一、救済 (2)

 リサコの家は街の反対側、学校から住宅地を通って商店街を抜け、線路を渡った向こうにある。自転車で十五分、急げば十分で帰れる。さっさと帰って寝てしまおう。そして父さんが帰るまでに何とかいつも通りに戻っていないと。


 そう考えながらも、リサコは全く別の方向に自転車を走らせていた。学校の近所の公園へ。お気に入りの公園。無意識に彼女の心は身体をそこへと向かわせていた。


 公園に到着してから初めて、あ、公園に来ちゃったと我に返った。まあ、いいや、公園でゆっくりヒバリのことを考えてブログに書こう。父さんが帰るまでに戻ればいいんだし。きっとみんなヒバリの死を悼んで悲しんでくれるはず。薄暗い自分の部屋は死と向き合うには空気が重たすぎるもの。さわやかな風香る春の公園で受け止めた方がいい。


 リサコは勝手にヒバリの死を美化して悲嘆に暮れる快楽に浸ろうと心に決めた。


 彼女は真っ先に滑り台へと向かった。巻貝のような形をしたピンクの巨大な滑り台。身を隠す場所がたくさんある。そしてコンクリートの冷たさがリサコのよく見る夢の世界を彷彿とさせて、なんだか安心する場所。


 ここなら安全だ。家よりよっぽど安全だ。


 リサコは自転車ごと滑り台の影へと入り込んで、いつもの特等席にうずくまった。


 ザワザワザワ…。木々のざわめきが静けさをより引き立てる。この世にはわたし一人。ピンクの巻貝に入り込むと、そんな気持ちすらしてくる。ポケットから携帯電話を取り出すと、リサコは自分のブログを開いた。


 彼女のハンドルネームはKOTOKO。ここには全く別の世界がある。


 さて、ブログの文章を考えている彼女の精神から離脱して、彼女自身のことを少し語りたいと思う。私が誰かって?まあそれは後で出てくるから待っていてほしい。


 彼女の名前は山本 理沙子。十六歳の高校二年生。都内の公立高校に通っている。学校の成績はそんなによくないが頭が悪いわけじゃない。父と娘の二人暮らし。彼氏はいない。というか、仲のいい友達もいない。


 という設定。


 彼女には秘密がある。先生にも友達にも誰にも言えない秘密。その光景をすこし見てみよう。時間をすこし遡って、昨日の夜、そう、彼女の父親が会社から帰ってくるシーンだ。


・・・・・


 ドアの音がした。リサコの父親、山本 幡多蔵(はたぞう)が帰ってきた。きっかり時間どおり。リサコは、さっとキッチン横のリモコンを見て風呂の温度を確認する。


 四十度。よし、ちゃんとお風呂はできている。


 幡多蔵は、リビングに入ってくると、ドサっとカバンを置き、上着を脱いで風呂の方へと姿を消した。


 これもお決まりのコース。


 幡多蔵は帰ってきてまず風呂に入る。それからご飯だ。リサコは幡多蔵の上着とカバンを取ると、所定の場所へと片付けた。そして味噌汁に火をつけて、作っておいた夕飯を並べる。幡多蔵が風呂から上がったらすぐに夕食を始められるようにしないといけない。今日は野球の試合があるから、ビールも必需品。


 冷えたビールを出して、テレビをつけたところで幡多蔵が戻ってきた。リビングの様子を見回しながら席につく。テレビが野球の試合を伝えている。まだ0対0。幡多蔵はそれを横目で見ながらビールをぐびぐび飲む。画面に釘付けになりながら夕食を食べる。リサコの方には一度も顔を向けない。その方がありがたい。


 リサコはゆっくりご飯を食べる。ただひたすら父親が応援しているチームが勝つことを祈りながら味のしないご飯を噛んで飲みこむ。


 噛んで飲みこむ。噛んで飲みこむ。噛んで飲みこむ。


 ところがその日、リサコの祈りも空しく、幡多蔵が応援している野球チームはボロ負けした。リサコはがっかりして負けた野球チームを呪った。


 なんてことしてくれたのよ。


 試合が終わると、幡多蔵は持っていたお茶碗とビール缶を壁に投げつけた。お茶碗は見事に砕け散った。


 「何ぼさっと見ているんだ、早く拾え」


 リサコは粉々のお茶碗を拾った。拾っている間に蹴りが飛んできてしこたま腰を打ちつけた。リサコは歯を食いしばって耐え、お茶碗を拾った。


 「何故今日あの糞チームが負けたと思う?」リサコは黙っている。「お前がそうやってモタモタしているからだよ!」怒鳴りながら娘の髪をつかむと、そのまま床に投げ飛ばした。せっかく拾ったお茶碗がまた散らばった。


 リサコは無言でまたそのかけらを拾う。

 「なんだお前?一生そうやって黙ってゴミ拾いでもするつもりか?」

 今度はおかずの皿が飛んできた。ガッシャーンと派手な音をたてて皿が割れた。


 皿が割れるたびにリサコはこっそり不思議の国のアリスに出てくるシーンを思い出すことにしている。魚の従卒とカエルの従卒のくだりだ。アリスがカエルの従卒の家に入ると料理女が皿を投げて次々とぶっ壊していく。


 ガッシャーン、ガッシャーン、お皿が飛んで割れて、そして赤ちゃんがブタになっちゃう。そうやって妄想していれば、こんな場面もシュールな夢のひとコマに感じられる。


 ああ、大変大変、赤ちゃんがブタになっちゃうわ。


 娘は皿を拾い、父親は皿を投げて割って娘に拾わせて、拾わせては娘を殴って蹴った。馴れたもので、リサコは割れた食器で怪我をすることはめったになかった。幡多蔵は不器用なので時々指や足の裏を切ることがあった。


 可愛そうなので、暴力シーンを回想するのはこれくらいにしてあげよう。ご覧のとおり、リサコは猛獣と共に暮らしている。これが彼女の秘密。虐待されているのだ。


 リサコは元々こんな家庭に生まれ育つ予定ではなかったのだが、全ては三年前のあの日、あの日を境に彼女の人生は方向を見失って狂ってしまった。その日のことをリサコは一生忘れない。


 何もかもが平穏だったはずあの日、友達と寄り道してたくさんお喋りして幸せいっぱいに帰宅したリサコを待っていたのは、薄暗いリビングと机の上に置かれた一枚の紙切れだった。


 「妻と母を演じることに疲れました。」


 リサコの母親は寝室で首を吊って死んでいた。母親の遺体を発見したリサコは救急車を呼び、警察の質問にもきちんと答えていたようだが、本人にはその数時間の記憶は全く残っていなかった。


 首つりの光景、そして死に化粧をして横たわる母親。そこだけが強烈に脳裏に焼き付いて、ことあるごとにフラッシュバックするのであった。


 やり場のない悲しみはじっくりと時間をかけて父と娘を蝕んでいった。それまでは子育てに無関心だった幡多蔵は、妻の自殺を境に、娘に暴力を振るうようになった。だんだんと母親とそっくりになっていく娘を痛めつけることによって、彼の中で何かのつじつま合わせが行われているようだった。


 いつしか朝も夜も、家にいる間は容赦なく父親の罵声と暴力がリサコに降り注ぐようになった。こうして幡多蔵は妻の自殺という堪え難い現実から目をそむけ、なんとか社会の中に踏みとどまろうとしていたのだ。


 「父さんだってつらいんだ。」


 これは幡多蔵の口癖である。加害者が被害者のつもりになってしまう典型的な例だ。


 父さんだってつらいんだ。しょうがない。しょうがない。


 ひどい言葉だと思わないか?自分の娘を痛めつけておいてその責任を別のところに押し付けている。だけど、リサコは完全にこのセリフにだまされてしまっていた。


 父さんが何故お前の顔を殴らないか知っているか、我々の生活を守るためだよ。


 卑怯な男の卑怯な言い訳もリサコは納得して受け入れようとしていた。父親は悪魔だ。だけど仕方がないんだ。しょうがないんだ。リサコは父親を恐れ憎んでいながら、心のどこかで同情もしていた。


 母さん、なんでリサコをこんな世界に置き去りにして行ったのよ!


 この三年間、リサコはひたすら物言わぬ母親と自分に向かって問い続けていた。


 いったい私の何がいけなかったの?原因は何だったの?娘を置き去りにして死を選ぶほどの辛いことって何?私の存在が母さんを殺してしまったの?


 リサコは母親の遺書にあった「母を演じることに疲れました。」という言葉に取り憑かれていた。


 私は母の人生において、ただのお荷物だったのだろうか…。


 それはこの世で最も恐ろしい考えだった。リサコはどうしようもなく深く深く傷つき、そして心を閉ざした。


 例の夢を頻繁に見るようになったのもこのころからだ。コンクリートの冷たい床と錆びた扉の。


 学校の成績はみるみる落ちて行き、ぼーっとしている時間が増えた。かろうじて高校には進学できたが彼女に勉強しようという気持ちは全くなかった。ただ家にいたくないという一心で学校へ通い、友達は一人も作らなかった。


 中学生のころの友達が時々接触してきたが、リサコはそれらの関わりも断ち切ってしまった。同世代のまわりの人間たちがまるで別次元に暮らす生き物に思えて、とてもじゃないけど一緒に楽しむことができなかったのだ。


 この世界には父と娘だけ。痛みを分かち合えるのはこの二人だけ。リサコはそう信じようとしていたのかもしれない。


 彼女の精神はギリギリの状態だった。ちょっとしたことでネガティブな方向に心情が動き、常に足元はゆらいでいた。まるで両端が断崖絶壁の細い道を渡っているようで、気が緩むとすぐに崖の下へと転落しそうになるのであった。


 性質が悪いことに、彼女は自分が望まないことをやって快感を得ようとする問題も抱えていた。リサコは誘惑と戦い続けて、そして大概負けた。万引きはしょっちゅうで、見覚えのない商品がカバンに入っていることもよくあった。


 幡多蔵に半殺しにされるとわかっていながら、夜遊びもやめられなかった。数週間に一度、何の前触れもなく、夜遊びに出かけたくなる衝動はやってくるのであった。


 とは言うものの、リサコには友達がいないので、彼女の夜遊びとは、酔っ払ってゲームセンターをうろつき、声をかけてくる輩に誰彼かまわずついて行くという危険な遊びだった。見知らぬ男と一夜を共にすることで自分が必要とされているという錯覚を楽しむためであった。


 当然ながら本当のリサコは全くそんなことは望んではおらず、暴走の後には決まって堪え難い自己嫌悪に苛まれた。だから帰宅後に待っている幡多蔵の制裁も彼女は黙って受け入れた。それだけでは足りず、彼女の後悔は手首の傷となって現われることもしばしばあった。


 このままでは、父親に殺されるか、母親のように自分で自分を殺してしまうか、いずれかの結末が待っているであろう。リサコはたいへん恐れていた。私はこんな人生のために生まれてきてこのまま死ぬのだろうか。


 いや、絶対にこの地獄のような世界から抜け出す術があるはずだ。リサコは心の奥底ではそう考えていたが現実が全く追いついてこなかった。彼女は彼女自身の不本意な行動によって、どんどん悪い方へと転がり落ちて、それを食い止めることができなかった。


 どうにかして自分をコントロールするすべを見つけなければと彼女は焦っていた。幡多蔵が暴力に走ったのと同じように、彼女も自分を保つための何かを欲していた。せめて夜遊びの代わりになるような何か。


 …ブログとか、やってみようかな。


 ひどい倦怠感に襲われて学校を休んだある日の午後、彼女はふと思いついた。今から1年ほど前のことだ。それはお告げのように、本能的に彼女の内側から導き出されたアイディアだった。共有と共感。それこそが彼女に最も必要なものだったのだ。


 思いついたら即行動するのがリサコの長所であり短所である。たしか押入れの奥にノートパソコンがあったはず。リサコは長い間あいだ封印されていたパソコンを取り出して自分の部屋へと持ち込んだ。買ったはいいけど誰も使わなかったパソコン。もしかしたらリサコが必要になる日のためにここで待っていたのかもしれない。


 自分の机にパソコンを置き、モニターを開いた。それと同時にリサコには新しい扉が開く音が聞こえたような気がした。


 パソコンを起動すると、リサコはブログサービスのサイトを見てまわった。ブログはなかなかよさそうに見えた。こんなにたくさんの人がやっているなら、誰かを特定するなんてできないかも。すっかり乗り気になって、昔読んだ漫画から「KOTOKO」という名前をもらって、デタラメのプロフィールを作り上げた。


 面倒なことになったら消せばいいんだし。


 KOTOKO

 性別 女

 誕生日 四月一日

 血液型 A

 年齢 非公開


 ブログのデザインは暗い感じのものにした。これで虐待とかリストカットのブログなんて書いたら、すごくイタイ感じになりそう。でもそういうのがやりたい。ドロドロのグチャグチャなブログをやってやるんだ。


 登録ボタンを押すと、KOTOKOのプロフィールが完成した。他人になったような感覚。嬉しかった。KOTOKOになったリサコは新規記事作成のリンクを震える指でクリックした。


 入力フォームが表示された。書き込みを促すように点滅するカーソル。絵文字が使えるボタン。写真を入れられるボタン。これを、全部自由に使えるんだ、わたし。


 リサコは書き始めた。


 父親に何をされているのか、自分がどんな最低なことをやっているのか。当事者が読んでもわからないように、状況や場面にある程度湾曲を加えつつも概ね事実を書いた。文章は後から後からどんどん出てきた。取り憑かれたように指を動かして文章を打った。そしてそのうち尋常でない高揚感が襲ってきて、彼女は平常心を失った。


 ああ、わたし、書いちゃってる!

 書いて書いて書きまくった。


 KOTOKOの初投稿記事は常識としてありえないほどの超大作となった。それをリサコは一気に書き上げ、そして、アップした。数秒で記事は公開された。リサコは満足してパソコンを閉じると、気絶するように眠りに落ちた。


 翌朝、自分がどうなっていたのかあまり記憶になく、恐ろしくなってパソコンを開くことができなかった。


 数日たってようやく自分の記事をチェックすると、ぞっとするような恐ろしい内容の日記が綴られていた。書いているときの記憶があいまいで、まるで他人のことのように彼女には感じられた。


 わたし、こんなに書いちゃったんだ…。

 おえ、まるで海外の虐待レポートみたいじゃない。


 彼女の初めての記事には何のコメントもついてなかった。リサコはホッとして(本当はちょっとガッカリして)しばらく日記を続けてみようと決心した。


 それから定期的に彼女は日記を書くようになった。日記を続けていくうちに、毎日おびえて生きている自分を客観的に分析する自分が出現した。同時に万引きもなくなり、無駄遣いもなくなり、ラブホテルで我に返ることもなくなった。


 やがて、自分と同じように虐待に苦しんでいる人がいることも知り、時々コメントなどして交流を持つようになった。これは大きな変化だった。ブログのみの交流なので、向こうも本当かウソかはわからないけど、でもリサコは仲間ができたような気持ちがして、どんどんブログの世界にのめりこんでいった。


 ブログがないともう生きていけないかもしれない。そう思うようにもなった。彼女の唯一の命綱。それがブログだった。


 だいたいこれで彼女のことは分かってもらえただろうか。リサコは囚われの身だ。彼女をこの世界から救済しないといけない。なぜなら、ここは彼女がいるべき場所ではないからだ。どうかそれがうまく行くように見守っていてほしい。さて、そろそろ公園でブログを開いている彼女のところに戻らなければ。

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