちた。落ちながらリサコは、これはまるで時代劇の階段落ちみたいだわ、と人ごとのように考えていた。
あちこち打ち付けて傷だらけになったが、それにリサコが気がつくのはだいぶ後になってから。アドレナリンが一気に放出し、痛みは全く感じない身体になっていた。彼女はバネのように跳ね上がって身体を起こすと、階段の上の幡多蔵を見上げた。
幡多蔵は棒立ちになってリサコを見下ろしていた。緑の液体で体中がヌルヌルになっている。顔や腕から、ぼたぼたと緑が滴っていた。とても苦しそうだ。
さっきまで自分を殺そうとしていた父が今度は死にかけている!
…助けなくては!父さんは何か毒を食べてしまって中毒を起こしてるんだ!あれは≪てんかん≫の症状の一種かもしれないし。
リサコは階段を駆け上がり、父親にすがりつこうとしたが、あまりの異臭に一歩手前で立ち止まった。
「父さん!!大丈夫?何を食べたの??きゅ、救急車を呼ぶよ?」
幡多蔵はゆっくりと目線を動かしてリサコの方を見た。そして腕を伸ばすと、リサコの肩を掴み、彼女の身体を自分から離した。
幡多蔵から流れている緑の液体がリサコの左手の甲にバタっと垂れた。
焼けるような激痛!リサコは悲鳴を上げた。
目の前の幡多蔵の顔が見る見る変形して異様な形相となった。緑の液体にまみれてドロドロに溶けている。バタバタと緑の液体がふってきた。それが制服について生地を焦がした。
痛ーーーーっつ!!!!
くっさーーーーー!!!!
幡多蔵の腕がリサコを押して、彼女は再び下まで階段を転げ落ちた。リサコの耳に聞こえない声が聞こえた。
(逃げろ!リサコ、逃げるんだ!)
リサコにはそれが父親の声のように思えた。父さんが最後に親子の愛を取り戻してリサコを助けようとしてる?
父さんを助けなくちゃ!
(違う、リサコ、アイツはもう溶解中だ。とにかく逃げるんだ!)
え?違う?父さんの声じゃない??じゃあなに?
(いいから逃げろ!)
謎の声は激しくリサコをせきたてた。父親、いや、元父親だった緑の塊はジュウジュウと音をたて異臭を放ち、この世のものとは思えないぐぉおおぉおおという声を発していた。ネトネトグラグラ揺れていて今にも階段から転げ落ちそうだ。
リサコは意を決して、玄関のカバンを拾い上げると勢いよく家を飛び出した。背後では幡多蔵の断末魔がまだ響いていた。
父親の断末魔を背に、リサコは闇雲に走った。やがてどこかの公園にたどりついたので、鼻血で血まみれの顔を洗った。制服にも血がついていたが、生地の色が濃いので幸にも目立たずに済んだ。幡多蔵の体から出てきた緑色のドロドロがついた左手の甲は痛すぎてうまく洗えなかった。
父さん、何でぺんぺん草なんか食べたのよ。
嗚咽が漏れるが不思議と涙は出てこなかった。ショックすぎて水分がなくなってしまったのだろうか。
泣いているのか笑っているのか自分でもわからないままリサコはフラフラと光の多い方へ多い方へと足を運んでいった。いつのまにか辺りは夕暮れを通り越して夜の闇が広がり始めていた。
気が付くと隣町の繁華街に来ていた。そこにはいつもの日常がある。ぼろぼろのリサコを見て眉をひそめる人はいるけれど、話しかけてくる人はいなかった。
これがいつもの東京だ。リサコは呆然と手についた緑の跡を眺めた。皮膚が抉られて肉が見えて気持ち悪い色になっている。傷の周りには火傷したみたいな水ぶくれが複数できていた。
傷を見ていたら幡多蔵の姿を思い出した。緑のドロドロを吹き出して階段の上に立っていた幡多蔵。
なぜだか笑がこみあげてきてどうしようもなくなった。
クッククック…。
自分が発した声があまりに異常だったので、慌てて口を押さえた。
やばい、わたし、発狂寸前だ。
せわしくなく眼球を左右に動かして、休憩できそうな場所を探した。とにかく落ち着かないと。ああダメ、今にも奇声をあげて走り出しちゃいそう。さわ~と脳みそが冷たくなって、視界がどんどん白くなってきた。
ダメダメ!いま倒れたら絶対ダメ!
必死で正気にしがみつくリサコの目に、ど派手な看板が飛び込んてきた。
「二十四時間営業 インターネット カフェ」
ここだ!ここしかない!リサコは言うことを聞かない脚を叱咤しつつネットカフェへと入った。受付の店員が顔も上げずに無表情で彼女を出迎える。
適当に利用時間を書いて受付を済ませ、席番号の札をうけとると、まずはセルフサービスのドリンクのところへ行った。
暖かい飲み物から冷たいジュースまで何でも揃っていた。リサコはホットコーヒーをカップに注ぐと、ふらふら危なっかしい足取りで自分にあてがわれた席へ向かった。
全部の席がパーテーションとカーテンで区切られているタイプの店だ。薄暗さがちょうどよい。助かった。
彼女の席はF9だ。自分の席に潜り込むと、持ち込んだコーヒーをすすった。何とか落ち着いてきた。
目の前にパソコンの画面が光っている。その光がやたらとまぶしく思えた。リサコはパソコンをシャットダウンして机にうつぶせた。
これからどうしたらいのか、さっぱりわからなかった。この衝撃的な展開をリサコはどうしても理解できなかった。幡多蔵は死んでしまったのだろうか?…警察に行くべき?父さんは誰かに殺された?
ダメダメ、あまりに状況が狂っている。父がぺんぺん草を食べて、緑のドロドロを吐いて死にました?元万引き少女がこんな話をしたら変な薬でもやっているんじゃないかって疑われてお終いだ。挙句には殺人犯にされてしまうかもしれない。
ダメだダメだ、警察はダメだ。
じゃあ、親戚は?
…ダメ、父さんのことを説明できない。
こういう時に頼れる友達もいない。
先生たちは問題外。どうしたらいいの?
リサコは静かに泣き始めた。
父さん、わたしどうしたらいい?
なんであんなことになったの?
本当に死んじゃったの?
父親に対してこんな感情が出てくるとは自分でも驚きだった。リサコは自分たち不幸な親子を思って泣いた。誰か助けてくれる人を探さないと。
この際、ブログにコメントしてくるあの小うるさいおばさんが言っていた児童なんちゃらっていうとこでもいい、助けてくれるなら。リサコはおばさんに連絡を取ろうと携帯からブログにアクセスした。
新着コメントあり、のサインが点滅している。無意識にリサコはそのコメントを見に行く。公園でポストした日記に二件、コメントがついていた。
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2010.4.29 THE 14:18 KOTOKO
学校から抜け出してきたよ。
今日はとってもショックなことがあったんだ。
授業中、鳥が飛んでたから見てたんだけど、
なんとその子が急に窓に激突してきて死んでしまったの。
あまりにショックで、かわいそうで悲しくて、
KOTOKOは学校を早退しちゃった。
もう勉強とかしてる気分じゃないし。
さぞかし痛かっただろうなと思って。
体を打たれる痛さはあたしよく知ってる。
今夜は鳥の夢を見ちゃいそう。
とか言って、あたし、だいたいこういう時
変な小さい牢獄みたいな部屋に監禁されてる夢しかみないんだけどね。
コンクリートがむき出しの狭い部屋で薄暗いの。
ああ、あたしって不自由なの。
囚われているの。
鳥みたいに自由になりたかったのに。
鳥は死んでしまった。
自由になるには死ぬしかないのしら。
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コメント1
Miho 2010.04.29 THE 16:10
涅ヨ槃ク寂ト静
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コメント2
R 2010.04.29 THE 16:43
そのドアを開けて外に出ること。
ドアは簡単に開けられる。
階段があるので上ること。
他の部屋は絶対に開けない。
突き当たりのドアから外に出られる。
芝生にずっと同じ建物が並んでいるのでまっすぐ進む。
他の建物に入ってはいけない。
突き当たりにちょっと違う建物があるのでそこには入らずに右に曲がる。
またしばらくまっすぐ行くと左側に生け垣がある。
その合間に道があるので入る。
道は隠れているので注意すること。
生け垣の間の道を進むと小さな小屋がある。
そこに入る。
あとはそこにいる人がなんとかしてくれる。
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なにこれ?ひとつめのコメントは文字化けしている。涅ヨ槃ク寂ト静?これはなんと書いたつもりだったんだろう?Miho?知らない人だ。
で、肝心の次のコメント。何度も何度も読み返した。心臓がバクバク鳴り始めた。しばし自分の置かれている状況を忘れて、頭の中がこのコメントでいっぱいになった。
どういうこと?夢のこと?夢のこと言ってるの?Rて誰?
投稿者の名前がリンクになっていてメールを送れることを示していた。ここからメールをするとブログのシステムを介してのやりとりになるのでお互いのアドレスを知られずにメールができる。
Rにメールしてみようか。今はこんないたずらかもしれない書き込みにかまってられる状況ではないのだか、気になってしょうがなかった。リサコのアンテナがビンビン反応している。
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ブログのコメント、今見ました。KOTOKOです。あなたは誰?あのコメントは何ですか?
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メールを送った。意外にもすぐ返事がきた。
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