2. 脱出

 《失われた旧世界》の遺跡を調査していた帝国アカデミー遺跡調査部隊所属マクレアン中隊第一調査小隊は、思わぬ場所から現れた少女に向かって銃を構えた。ずいはんしている軍用デュプラも命令待機状態となる。一般人が《失われた旧世界》の遺跡にいるはずはないのだ。ましてや、武器も持っていない少女となれば普通の人間ではない、と考えるのが常識だ。


 彼ら帝国軍の持っている銃は手でを握り、左手で銃身を支えるというものであるが、両手で使用する武器というのはこの荒廃しきった世界では極めてめずらしいものだ。そもそも、銃そのものがめずらしい武器であり、例え持っていたとしても片手で扱うような小さなものというのが当然の認識だった。そのため帝国外部の人間からは一般的に長銃と呼ばれている。


 正式名称は二十五式狙撃銃。この二十五式狙撃銃は、先にも述べた通りこの世界で一般的な銃である、片手で扱う単発式のものよりもはるかに高性能だった。射程は長く、殺傷能力も高い。そして何よりも、少しがあるとはいえ一応、連射できることが最大の特徴だ。使用している弾は通常弾で装弾数は15+1の計15発。欠点はその大きさゆえに取り回しが難しい点、弾を全て撃ちくすと、再そうてんに時間がかかるという点である。この世界の銃というものは例外なく、弾のそうてんはいちいち一発ずつ弾を込めていかなければならない。


「敵対対象を確認。すみやかに処理します」


 小隊長は少女のその言葉を聞いた瞬間、命令を下そうと声をあげる。

「撃っ…………」と、隊長の声がれた。

 いつの間にか隊長の横に少女イシュタルが来ており、彼女の高速りが脇腹を直撃した。それに反応して隊員たちがイシュタルに視線を向けようとするが、すでにその視線の先にはいない。

 イシュタルは兵士達が視線を移しているその間に、四体いるデュプラのうちの一体のあごり上げ、二体目のどうに右手突きをしていた。あごりを受けたデュプラのがく骨は粉砕されている。その強烈な衝撃が頭部への致命的な一撃であったのは確実だった。

 加えてたった今、右突きを受けているデュプラの胴体はイシュタルの右腕が見事に貫通していた。三体目と四体目はイシュタルの動きを本能でぎ取っていたのか、すみやかに応戦体勢をとっていた。しかし攻撃モーションに移行するまでの神経伝達は間に合わず、二体のデュプラはイシュタルの回しりと後転りにより戦闘不能におちいった。


 兵士達はデュプラを倒したイシュタルの姿を捉えると同時に、二十五式狙撃銃のいっせい射撃を行った。

 だが、イシュタルは飛来してくるその全ての弾丸の軌道と速度を正確に計算・予測した。弾道の予測がされているのだから、回避行動をとるために身体を動かすことはイシュタルにとってぞうもないことで、上半身をひねり、側転し、飛び上がり着地時に右回転。兵士達は自分達がもっている銃のそうだん数を完全に忘れていた。とにかく目の前のきょうを排除することが最優先であった。

 無我夢中で引き金を引かれ続けた銃は当然弾切れを起こす。それでも彼らは動かない二十五式狙撃銃の引き金を引き続けていた。0.3秒後、彼らは弾切れに気が付いたのだが、すでに手遅れだ。


 全ての弾を撃ち切ったその瞬間を狙いイシュタルは兵士達に驚異的な速さで近づいてき、そして強烈なこぶしりで次々と兵士をなぎ倒した。素早いしょう反応を引き起こす百式対戦闘生物砲を持っている兵士もその武器を生かすことはできず、あっけなくその場に崩れた。


「敵の全滅を確認。オールクリア」


 イシュタルが帝国軍と接敵して約一分後、マクレアン中隊第一調査小隊は全滅した。

 その光景を隠れていたセイルはイシュタルをやはり美しいと感じた。それがなぜなのかはわからない。普通ならその光景に恐怖を覚えるだろう。

 しかし、戦うイシュタルを化け物とも殺人鬼とも思わなかった。ただただ自分では不可能な、無駄のないあざやかな戦い方であったことにかれたのかもしれない。


 セイルは隠れていた扉のかげから出てイシュタルと合流する。


「……イシュタル、きみは一人で帝国を相手にできるんじゃないか?」

「それがセイルの望みなら」


 右手を振りながら、イシュタルがさきほどの言葉をみにしないように言葉を付け足した。


「いや。じょうだんだよ。イシュタルは大丈夫かもしれないけど、僕がやられるのは確実だ。それに、戦いよりものんびり暮らしたい」


 一刻も早くここから出て行きたいセイルは、腕に付けた《失われた旧世界》の端末を何とか使い、出口までの道順を検索する。


「こんなこともできるんだ。すごいな本当に。よし、道はわかった。早くここから出よう」

「まだ近くに移動している生命反応があります。おそらく上の階層かと思われますが……」


 イシュタルがあくした生命体反応の情報はすぐにセイルの端末に反映される。

 反映された生命体の位置は大きい赤い点で示された。赤い点が動くのは対象が動いているということである。


「多分、ここに来るときに出会った大型の戦闘生物だ……そういえば、イシュタルはどうして敵の位置がわかるんだ?」

「私には外界のあらゆる情報を収集するセンサー、つまり受容器が多くあるんです」

「人間にはないもの?」セイルがセイルが尋ねた。

DoLLドールには人間と同じ機能のものもありますが、それらも含めて人間よりも高度なものになっています。特に赤外線や超音波などを利用した空間認識能力や、体表に存在する皮膚センサーによる空気せい・気流・湿温度の分析、足裏の微細動感知センサーなどが代表的なDoLLの機能ですね。それ以外にもありますけど」


「よくわからないけど、本当に人間ではないんだ」

 セイルはそう言った。



 ちょうどその頃、セイル達がいる遺跡の上、きょうこくの村フェゾンにフェベル大佐率いる帝国軍特別騎甲大隊が到着した。帽子を着用した上級指揮官らしい人物が現場の指揮官に敬礼する。


「本国、特別騎甲大隊のフェベル大佐だ」

「ハッ!お待ちしておりました、大佐。アカデミー極東方面軍第八遺跡調査大隊所属、第一中隊長のマクレアン少尉です」


 帝国は建国当時から圧倒的軍事力による領土拡張を行っていたのだが、領土が広大になるにつれて、治安維持の問題が現れた。占領地域当たりの治安維持要員の減少とそれにともなう治安要員の負担増加が目に見えるようになったのである。

 そのため各地で小規模ながらも帝国に対する抵抗運動が発生。帝国軍は抵抗運動鎮圧のためににち駆け回るが、ちんあつしても次から次へと発生するため根本的な解決にならなかった。また各部隊・各地域の基地の連絡網の機能が低下し、部隊出動のじんそくさが欠けていることや、野生戦闘生物が居住区に侵入することも深刻な問題であった。

 そこで、皇帝を頂点とする帝国軍最高司令部は、いまだかつてない強力でかつ戦闘生物を有した機動部隊の創設を決定した。それが特別騎甲大隊である。特別騎甲大隊の登場により、帝国領土内のほぼ全ての抵抗勢力は排除され、その強大な力による恐怖を各地に植え付けた。また、居住区付近の危険な野生戦闘生物はあらかた根絶され、帝国しんみんの安全確保にも成功した。このことをきっかけに、戦闘生物からの恐怖から抜けるため、帝国の支配下に進んで入る集落や地域が増加したのである。


 特別騎甲大隊の兵士全員は従来の戦闘服に比べ、機能性の高いものが支給されており、武器も二十五式狙撃銃ではなく、新たに開発された式連射小銃となっている。式連射小銃は非常に高い連射性を有し、銃自体が短くなったので近接戦闘も可能となった。また、最大の問題であった弾の再そうてんにかかる時間も、だんそうと呼ばれる弾のセットを事前に用意しておくことにより大幅に短縮された。装弾数は25+1発。


 それに加え、特別騎甲大隊は多くの戦闘生物を運用しているのが特徴だ。〈デュプラ・ハイア〉、〈ウォンクス〉、そして〈ヴェーガ〉。いずれの戦闘生物も人間が正面から戦って勝つのは難しいだろう。


 〈デュプラ・ハイア〉は帝国軍で広く利用されているデュプラの改良型である。弱点だった視力の向上だけでなく体力の向上にも成功した。


 〈ウォンクス〉は帝国占領地域の治安部隊が主に運用しているおおかみのような四足歩行戦闘生物である。非常にしゅんびんであるだけでなく、火薬や違法薬物を感じるほどの高度なきゅうかくをもつ。


 〈ヴェーガ〉は帝国が《失われた旧世界》の技術により生み出した新型戦闘生物であり、その全てが特別騎甲大隊に配備されている。最強の戦闘生物と言われ、非常に高い知能と驚異的な環境適応能力・再生能力をもつ。通常は翼を広げた飛竜であるが、地上索敵のために地上に下りることもある。この時、翼はれいに折りたたまれ、場合によってはとかげのような動きをすることもある。また、水中に潜ることもでき、苦手ではあるが水中でも戦闘が可能である。

 つまり、〈ヴェーガ〉は陸海空の全てに対応しているということになる。〈ヴェーガ〉は鋭い爪や歯、長い尾、口内からの強酸ふんしゃなど豊富な攻撃手段を持っており、また、首と尾には細かい毒霧ふんしゅつこうも存在する。ここからふんしゅつされる毒は神経毒で人間・戦闘生物(ヴェーガを除く)問わず、浴びてしまうと症状がただちに表れ、一定量を浴びると死にいたる。



「少尉、状況は?」大隊長であるフェベルが尋ねた。

「現在、第一から第四までの調査隊が遺跡内部に入り調査中です。しかし、遺跡内部には戦闘生物が多数確認されており、第二、第三小隊が壊滅したとの伝令が……」

「ふむ……やはり被害はじんだいだな」

「それと、この村に到着してもなく、少年一人が目撃されました。きょうこくの戦闘生物に襲われたと推測されますが、現在も行方を捜索中です(あれがヴェーガ……)」


 二人の後ろでは六体のヴェーガ達が翼を折りたたみ、お互いの顔を見合っていた。まるで、二人の会話を理解して、確認し合っているようだ。ヴェーガを初めて見たマクレアン少尉を含め、現場の兵士達はその姿に圧倒されている。なんというか、明らかに他の戦闘生物とは存在感が違うのだ。これほどまでに戦闘生物のりんかくを意識したことがあっただろうか。それを言葉に出そうとしても言葉にならない。


「その少年に関しては無視していいだろう。どうせ死んでいる。君の隊は入り口付近の警戒をしてくれ。私の隊も地上の警戒に当たらす」

「了解しました」

「第四歩兵中隊、マクレアン調査中隊とともに入り口ときょうこくを巡回しろ。目撃者がいたら射殺してよし」

「ハッ!」

「さて、行こうか」



 遺跡の中へ先に進入したヴェーガ六体は、三体ずつに分かれ各通路を低空飛行する。

 標的を見つけると三体が意志つうをはかり、効率良く攻撃を行っていった。小型の標的やきょうレベルの低い標的の場合は、単体で標的がちょうふくしないように対処していく。ヴェーガの長い尾は正確に心臓をつらぬき、鋭い爪がを切断した。一方、大型の標的やきょうレベルの高い標的の場合、三体が協調して対処した。

 ヴェーガが大体のきょうを排除した後、ウォンクスが遺跡内に放たれた。ウォンクスはヴェーガが仕留め損ねた標的や見逃した標的を探すのだ。ウォンクスが放たれた後、デュプラ・ハイアに騎乗した騎兵部隊と歩兵部隊が前進を始める。特別騎甲大隊による遺跡の掃討作戦が開始された。


「遺跡内全ての戦闘生物をせんめつし、調査隊の生き残りを救助する。遺跡は傷つけるなよ。まあ、傷つかないと思うが」

 フェベル大佐率いる特別騎甲大隊は、遺跡をくまなく探索しながら下層へと移動していく。当然、セイルとイシュタルがいる階層にもせまっていた。


「なんだ?」

 セイルは腕の端末に、大型戦闘生物以外の反応が六つ、上層から降りてきているのを確認した。移動速度が非常に速い。

「セイル、これらは飛行しています」

 イシュタルが新たに出現した生命反応について言った。

「飛行している?」

「間違いありません」


「「「ギイィィシャアアアアアアアアアアーーーー」」」


 数秒後、セイルが今までに聞いたことがない、恐るべき鳴き声が下層に響き渡った。


「これは……やばそうだな」



 下層に進んでいるヴェーガ達は、ごたえのありそうな標的を見つけてかくの声を張り上げた。


 その標的は右腕が盾のように肥大化しており、左腕には目玉があった。そう、セイルがイシュタルに出会う直前、遭遇した大型戦闘生物試作型デバスタ改だった。弱点となる背面はすでにがんじょうこうかくに覆われており、行動パターンも用心深くなっていた。

 動きのにぶい標的に対してヴェーガは最初、強酸を空から降り注いだ。ヴェーガの口内酸は、戦闘生物の特徴である再生能力に対して極めて有効で、再生しようと機能する細胞をいともたやすく溶かしていく。これは中和しない限り、身体の表面を焼いていき体内まで浸透していくものだ。最終的には穴が開くことになるだろう。


 ヴェーガ三体は、それぞれ別々に飛行することでこちらの動きを読まれないようにし、相手の動きを観察していた。試作型デバスタ改は跳躍や突進はできるが、ヴェーガほど素早い動きはできない。左腕の目が必死になって、三体のあとを追っている。そして空を飛んでいるヴェーガを落とすために消化液を上方にまき散らす。

 もちろんヴェーガ三体に襲われないように動きは止めなかった。試作型デバスタ改は飛んでいるヴェーガ一体に狙いを定め、ときおり跳躍し右腕の盾で襲いかかった。が、その攻撃をヴェーガはひらりさらりとかわしていった。そのやりとりが数回行われた。この結果からヴェーガ三体はこの戦闘生物試作型デバスタ改が飛行する相手に対し、有効な攻撃手段がないと判断した。


 ヴェーガ三体が相手を囲むよう位置を取り、毒霧を一瞬ふんしゅつした。試作型デバスタ改は反射的に身体を退しりぞけ、目を閉じた。その動きを予測していたヴェーガ三体が一気に、身体に張り付いた。そして大きく口を開け、口内酸を吐きながらデバスタ改にみ付く。続けて長い尾を突き刺しこうかくを砕いた。

 と、別のヴェーガ三体もこの場に到着した。先のヴェーガ三体を援護するのかと思いきや、三体はその場を無視して通り過ぎる。彼らの判断通り、試作型デバスタ改はその場に崩れた。もうデバスタ改に勝ち目はなかった。大型戦闘生物試作型デバスタ改を倒したヴェーガ三体は、後から来る帝国軍兵士のために、先ほどふんしゅつした毒霧を羽ばくことで換気していた。



「反応の一つが消失。六つのうち、三つの反応が接近中」


 セイルとイシュタルは上へ上がる部屋にいた。

 この部屋の行先が、セイルと試作型デバスタ改が戦った場所。そして、六つの反応がいる場所でもあった。

「大きい方がやられたってことか。倒したのは帝国軍の戦闘生物だろうな。まさか……」

 セイルはすでにそうてんされていた銃の弾を、さくれつ弾三発としょう弾二発、交互になるよう入れ直す。さくれつ弾で傷口を作り、傷口を発火させて傷の再生を妨げるという基本的な戦術だ。


「これは気休め程度だな」


 そう。しょせん気休めだ。本来、戦闘生物を倒すには多くの味方と銃火器が必要だ。それに先のデバスタとの戦闘でもそうだが、さくれつ弾で傷を付けられない戦闘生物も多い。今のさくれつ弾では火力不足だ。


「ここから外に出るには……」


 最短で遺跡から脱出できるルートを腕の端末に表示させた。

 部屋が止まり、通路を進む二人。その時、再びあのみょうな声が聞こえた。

「出た先の左側から来ます」

 敵の接近をイシュタルが告げた。

「ああ」

 セイルとイシュタルは警戒しながら通路を出る。

 と、床が急に暗くなった……


「ギイィィシャアアアアアアアアアアーーーー」


「ギィィアァ?!」


 セイルが見上げたのは、イシュタルが一体の空飛ぶ戦闘生物にひざりをしている瞬間であった。セイルはすぐさま脱出ルートの方向に走る。


「強いですね」

 先の一撃がヴェーガにとって致命傷になっていないことは、イシュタルが一番よくわかっていた。イシュタルはセイルが反応するよりも早く、敵の襲来を予測し同時にげいげきしたのだった。イシュタルのひざりは正確に決まった。その後、セイルを援護するために残りの二体を引き付けようとした。が、その必要はなさそうだ。一体がられたことに衝撃を受けたのか、二体はられた一体を見つめていた。


「ギイィィシャアアアアアアアアアアーーーー」

「ギィィシャアアアアアアーーーー」

「ギイィィシャャアアアアアアアアーーーー」


 が、二人にとってまずいことに別のヴェーガ三体がこの場に到着した。


「あれが、ヴェーガか!イシュタル逃げるぞ!」

「はい」


 セイルは空に向かってせんこう弾を投げた。

 せんこう弾が爆発し、まばゆいせんこうが放たれる。


 さすがのヴェーガも強烈な光で動きを止め、方向感覚を失ったようだ。その場で大きく首を揺らしていた。


「セイル、的確な判断です」

「もうせんこう弾はないから、どうしよう。何でこんなところにうわさの特別騎甲大隊が来ているんだよ!」

「あのヴェーガですが、どうやら倒すのは難しいようです」

「それは空を飛んでいるから?」

「いえ、確かにそれもあるのですが……私のひざりを受けても生きています」

「なんだって。くっ、なんでこんな目に。このままだと、逃げ切るのは無理だ」


 セイルは左腕の端末に表示されている道を右に曲がり、とにかく走る。このルートは遺跡を出るための最短ルートであるが、周りには身を隠せるような狭い通路も部屋もなかった。ヴェーガは必ず二人を正確に追跡してくる。戦って勝てる相手ではない。六体もいるのだ。それに帝国軍の後続部隊も来るだろう。ヴェーガはせんけんたいだ。


(どうする、どうすればいい?)


 これは非常にまずい状況だ。けんめいにセイルがこの場を切り抜ける方法を考えていると……


「ギイィィシャアアアアアアアアアアーーーー」

「シィィァアァァアアーーーー」

「ギイィィシャャアアアアアアアアーーーー」

「ギイィィシャアアアアアアアアアアーーーー」

「シャアアアアアアーーーー」

「ギイィィシシシィィァァアアアアーー」


 ヴェーガ六体の鳴き声がすぐ近くで聞こえた。セイルの表情に余裕はない。

 相手はあのヴェーガ。それは死の象徴。飛んでくる死だ。いったんは遠ざかっていた死だ。しかし、死は再び戻ってきた。死は迫って来る。


「後方よりヴェーガ六体が接近中。あと七秒後に角を曲がってきます」

「まずいぞ、行き止まりか!」


 目の前にあるのは壁だ。

 腕の端末はこの先を示しているが、開く様子は全くない。《失われた旧世界》の言葉を入力する箇所もない。普通の壁だ。横を見ても入り口はない。上を見ても。下を見ても。あと四秒後にはヴェーガがこの通路に来る。

 

「いいえ、行きますよ!」


 イシュタルは突然、セイルの腕を引っ張り、壁に向かって走りだした。セイルは訳がわからず、イシュタルの手が導くまま身体を引っ張られ、イシュタルとともに壁にぶつかった……かと思いきや、セイルはイシュタルの体当たりにより壁が動いたのを見た。


「え…………」


 壁はイシュタルの衝突による衝撃で回転し、二人は壁の向こう側の通路に投げ出された。それはわずか数秒の出来事だった。


「いててて……隠し扉か。これは驚いたよ」

「そうです。これはDoLLドール用秘密の抜け穴ですね」

 イシュタルが後ろの壁を見ながら説明した。

「この壁は一定の衝撃を加えなければ、動きません。ヴェーガ達は回せないはずです」


 その言葉通り、ヴェーガの声が壁越しに聞こえる。その声は怒りだ。目の前の獲物を、あと一歩というところで逃がしたいらち。そして、獲物に散々もてあそばれたくやしさだ。


「確かに。これで一安心だ」


 セイルは壁からヴェーガが来ることはないと思っていたが、その場から離れたかった。少し通路を先に進みその場に座り込んだ。自分の心臓の鼓動が落ち着きを取り戻していくのを感じていた。呼吸のペースもだ。ずっと走り続けていただけに、足の疲労は相当溜まっていた。


「周辺に敵はいません。そのまま、少しきゅうけいしてください」

「ああ、ありがとう」


(思えば、今日ほど死を強く感じたことはないな)


 セイルは同時に「自分は生きているんだ」とも痛感した。右手を胸に当てると心臓の鼓動。この鼓動は死ぬまで止まることがない。休むことなく脈を打ち続ける鼓動だ。


(僕は生きている。この世界に、この瞬間に。この廃れきった世界。ただただ、生きるために戦う。それは死が怖いからなのだろうか……)


 それはそれで正しいような気もするが、他に意味がある気がした。そして、イシュタルの方を見た。


「どうかしましたか?」


 イシュタルはDoLLドールと呼ばれる存在だ。人間ではない。でも、心配する彼女の表情は本物だ。世界は広い。そして、狭い。


「いや、大丈夫」


(汚いけれども、イシュタルには外の世界を見てほしいな。何とか一緒にここから出て行きたい……)

 

 セイルは右手に握られている銃を見た。銃にはさくれつ弾としょう弾が意図的に交互にそうてんされており、全装弾数は五発。これから出会う帝国軍兵士や戦闘生物を相手するには、弾も火力も足りない。仮にイシュタルが相手にするとしても、相手は特別騎甲大隊だ。他国との戦争ではその存在が戦局に左右し、帝国に勝利をもたらす精鋭部隊。それに人数が人数だ。とても相手にできる人数ではない。


 特別騎甲大隊は歩兵三個中隊と騎兵一個中隊、及び戦闘生物一個中隊からなる混成大隊。なお帝国軍における歩兵大隊は五個中隊(300名)からなる。つまり特別騎甲大隊を相手にするということは、少なくとも240名近い兵士を相手にし、強力な戦闘生物部隊をも倒す必要があるということだ。

 当然、特別騎甲大隊の兵士は帝国軍でも優秀な兵士達であり、戦闘生物は最強のヴェーガを筆頭に、多くの戦闘生物が運用されている。


(ふっ、帝国の特別騎甲大隊が相手か。こいつは笑えない)


 体力がある程度回復したセイルは立ち上がった。


「何か使える物はないかな……このままだと逃げるのは難しいんだ。この《失われた旧世界》の遺跡なら、何か使えるものがあると思うんだけど」


 とにかく武器が足りないことをセイルは実感していた。

 先ほど、帝国兵をイシュタルが倒した時、彼らの武器を拾うという選択もあったのだが、長い銃は持つだけで動きにくく、また走りにくいためセイルは拾おうとは思わなかった。しかし、ここは武器を持つべきだと強く感じていた。ここは武器を持つべきだと。


「武器ですか?すいません、私が何も武器を持っていなくて」

「いや、イシュタル、そういう意味で言ったわけではないんだけど。きみはそのままでも十分強いよ。ただ、僕は武器に頼るしかなくて」

 セイルは彼女に説明した。

「武器……セイルに合う武器は、おそらく第二武装研究棟にあります」

「武装研究棟?そこに武器があるのか」


 イシュタルの言葉に反応したセイルの端末が、第二武装研究棟の位置を赤い点で示す。

 ここから、やや遠くの上層階だ。ヴェーガがここに到達した時間を逆算すると、第二武装研究棟にはすでに帝国軍が展開している頃だろう。セイルは考えた。


(これは難しい選択だな。下手をすれば敵本隊のど真ん中。ほんまつてんとうになる。だが、このまま武器がなければ、生きて逃げることも難しい)


「セイル、第二武装研究棟へは私一人で行きます。時間かせぎにもなりますし。セイルは下層からの脱出ルートへ」


 セイルが左腕に装着している《失われた旧世界》の端末は非常に優秀だ。《失われた旧世界》の品だけのことはある。セイルが遺跡から地上へ出るための道順を検索し表示された脱出ルート……そのまま現在地から地上へのルートではなく、わざわざ帝国軍がいる上層を避けていた。

 そう、セイルとイシュタルにとっての敵が上層から来ているということを、この端末は理解しているのだ。正しく言えば端末は、この遺跡の侵入者情報をイシュタルことType:00をかいして習得していた。この遺跡の最重要機密であるイシュタルと、その主人であるセイルを安全に逃がすため、最も生存確率が高いルートを表示したのだ。


「心配いりません、セイル。それでは」


 そう言うとイシュタルは、セイルの言葉を最後まで聞かずに第二武装研究棟へ向かってしまった。


「待て、イシュタル……」



〈第二武装研究棟 第三通路〉

「なかなかこの遺跡は興味深い。しかし……」

 床、壁、天井全てがさきほどまでと違ってかたい物質で構成されており、かいはく色で統一されているこの通路の左右には、多くの扉らしきものがあった。その中にはこちらの手で開けることができるものもある。だが、部屋の中にはこれといったものがない。


「なんの発見もないとは。まあ、マクレアン少尉に途中経過を伝えなければないのは変わらないが、残念だ」


 帝国軍特別騎甲大隊長にして、帝国軍大佐であるグレイア・フェベルの名は帝国内でも有名だ。格闘技術、射撃技術は極めて高く、加えて戦闘生物の扱いが非常に上手い。その才能もあって、わずか二十五歳で少佐の地位に、三十歳で今の地位にいた。ヴェーガを率いる才能があるのも彼だけだ。ただ、若いゆえに口が少々悪く軍内部のライバルも多い。貴族階級出身でないというのも、彼にライバルが多い理由の一つだ。


「大佐、やはり遺跡内では通信機器が使用できません」

「地上のマクレアン少尉には伝令を送ろう。私は初めから通信機器なんて当てにはしていない。地上でも有線でないと、ほとんど使い物にならんからな」

「大佐、そんなことをおっしゃらないでください。本国のアカデミーが泣きますよ」

「はっ、どうせ《失われた旧世界》の技術だろう。中途はんな実用化は止めてもらいたいね。現地で危険にさらされている兵士の身にもなってもらいたいものだ。よし、先へいくぞ」


 フェベル大佐の特別騎甲大隊は現在、四つのルートへ分かれ下層へ進行中であり、せんけんたいとしては最強の戦闘生物ヴェーガ六体が派遣されていた。


(しかし、この感覚はなんだ。まるで、誘われるような感覚……遺跡の雰囲気か、それとも何か秘密があるのか)


 フェベルはこの遺跡に引き込まれるような感じがした。


 帝国には《失われた旧世界》の遺跡調査を専門とする部隊が存在する。

 これらの部隊は通常の「帝国軍」ではなく「帝国アカデミー」のかんかつ軍であり、通常の戦闘や治安維持要員として派遣されることはない。ただし、軍の最高司令官が皇帝であるのことは通常の帝国軍と変わらない。遺跡調査のため、ほとんどの場合が大隊以上の大規模編成で派遣されるのだが、本国へ帰って来られるものは一握り。遺跡までの道中での死者も多数であるが、大半は遺跡内部の侵入者迎撃システムや戦闘生物によって殺される。特に侵入者迎撃システムはこの時代では考えられないような仕掛けで、種類によっては一度で数百人以上が死んでいく。だが、それは帝国にとって必要なせいでもあった。戦闘生物がうごめくこの世界で、人間が生きていくためには力が必要だ。それは疑いようもない事実だろう。


 現在、人間がゆいいつ、この地球上で戦闘生物のきょうを忘れ、社会をいとなむことができる場所は帝国だ。そして、その帝国を支えているのは《失われた旧世界》の知識と技術なのだ。


「しかしなぜ、古代人はこんな大きな施設を地下に作ったんだろうな。理解に苦しむ。それに、この遺跡は他とはだいぶ様子が違うようだ。皇帝陛下が我々にこの遺跡調査を命じたのもうなずける」


 フェベルが手にしているのはアカデミー遺跡調査隊による《失われた旧世界》遺跡調査報告書。この報告書には遺跡の発見年月、場所、外観、調査開始年月、古代文字、仕掛け、壁や天井などの内装、調査時の死者数というような詳細情報が記されており、発見された戦闘生物の外見スケッチや特徴という戦闘生物関係の情報も書かれていた。


「〈デルダ〉、〈グア〉、〈ヴァチェク〉、この遺跡にいる戦闘生物は、どれも〝特定危険種〟ばかりだな。通常装備の部隊が来たら確実に全滅だろう」


 部隊を率いているフェベルは通路に倒れている戦闘生物の死体を確認する。

 通路に転がっているのは、せんけん部隊として遺跡に放たれたヴェーガやウォンクスが仕留めた戦闘生物の死体だ。その数およそ50。それらは不思議なことにと呼ばれる戦闘生物達だった。


「古代人の中には動物収集家でもいたのか?全く迷惑な話だ。これほど多種多様の特定危険種がいるとは信じられない。重要な報告事項だ。アカデミーでも大きく取り上げられることだろう。興味深い」


 〝特定危険種〟というのは、帝国の巨大研究機関である帝国アカデミーが設定した戦闘生物大区分の一つだ。特定危険種の規定として、

1.戦闘生物の中でも生息地域が限定されている生息域限定種あるいは個体数が少ない希少種であること。

2.人間に対し好戦的であり、その攻撃性は非常に高いこと。

3.帝国の戦闘生物部隊でも対抗することになんがあり、戦闘生物をどうはんしていない部隊ではそうぐうした場合、てっ退たいが好ましいこと。

 以上の1~3を全て満たす戦闘生物のを特定危険種とする。


 〈デルダ〉は帝国北部のアビアス遺跡固有種、〈グア〉はアブラフェー砂漠で発見された希少種、〈ヴァチェク〉は帝国南部のクラベ遺跡周辺の固有種だ。帝国アカデミーの研究では、特定危険種は戦闘生物の中でも試作種あるいは先行量産種ではないか、という限定生産説が有力だ。戦闘能力においてははんよう性が高い万能種もいるが、基本的に何かの戦闘能力に特化した種が多い。〈デルダ〉はその代表ともいえ、特化しているのは奇襲攻撃能力。固い地中の中でも泳ぐように移動することができ、地面から一気に飛び上がって敵にみつきや体当たりなどを行う。小型のため、なかなか倒すのは難しい。なお〈デルダ〉が、どのように地中を泳いでいるのかは現在のところ不明であり、アカデミーによる研究項目の一つとなっている。


「大佐!大佐!こちらに来てください!」

 とつじょ、大きな声で部下に呼ばれたフェベル。


「どうした?」」

 即座に部下の方向へ走った。


「こちらです、大佐!」


 声を発する部下の声は興奮気味だ。それにフェベルのために道開ける兵士達からも、ざわつきが伝わって来た。どうやらすごいものを発見したようだ。


「この部屋です。見てください!」


 部屋の中へフェベルは足を踏み入れた。そして、目の前に広がる光景に息を飲んだ。


「これは……」


 部屋には大小さまざまな作業台やがんじょうな箱があり、壁には見たこともないような液体や機械が保存されていた。何かが盗まれた跡もなく、現場は古代人が使っていた時の状態とほとんど変わらない状態だ。


「すぐにマクレアンを呼ばなければ。本国アカデミーの研究チームも必要だ」

 すぐさまフェベルは部下に命令する。

「周辺の警戒をおこたるな。地上に伝令と護衛部隊を送れ。これは専門家の助言が必要だ。マクレアン調査中隊へ応援を要請しろ」

「これはすごい発見ですよ、大佐」

「ああ、わかっている。この発見は皇帝陛下もお喜びになるだろう」

 フェベルと部下の兵士達は周囲を警戒しながら、さらに奥へと足を進めていく。



〈第二武装研究棟 第四通路〉


「やはり、遅かったみたいですね……」

 第二武装研究棟にたどり着いたイシュタルの頭には、周辺の敵位置情報が次々と送られてきていた。これは彼女が熱源感知センサーや超音波、壁の透視などによる空間スキャンができるためだ。最新型DoLLドールである彼女の情報処理能力は高く、膨大な敵の位置を同時にあくすることができ、敵の姿形・進行速度まで正確にあくした。


「第二武装研究棟にいる敵の総数は68人、目標周辺には32人。武器は銃で、特別な装備なし」


 イシュタルの現在位置は第二武装研究棟第四通路だ。彼女がセイルのために手に入れたい武器は、第三通路に面している光学実験室にあった。


「さて、どうしましょうか」


 光学実験室に入るための扉は一か所しかない。第三通路に展開している帝国兵達の視線を全て避けて通るのは物理的に無理だ。また、彼女自身が透明になるなんてことも不可能だ。そんな都合のいい機能、あるわけもなかった。


「選択、強行回収。相手するしかないですね」


 この数を無理に相手にせずとも、目的である武器だけを回収して逃げることもできるのだが、そうすれば帝国兵はイシュタルのあとを追いかけてくることになる。イシュタルにとってセイルに対する危険が増えるのは絶対に避けなければならない選択だ。それに、目的地である光学実験室にもすでに帝国兵の姿がある。


 イシュタルはゆっくりと音を立てないように、第三通路につながる通路のかどに張り付いた。

 そして帝国兵を一人、角から出てきた瞬間、両手で一気に身体を引き寄せ、腹にひざりを食らわした。続いて後続の兵士が銃を構える前に、銃を右手で払いのけながら、敵がのけぞったところを狙い、腹への回しりを行った。られた兵士は後ろにいた三人の兵士を巻き込んで吹っ飛んだ。


「敵発見!」「敵だ!」


 通路内に響き渡る「敵」という声に反応した帝国兵たちは、すぐに振り向き銃を構えた。

 通路いっぱい横一列に並び、前列がしゃがみ姿勢、後列が立つという二列の射撃態勢だ。一斉に式連射小銃の射撃が開始される。

 通常の人間ならはちの巣確定だった。


 ―弾道予測。


 しかし、イシュタルにとってこの時代の銃は全くきょうにならない。全ての弾が止まりそうなほどゆっくりと飛んで来ているように見える。そう、住む時間の世界が違うのだ。彼女の持つ情報処理速度は人間のそれとはかけ離れていた。そのため、銃弾にわざわざ当たりにいかない限りは被弾することはなかった。一方向からの銃弾は基本的に腰を低くすればほとんど避けることが可能だ。

 ときおり、下向きの弾が飛んでくるが、それも身体を横に動かせばいいだけだ。そして、帝国兵達が視線を下に下げる前に、イシュタルは前列の兵士に向けてこぶしりを繰り出した。当然、後列もそのことに気づくこともなく、次の一瞬で前列と同様に全滅し、接近戦を挑んできた兵士もことごとくやられていった。


 まるで兵士はおきもののようだ。足止めにもなっていない。


「どうした!」

 部屋の外で発砲音が聞こえたフェベルは部下に状況を尋ねた。

「敵です、大佐!」

「敵だと、特定危険種か?」

「いえ、それが戦闘生物ではなく、人間です!」

「人間?馬鹿な!」


 一瞬、部下の報告を疑った。

 だが、さっきから一向に収まらない発砲音や部下の声から、敵が倒れていないのは確実だった。徐々に音がこちらに近づいている。フェベルは事の重大性を理解し、右腰のベルトから七式拳銃を取った。そして部下に命令した。


「誤射に注意しろ! ヒューイ隊は部屋の入り口を固めろ! スプレイ隊、私の左右に展開!」


「ホーク隊が全滅」

「シスタ隊、下がれ!」

「くそ、なぜ当たらない!」

「撃て、撃て!」


「相手は一体、何者なんだ……くそっ!」

 フェベルは優秀な指揮官であり、部下は決して見捨てない性格だ。

 絶えない部下のめいをただ黙って聞いて、落ち着くことなど彼にはできなかった。彼はスプレイ隊をその場に待機するように手で指示し部屋の外へ出て行く。すると、通路にいる部下が彼に言葉をかけた。


「大佐、貴方あなたは下がっていてください!」

「何を言っている、部下がやられる姿をだまって見ていられるか!相手が何者なのかをこの目で確認し、必ず始末する!」


 フェベルも部下と同じように銃を前に構えた。彼も含め特別騎甲大隊の隊員は全員、射撃技術が高い。帝国軍で制式採用されている武器は全て使用可能で、当然、新しく開発された式連射小銃の射撃訓練も受けていた。そんな兵士が戦闘生物でなく、人間相手に銃を当てることができないということをフェベルは信じることができなかった。そんな人間がこの世界にいるのか、と。ましてやここは《失われた旧世界》の遺跡だ。人間がいるはずもなかった。


(大隊が、たかが人間相手にほんろうされるとは……そんなことはありえない!)


「大佐!そちらに対象が向かっています!」

 そう聞こえた瞬間、目にも止まらぬ速さで人間らしい姿がやって来た。


(何!)


 全員、反射的に引き金を引いたのだが一発も当たることなく、通路にいる帝国兵達はイシュタルの高い身体能力に太刀たち打ちできずに倒れていった。


(この動き、人間ではない!)


 フェベルは直感に従って腰を引き、低い弾道の弾を撃った。部下が撃った方向ではなく、自分のすぐ斜め横、手前の部下の右横の空間だ。結果的に彼の放った銃弾はイシュタルに当たることはなかったが、彼女がここに来るという直感は見事に当たっていた。その空間にイシュタルは来たのだ。


(指揮官のようですね。なかなか良い勘です)


 イシュタルの回避行動自体には全く影響されないのだが、最も彼女に対して良い反応をしたのが指揮官であるフェベルだった。他の兵士は彼女をほとんど視覚に捉えておらず、やみくもに撃っているだけだが、フェベルは直感であるにしろ彼女の姿を追うことができた。


(ですが、これで終わりです)


 イシュタルが彼の部下をなぎ倒しながら、その息の根を止めようとフェベルに接近する。


「ヴェーガ!」


 通路内にフェベルの声が響いた。イシュタルの接近に反射的に反応したフェベルは銃を撃つと同時にヴェーガを呼んでいた。


「ギイイィィシシャャアアアーーーー」

「シシィィァアァァアアーーーー」

「ギイィィシャアアアアーーーー」

「ギイィィアアアアーーーー」

「シャアアアアアアーーーー」

「ギイィシィィァァアアアーー」


(ヴェーガ……)


 イシュタルもすぐに接近してくる複数のヴェーガ生体反応を確認した。

 ヴェーガの速さは人間や他の戦闘生物をりょうしている。イシュタルはヴェーガとの交戦を避けるためフェベルを相手にすることなく部屋へと入った。


「来たか……」


 ヴェーガ達の到着でフェベルの命はかんいっぱつ救われた。

 それは本当にギリギリのタイミングであり、あと1秒遅ければ、間違いなく彼は死んでいただろう……

 実はヴェーガ達はフェベルに呼ばれる前から彼の元に戻ろうと高速飛行で帰路についていた。それは当然イシュタルの危険性をフェベルに伝えるためだ。イシュタルの存在をすぐに指揮官である彼に報告しようとしていたのだ。

 ヴェーガ六体のうちの一体、イシュタルにられた個体がフェベルのそばに来る。


「シャアアァ……」

「ああ、ここで逃がす訳にはいかない。必ずここで仕留める」



 光学実験室の中に入ったイシュタルは、ヒューイ隊の一人を片手でつかんで人間離れした力により素早く投げ飛ばし、次の兵士の武器をり上げ、後ろから近づく敵を振り向くことなくついでにり飛ばした。さらにその片足の状態のまま軽く跳躍して兵士の肩に乗り、その兵士を支えにして左右の兵士をった。


「ぐはっ……」「うっ……」

「くそ!」


 支えにした兵士をそのまま足の力で押し倒した後、奥で銃を構えていた兵士の銃を正面から奪い去る。そして、手だけ向きを変えスプレイ隊に向けて銃弾を放った。スプレイ隊はイシュタルとヒューイ隊があまりにも近いために銃で応戦することもできず、イシュタルの撃った弾が次々と命中し、その場に倒れていく。


「うわっ……」


 式連射小銃は連射性が高いのだが、上手く扱わなければ連射による反動で、まともにまとに当てることもできない。一方、イシュタルは人間とは比較にならない程の筋力で、式連射小銃の反動を補正することができた。そのため、イシュタルは正確に帝国兵の心臓あるいは頭部を撃ち抜くことができた。


「くらえ!」


 壁の後ろに隠れていた兵士と、床に伏せてやられたフリをしていた兵士が、イシュタルに襲いかかる。だが、彼女に触れる前に一人は後転り、もう一人は手刀を受け、二人とも何もできず床に倒れた。これにより光学実験室にいたヒューイ隊とスプレイ隊は全滅した。


「いたぞ!撃て!」


 部屋の外の兵士を引き連れたフェベルがイシュタルの姿を確認するなり銃を発砲。この部屋のありさまに驚くことなく、冷静にイシュタルを狙っていた。部下思いの彼が、これほどまで反応しないところを見ると、守備隊が全滅することを自分に言い聞かせていたに違いなかった。


「……全くりない人達ですね。そのまま私を見逃してくれればありがたいのですが、そうもいかないようですね」


 イシュタルは後ろから飛来する弾もれいに回避する。こんなげいとうを人間ができるはずはなかった。


「化け物め!」


 DoLLである彼女は人間とは違い、視覚情報に依存している比率が低い。先に述べた通り、各種センサーが備わっていた。つまり、背後からの攻撃もちゃんと見えているのだ。背後から攻撃しようが、死んだふりをしようが、壁に隠れようが、遠くから狙い撃とうが、全てイシュタルには見えていた。そのような小細工はするだけ無駄だ。


「ありえない。背後からの銃撃を全て避けるとは」


 フェベルは弾切れになった七式拳銃を捨て、背中に背負っていた式連射小銃を構えた。そして、その引き金を引いた。彼の部下も弾倉を再そうてんする。


「いくら撃とうが弾の無駄ですよ。帝国軍の皆さん、大人しく引き下がってください」


 イシュタルは背後からの攻撃を回避しながら部屋のすみへ向かう。そして、壁にある透明なプレートに認証コードを入力した。その光景はまさに異様だった。なぜならイシュタルは銃弾を側転、身体ひねりで避けながら入力作業を行ったのだ。


『入力コードを認証』


 透明プレートに認証完了の文字が表示されると同時に、たいらであった壁の一部が開いた。

 驚くべきことに《失われた旧世界》の施設は数千年前に主人達を失ったにも関わらず正常に作動しており、イシュタルは開いた隠し金庫から灰色のケースを取り出した。


「目標を回収成功。これより帰投」


「あいつ、何を回収した……この部屋を知っているのか?逃がすな!」

 フェベルはイシュタルの妙な動きを確認した。どう考えても、この部屋について知っているようで、今まさに壁に隠されていた物を手にしていた。


(このまま、この数の帝国兵をセイルの元に連れていくわけにはいきません。彼らを隔離しましょう)


 光学実験室は機密保持と安全のために《失われた旧世界》の仕掛けが多く存在していた。その全てをあくしているイシュタルが何気なく横の壁の模様を触ると、光学実験室を含めた第二武装研究棟の各部屋・各通路が特殊装甲板で閉ざされた。


「何だ、これは!」


 通路に展開していた帝国兵達が驚きのあまり、大きな声をあげた。


『緊急事態発生のため、第二武装研究棟を封鎖します』


 光学実験室の入り口も分厚い壁、特殊装甲板で覆われてしまい中にいるフェベル達は完全に中に閉じ込められた。


「大佐!閉じ込められました!」

 何とか壁をどかそうと、フェベルの部下達が部屋の内側、外側から押したり引いたりしているが、扉は一ミリも動きはしない。


『緊急事態発生のため、第二武装研究棟を封鎖します』


 第二武装研究棟全域では緊急事態を告げるアナウンスが響き渡っていた。


「これで時間かせぎができます」

 イシュタルは隔壁が下りたことを確認した。


 緊急事態発令による封鎖で、第二武装研究棟に集まっていた帝国兵は全く身動きできなくなった。


「さてセイルの元へ急がなければ」


 次にイシュタルはケースを左手で持ったまま、右手で透明プレートに別の文字を入力した。


『入力コード認証』


 するとイシュタルの足元の床が開き、彼女はその中へ落ちて消えた。

 イシュタルが入力したのは緊急事態時でも使用可能な権限力の高い秘密コードで脱出用。第二武装研究棟光学実験室の床の抜け穴から、見事脱出したイシュタルは長いすべり台のような脱出路をすべり下り、広い通路に出た。着地する際は、セイルも体験した空中浮遊現象が発生した。


(早く、セイルのところに戻らなければ)


 広い通路を走るイシュタル。ここは非常用脱出路のため、セイルがいる場所までそのまま直行することはできなかった。複雑なこの遺跡……施設には様々な箇所に仕掛けがほどこされており、侵入者を排除するような仕掛けから、施設にいる者のために用意された抜け道など非常に独特な構造をしていた。

 何の知識もなしに歩けるような場所ではない。そういう理由で帝国軍が彼女より先にセイルのところにたどり着けるはずはなかった。それに、第二武装研究棟にいた部隊は封鎖された部屋や通路から簡単に出られない。

 

 そのはずだった。


「あれは……」


 イシュタルが見たのは、敵が施設に侵入した可能性があるという警告案内。

 空中に映し出されているその案内は、この施設の階層・通路と侵入者の生体反応を映していた。イシュタルが第二武装研究棟の非常事態発令を行ったのだが、どうやら帝国軍は特殊装甲板である隔壁を破壊したようだ。そのため、施設の独自セキュリティは『侵入者』がいると確定判断し、その排除のためにセキュリティシステムを全面的に起動、施設にいるイシュタルにその報告をしてきたのだった。

 案内板は走るイシュタルに合わせ、彼女の左斜め前に移動しながら宙に表示されている。侵入者とされる多数の反応の中で、飛び抜けて速い速度で移動しているのがヴェーガと思われる六つの反応だ。


「どうやって、あの隔壁を……」



〈第二武装研究棟 光学実験室〉

「消えた……」

 フェベルと彼の部下は、さっきまでイシュタルがいたはずの場所へ、急いで歩み寄りその床面を確認した。

「どうやら、抜け穴のようだな」

 フェベルは床を手でなぞる。

「そのようです」


 抜け穴の入り口自体はすでに閉まってしまい床と区別ができなかった。驚くべきことに穴の目印だとわかるようなすきが一切ない。これでは手でも道具でもふたを開けることはできない。ここからイシュタルを追うということは不可能だった。


「大佐、閉じ込められたようです」

「爆破できそうか?」

「無理です大佐。この隔壁はしゅりゅうだんぐらいじゃ壊せません」


 後ろの隔壁を見た兵士が言う。

 おまけにフェベル達はこの部屋から出ることはできない状況だ。イシュタルにより第二武装研究棟の部屋と通路の全てががんじょうな隔壁により封鎖されていた。いくら特別騎甲大隊でも、《失われた旧世界》の隔壁を破壊できるような装備は携帯していなかった。


「心配はない、落ち着け。全員、入り口から離れろ」


 そう言われた部下達は入り口から離れた。


「いいぞ、やれヴェーガ」


 フェベルのその言葉が合図となり入り口の隔壁が爆発。そして大きく崩れた。


「……力の制御はまあまあだな」


 フェベルが破壊された隔壁のざんがいを見る。


「ヴェーガですか」

「少し、危なかったですよ」


 全員が光学実験室の扉を出るとヴェーガがたたずんでいた。

「シャアアァ……」

 ヴェーガ一体がフェベルに何かを伝える。


「ああ、他の連中も今、助けてくれているんだな」

 人間の言葉を話したわけではないのだが、フェベルはヴェーガが伝えたいことをすぐに理解した。

「シュウウ……」


 どうやら、他のヴェーガ達はフェベルに命令される前から部隊の救出に向かったようだ。

 あちこちで爆発音が聞こえる。フェベルは部下に弾倉の再そうてんと残りの弾を確認するように命令し、数人に伝令の任を与えた。これは部隊を再編成するためだ。


「大佐、あれは人間でしょうか?」


 先ほどそうぐうした未知なる相手に兵士達は動揺を隠し切れず、銃を持つ手が震えていた。

「……見た目は少女でした。まさか、遺跡のゆうれいですか?」

 戦闘生物でもない強力な相手……帝国軍でもこんな戦闘経験はない。まして《失われた旧世界》の遺跡での出来事だ。

 フェベルもこんな事態を想定しておらず、確かに内心動揺はした。しかし指揮官としてそんな姿を部下に見せるわけにはいかなった。それに、あの少女が何者なのか興味がいてもいた。


「それはない。もしゆうれいならば銃弾を避ける必要はない。実体があったからこそ銃弾を避けたんだろう。一発も当たらなかったが。それだけじゃない。奴のりやこぶしは、一撃で人間を殺せる。おまけに背後からの一斉射撃まで回避する。人間の姿をした化け物だ。あんな奴をここから出すわけにはいかない。我々の手で始末する」


 少し時間が経つと、他の場所にいた部隊が合流してきた。彼らを救出したヴェーガも一緒だ。フェベルはさっきこの場所で何が起きたのかを他の部隊に詳しく伝え、油断することがないように注意を促した。これは彼自身もあまり意味のないことだと感じてはいる。だが、現時点ではそれしか部下に言えることがなかった。


「私はヴェーガとともに奴を探す。ヴェノ隊、マクレアン調査隊が来たらこの部屋を案内しろ。レベン、お前がウォンクスを率いて下層に来い。あとマース、ジュライ、キュリアム、サタ、ヴィナックはいるか?」


「はい」

 最初に返事をしたのはマース。


「ここに」

 大佐のすぐ近くにサタいた。


「はっ」

 ジュライは敬礼し声を上げた。


「準備はできています」

 キュリアムはジュライの横に。


「全員いるみたいですよ、大佐」

 最後、ヴィナックが手を挙げた。


 名前を呼ばれた兵士達が前に出てくる。彼らの戦闘服は他の兵と色やデザインが異なっていた。この戦闘服は武器を身に着けるポケットやベルトの位置が通常のものに比べて、やや上半身寄りになっている。使用しているせんの配合率も通常のものと異なるため、やわらか目であり、加えて着ている兵士の体温を外気で奪われることがないよう、寒冷地域に生息する戦闘生物〈アスファイ〉の毛が内側に張られていた。また、袖口やズボン口は二重のひもでしっかりと結ぶことができ、空気を服の内部に入れないような作りだ。


「お前達わかっているとは思うが、ヴェーガで出るぞ。奴をこのまま見過ごすわけにはいかない。放っておけば帝国のきょうにもなろう。あとどこかに少年がいるとのことだ。ここを見られた以上、生かしておくわけにはいかない。ここで始末する」


 彼の言葉に対し、全員が敬礼をして「ハッ!」と答えた。


 各員が自分の相棒であるヴェーガに搭乗する。フェベル自身も彼の相棒であるヴェーガの背に乗った。

 フェベルの搭乗するヴェーガは他のヴェーガのまとめ役であり、イシュタルにられた個体でもある。傷自体はすでに完全に再生しており、体の構造はイシュタルに受けたりを学習していた。少しずつではあるが変化していた。より衝撃を受け流しやすくなるように、そして損傷箇所をなるべく広げないように、きょうじんな肉体へと。素早いイシュタルの攻撃を見切るため、視覚情報の処理と伝達速度もより速くできるようになり、ちゅうすう神経から運動神経への命令伝達速度も向上していた。


「シャアアァ……」


 ヴェーガは生まれついてから、その圧倒的な戦闘能力で世界を駆け巡ってきた。そう人間にられたことなど一度もない。そのため、このヴェーガはイシュタルにられたことでプライドがズダズタだった。すぐにでもイシュタルを八つ裂きにしてやりたい、イシュタルをおびえ苦痛に満ちた顔にさせたいと。芽生えたのは対抗心と強い殺意だ。


 フェベルもこれまでにない感情をヴェーガがいだいているのを強く感じている。

「気持ちはわかるが、落ち着け。奴は今まで会った敵の中で最強だ」

「ジャアアァーーシャァ、キュルゥゥ……」

「そうだ相棒。あいつは必ず倒すぞ。よし、全員準備はいいな。行くぞ!」


 フェベル大佐を先頭に、五体のヴェーガが飛び立った。



〈第一研究棟 非常用脱出路 D区画 第一通路〉

「なんて速さ、ヴェーガ」

 イシュタルが見ているヴェーガの生体反応は、正確に下層へ移動しており立ち止まることはない。おまけに、施設内の侵入者迎撃兵器まで相手にしているのに、その勢いは全くおとろえない。イシュタルの元には次々と『施設内のセキュリティが突破された』という報告が来る。

 同時にヴェーガの様子が映像で表示された。


「起動したセキュリティまで、軽々と突破するということは……会った時のヴェーガは全く本気ではなかったということ、あるいは何か力を解放するきっかけがあったということだ。なるほど、これは予想外」


 施設セキュリティは光学兵器による侵入者迎撃と隔壁による区画閉鎖を中心とし、他にも多くの仕掛けが存在するが、事実、ヴェーガはそれらを突破していた。この時代の兵士達の服装や装備はイシュタルが知っているものとかけ離れており、そんな帝国軍がこの施設のセキュリティを突破することはありえないと考えていた。イシュタルは起動権限こそ有していないものの、セキュリティネットワークのアクセス権限を有しており、すぐに施設の独自セキュリティシステムに命令を出す。


「レーザーネットをがいとう区画と進路先に展開。隔壁をE区画まで下ろしておいて。あとセイルを下層のF区画第四脱出路まで安全に、確実に誘導して、お願い」


『了解しました、ゼロクイーン。がいとう区画と進路先にレーザーネットを展開、隔壁はE区画まで下ろします。マスター・セイルの誘導はおまかせください』


「防衛ユニットは展開できる?」


『申し訳ありません、ゼロクイーン。防衛ユニットがすでに消費されているため展開できません』


「敵の解析結果は?」


『高速移動中の侵入者は飛行型生体兵器と思われます。また、その飛行型生体兵器の背にそれぞれ搭乗者が確認できます』


「やはりヴェーガね」


『また、後続として四足歩行型生体兵器と歩兵が多数接近中。また二足歩行型生体兵器に騎乗している騎兵らしき兵士が下層に向かっています』


「第二武装研究棟に閉じ込める作戦は失敗。早く脱出しないとセイルが危ない」


 イシュタルがこの場でできる帝国軍への妨害は全て行った。しかし、ヴェーガの戦闘能力は油断ならず、直接戦闘をしても確実に勝てるという保証はない。彼女のひざりをまともに受けながら、普通に空を飛ぶことができるのだ。まだヴェーガについては不明な点の方が多い。そういう、よくわからない敵を相手にするというのは危険だ。

 それに、セイルはDoLLであるイシュタルとは違い、ただの人間だ。帝国軍が使用している生体兵器のことを考えると人間が彼らを相手に戦うのは非常に難しい。だからこそ、彼女が手にしている武器が必要ということになるが、それでも基礎身体能力には大きく差がある。正面からセイルが戦う事態になるのは避けなければならない。生体兵器は人間を殺すために造り出されたのだから。


 現在、彼女が走っているのはD区画。目の前には、さらに下層へ行くためのぶん通路があり、E区画行きの通路へと突き進む。次のぶん通路を越えたらセイルがいるF区画で、左手に持っているケースの中身を渡すことができるはずだ。


『ゼロクイーン、現在マスター・セイルをF区画第四脱出路まで誘導中。もう少しで到着します』


「了解。飛行型生体兵器の状況は?」


『依然として、飛行速度がおとろえている様子はなく、セキュリティを突破しながら下層に進行しています。このままでは、約三分後にE区画に到着し、約八分後にF区画へ到着します。また、後続部隊と思われる集団は先頭部隊が約九分後にE区画に到着し、約二十分後にF区画へ到着します』


 ヴェーガ達は見事な飛行術でレーザーネットとレーザー弾幕を回避しながら、破壊できるエネルギー発生源(ジェネレーター)を次々と破壊していった。レーザー弾を何発か受けてもヴェーガがひるむことはなく、受けた損傷はまたたく間に修復される。驚異的な生命力だ。加えて、受けた損傷を学習しているのか、同じ攻撃では傷が付きにくくなっているようだ。


(脱出路までヴェーガが来たら非常にやっかい。ヴェーガのきょうレベルを更新)



〈第一研究棟 F区画 DoLL用秘密通路〉

 いくらDoLLとはいえ帝国軍特別騎甲大隊のど真ん中に、突っ込むというのはいささかぼうなように感じられた。そしてそう感じたとしても、すでに遅いことはセイル自身が一番わかっていた。それにイシュタルの考え通りセイルが一緒に第二武装研究棟に行く方が共倒れのリスクが高い。彼女の考えは間違っていない。


「イシュタル、大丈夫かな。相手は特別騎甲大隊か……」


 帝国軍は多大なせいを出しながらも、《失われた旧世界》の遺跡を調査しているということだ。うわさでは他国や帝国占領地域外であっても、遺跡のためならば戦争や住民しゅくせいも行うということだが、今回の件ではっきりしたのは、うわさが事実だということだ。

 

(このきょうこくの村や村の周辺地域は帝国の支配下ではない。それに、ここのきょうこくの先にあるヒューヤの道を抜けた先には、ユランベルク諸国連合がある。遺跡調査だとしても、ユランベルク諸国連合に対しての軍事的挑発あるいは偵察行為だと捉えられる可能性が高い。まあ、ユランベルク諸国連合が直接に帝国兵を見たわけじゃない限り、そんなことにはならないと思うけど。でも、この遺跡はかなり大きいものだし……ユランベルク諸国連合が知らないなんてことがあるのかな。もしかしたらときおり、偵察が来ているかも。いや、そんなことはないか。ヒューヤの道を越えるのはかなり難しいはずだ)

 

 帝国とユランベルク諸国連合が戦争になる、ということは今のセイルにとって嫌な話だった。なぜなら、ユランベルク諸国連合の南に位置する商業都市国家〈クルゾン〉が、彼の基本的な生活の場であり、知り合いも多くいるからだ。特に考古学研究の学者や戦闘生物ハンターの知り合いは年齢層が幅広い。遺跡から脱出した後、彼らに出会えば何か手助けしてくれるだろう。


『こんばんは。マスター・セイル、ゼロクイーンから脱出路に案内するようにおおせつかっております。お急ぎください』


「うわっ、なんだ!」


 突然、目の前に現れた案内表示とどこからか聞こえた声にセイルは驚いて声をあげた。

 空中に映し出される《失われた旧世界》の案内は、この時代の人間にとって非常に奇怪なもので心臓に悪い。どんな原理かは知らないが、思い通りの場所に空中案内とアナウンスを届けることができる《失われた旧世界》の技術はやはり未知の世界なのだ。


「マスター・セイル?ゼロクイーン?なんで、言葉がこの時代のものなんだ?どうやってこんなところに映像が……声が、どこから声が?」


 いきなりの出来事で、セイルは混乱した。おまけに、何故か声のぬしはセイルと同じ言語を使用していた。


『失礼しました。ゼロクイーンというのは、あなた様がイシュタルとお呼びになっているDoLLドールです。イシュタルからあなたを脱出路に案内するように頼まれました。私はこの施設の管理を任されているシステムです。とにかく移動を開始してください、マスター・セイル。飛行型戦闘生物六体がそちらに急速接近中です』


 姿の見えない声の主に言われるがままにセイルは移動を開始した。案内には現在地と進行方向が表示されていた。それに沿ってセイルは走ればよかった。


「イシュタルは?」


『イシュタルは現在、第二武装研究棟で目的のものを回収し、こちらに向かっています。また、各区画ではイシュタルの命令により、防衛機能が働いています。ですが、飛行型戦闘生物を食い止めることはできていません。依然としてこちらに向かっています』


 そう言うと案内表示にはイシュタルの現在地と飛行型戦闘生物ヴェーガの現在地の両方が追加表示された。


「この反応は間違いなくヴェーガだ」


『はい、イシュタルもその名前をおっしゃっていました』


(イシュタルが無事だとわかったのはいいけど、やはりヴェーガに追われているのか……)


 ヴェーガの戦闘能力が高いことは知っているが、先ほど会った感じでは戦争時の戦局を左右したり、帝国占領域の居住区周辺のきょうとなる戦闘生物を根絶したりするほどの戦闘能力があるようには見えなかった。

 しかし、初めてヴェーガを見た時、セイルが他の戦闘生物とは次元が異なるという恐怖を覚えたのも事実だ。その感覚は、まさに狩人かりゅうどに狩られる獲物だ。ヴェーガは「自分達の標的が何者であるのか」を、きちんと理解している。きちんと理解しているから確実に仕留める、仕留めに来る。彼らの立場は狩人かりゅうどだ。断じて獲物ではない。


(だから死の恐怖を感じたんだ……)


 彼らは吸い寄せられているのだ、獲物に。まるで遠く離れた恋人を求めるかのように。そして、殺すのだ。彼らの存在意義を刻むために。


 今でもヴェーガの姿が鮮明に思い出される。最初に出会った場面が脳裏に焼き付いていた。


『マスター・セイル、表示されている地点で止まってください』


 セイルは言われた通りの場所で止まる。周りには通路のぶん点や階段らしきものが見えるが、案内表示は中途はんな場所で停止するように指示していた。帝国兵がいれば間違いなく撃たれる位置だった。


(何もない)


 と思っていたのだが、床の一部が徐々に音もなく開いていく。そして、下へと続く階段が現れた。


「この遺跡は本当に迷路だな」


『マスター・セイル、この先が第四脱出路です。我々は第四脱出路に向かう必要があります。急いでください。イシュタルもこちらに向かっています。合流まで間もなくです。申し訳ありませんが私の誘導はここまでです』


「ああ、ありがとう」


 階段を下りるセイル。底は見えなかった。

 セイルが完全に床下に収まると上の床はれいに階段にふたをした。階段には照明らしきものが一切存在しないが、なぜか明るかった。セイルが長い階段を全て下りると広い通路に出た。


(もうすぐイシュタルが来る)


 一応、敵の襲来に備えて銃を手にした。弾はさくれつ弾としょう弾が交互にそうてんされてはいるが、装弾数が五発というのはヴェーガに対して十分とはいえなかった。まあ、セイルから言えばどんな武器を持っていたとしても十分だと思うことはないだろう。相手は帝国最強の戦闘生物だ。


「……あれは、イシュタルだ」

 間違いない。人間離れした速さでこちらに走る少女だ。イシュタル以外にはありえない。それにケースを手にしていた。


「こっちだ、イシュタル」

 イシュタルの姿が次第に大きくなってくる。ここまであと少しだ。


「セイル、お待たせしました。急いでここから逃げましょう。危険です。大丈夫ですか?」

 イシュタルの声がセイルにはっきりと聞こえた。

「大丈夫だよ」


 ドバーン

「キィィシャアアァーーーーーー」


 突然、天井を破壊して現れたヴェーガ。

 その口からは光があふれ、次の瞬間、イシュタルに向け光線が放たれた。

 それをイシュタルは後ろ宙返りで回避した。ヴェーガはそれを見るなりイシュタルに次々と光弾を放つ。


「さあ、その手に持っているものを渡してもらおうか」


 ヴェーガの背に乗るフェベルはイシュタルに言った。

 生きているイシュタルからは絶対にケースを奪えない、イシュタルのきょうを考えると全力で挑むしかない。ヴェーガに搭乗しているフェベルはイシュタルを確実に始末した後、ケースを回収しようと考え、彼は遺跡内におけるヴェーガのエネルギー関係攻撃手段を解禁した。遺跡を大きく壊すおそれがあるため、これは本来解禁しない予定であり、彼としてはやむを得ない判断だった。ヴェーガのこうくうのどには高エネルギーを発生・収束することが可能なエネルギー発生増幅器と収束器が存在している。


「く、まずいヴェーガだ!こんなところにまで!イシュタル!」


 セイルがさけぶ中、イシュタルは回避行動を取り続けているが、穴が開いた天井からは新たな二体のヴェーガが見え、その二体の口からも光弾が連続で放たれた。


 イシュタルはヴェーガに対して反撃する余裕がなかった。


「イシュタル……このままだとイシュタルが危ない。これで何とか」


 銃をヴェーガに向け、セイルは引き金を引こうとした。


 バーン

「シャアアァーーーーーー」

「キィィイイーーーー」


「うわっ……」

 セイルの後ろの天井が破壊され、強い衝撃でセイルは床に倒れた。

 その時、銃が手からすべり落ち、遠く離れた場所に……セイルがおそるおそる目の前を見ると二体のヴェーガがいる。しかもこちらをしっかりと見ていた。絶体絶命だ。


「ん?遺跡に少年?」

「こいつ、マクレアン隊の報告にあった少年じゃないか。まだ生きていたとはな、驚きだ」

「どちらにしろ、死んでもらおう」

「ああ、命令だ」


 やはりセイルは動けずにいた。こちらをにらみつけるヴェーガの瞳から目が離れない。


(身体が、身体が動かない……)


 ヴェーガの口が光り始めていた。


(まずい、まずい、まずい……どうする、どうする、どうする!)


 ヴェーガの口の光がさらに増大する。


(銃を拾う?いや、無理だ!)


 ヴェーガの口から光があふれ始める。

 

「セイル!」

 イシュタルが見たのは、セイルが今にもヴェーガの攻撃を受けそうになっている光景だった。

 このままでは確実にセイルが殺される。しかし、それを止めようにもイシュタルはヴェーガ三体による集中砲火を受けており、救出に行ける状態ではなかった。ヴェーガ三体は攻撃をゆるめることなく、イシュタルの動きを追ってくるのだ。さらに都合が悪いことに、ヴェーガ達はイシュタルの速さに段々慣れてきて、狙いも正確になってきていた。


(反撃する余裕がない。このままではセイルがヴェーガにやられてしまう)


「セイル、拾って!」


 一瞬でイシュタルは手に持つケースをかいじょうし、中に保管されていた《失われた旧世界》の銃をセイルの方へ投げた。その銃にはげきてつも、やっきょう排出用のスライド部も、弾倉室も存在しない。投げられた銃はれいにセイルの元へ飛んでいく。


 イシュタルの声に反応したセイルは後ろを振り向いた。そして右手を伸ばした。そこへ見事に銃が収まる。セイルはしっかりとその銃を握り、流れるようにヴェーガへ狙いを定めた。


『使用者認証。高速射撃モード・アクティブ』


 そして、セイルは反射的に引き金を引いた。


「ギャアア、シャアァ、ギャアア」


 放たれた青白い高エネルギー弾がヴェーガの胸部に命中した。セイルは続けて二体目のヴェーガにもエネルギー弾を撃った。生きるために、ヴェーガから逃れるために無我夢中だった。


「ギャアアア、キュアアアア」


 今までに味わったことのない強烈な痛みで、ヴェーガ達はもだえ苦しみ、悲鳴を上げた。

 セイルから見ると、エネルギー弾はヴェーガにそれぞれ二発ずつ当たったように見えた。だが、実際はヴェーガに六発ずつ命中していた。身体こそ貫通しなかったが、高エネルギー弾を受けたヴェーガの皮膚は大きく焼けただれげていた。さきほど通路で受けたレーザーを学習していたはずのヴェーガは、大きく身体を振り、よろめきその場に片足を着いて、しゃがみ込んだ。


 セイルには自身の一連の動作が全てスローモーションのように感じた。


「何!」

「馬鹿な!こんなことが!」


 ヴェーガ二体はしゃがみ込んだ状態から動けそうになかった。事実上の戦闘不能状態だった。


「やった……」

 セイルはひとまずあんした。


 ヴェーガ二体の襲撃からセイルが助かったのをイシュタルは確認した。フェベルも同様にそれを確認した。ヴェーガを率いてきたフェベルにとって、それは信じられない光景だった。


「エネルギー兵器だと、そんなヴェーガが……くっ!」


 ヴェーガの攻撃がすぐさまイシュタルからセイルに変わった。

 複数の光弾がセイルへと放たれた。ヴェーガはセイルがイシュタルほどの身体能力がないことを知っていた。いくら武器を手に入れたとしても、しょせんは人間だ。排除できるきょうすみやかに排除する。今、この瞬間、フェベルはセイルを始末することにしたのだ。


「うわっ!」

 光弾が迫って来るのを目にしたセイル。

 だが動けるはずもなかった。セイルは反射的に目を閉じた。


『自動防御システム・アクティブ』


 だが、セイルは身体のどこにも痛みを感じなかった。加えて身体の感覚があり、意識もちゃんとあった。現状確認のためにセイルはゆっくりと目を開いた。


「これは……一体?」


 ヴェーガの光弾がセイルからそれていっていた。セイルに当たるはずの光弾がそれていく。まるで光弾が意志を持っているかのようにセイルの身体を避けていた。


「当たらない。そんな馬鹿な!あの少年、一体何を……」

 フェベルはこの現象の理由を説明できなかった。


『防御システム再起動まで:5秒』


 フェベルがセイルに気を取られているのをイシュタルは見逃さなかった。イシュタルはすかさずフェベルのヴェーガへひざりを行った。


「しまった……」


 フェベルのヴェーガが壁に倒れかかる。

 ヴェーガによる集中砲火がなくなったイシュタルは一気にヴェーガ達へ反撃を開始。天井の上にいる二体のヴェーガを倒すため、大きく跳躍して上の階層に行き、ヴェーガの右脚へ回転りを命中させた。


「ギャアア」


 りを受けたヴェーガが悲痛な叫び声を上げ、姿勢を崩しそのまま倒れた。どうやらだいたい骨が折れたようだ。何とか立とうとしていたが、いくらなんでもそれは無理だ。怒りと痛み両方を訴える強烈なさけび声が響き渡る。

 イシュタルの動きに気が付いたもう一体のヴェーガがイシュタルの姿を捉えた。そして光弾を撃とうとするが、その前に強烈な打撃を食らい、攻撃は中断した。


「ギャア……ア」


 ヴェーガはそのまま気を失い地面に倒れた。しかし死んだわけではない。通常の生物ならば確実に死んでいるだろうが、ヴェーガの生命力はイシュタルの予想をはるかに上回るものだ。


「この化け物め!」

「くそ、なんて奴だ!」


 事が終わるとすみやかにイシュタルがセイルの元に戻った。

「セイル、は?」

「大丈夫だよ。イシュタルの方こそ大丈夫?」

「ええ、大丈夫です。心配をかけました」

「とにかく、急いでここから出よう。まだ後続部隊が大勢いる。それに、ヴェーガは時間が経てば回復する。今のうちに離れないと」


 セイルの端末は特別騎甲大隊の騎兵部隊とウォンクス部隊が迫っていることを伝えていた。


「行こう。ヴェーガだけに気を取られるわけにはいかない」


 二人はすぐに移動を開始する。


「ヴェーガが収束レーザーを撃てるとは驚きました。それにあの生命力、恐ろしい生物ですね」

「ああ、あれなら戦争で大きく活躍する。なんて生き物だ。国を滅ぼすこともできるとは言われていたんでけど、本当だったなんて。それにしてもこの武器は?」


 重量はほとんどなく、握っているという感覚がわかる程度だ。そのため、簡単に片手で扱うことが可能である。この武器が太古に作られたレーザー銃なのはセイルでもわかった。なぜなら、《失われた旧世界》の遺跡にはレーザー系の仕掛けや防衛システムが多いためで、帝国でもレーザー兵器を完成させてはいないからだった。遺跡でセイルもレーザー機銃のセキュリティに引っかかってしまい、あやうく命を落としそうになったことがあった。


「私も詳しいことは知りません。何しろ、試作段階のものですので。ただ、あらゆる場面での使用が想定されて開発された光学銃のようです。そのため、射撃時には様々なモードが存在し、数秒間だけですが、使用者に命中する敵の攻撃を自動的に無力化します。ただ、この自動防御システムはどう時間が限られており少しの間しか機能しません。注意してください。自動防御システムは少し時間が経過すれば再び使用可能となるようです。他にも隠された機能があるようですが、今の私には情報がありません」


「この銃のおかげであの時助かったわけか……本当にすごいな。でも、こいつをここに置いてはいけないな」


 セイルは荷物となるのに先ほど落とした自分の銃を拾いベルトに収めた。確かに威力も使い勝手もレーザー銃の方が申し分なかったが、自分が長い間使ってきた銃を捨てようという気にはならなかったのだ。


「この先に行けば、ここから脱出ができます」

「よし」


「シャアアアアア!」


 そのさけび声にハッとして、二人が後ろを振り返った。

 やはり視線の先にいたのはフェベルとその相棒のヴェーガだ。


「お前達を逃がすわけにはいかない!ここで死ね!」


 二人を生かして逃がすまいと、フェベルはヴェーガの背中に乗っていながら式連射小銃を撃ってきた……最後の追撃だ。ヴェーガはイシュタルを倒すことをあきらめてはいない。

 それはうらみと執着心、そして自尊心から来るものだ。過去、最強の戦闘生物ヴェーガに目をつけられて逃げ切れたものはいなかった。だが今、目の前に自分にりを入れ、仲間である特別騎甲大隊の兵士を大勢殺し、主人フェベルの命まで奪おうとしたものがいる。イシュタルをみすみす逃すわけにはいかなった。


「キィィイシィャアアアアアア!」


「セイル、私の背中に!」


 そう言われたセイルはイシュタルの背中に飛び乗った。


「飛ばします。しっかりつかまっていてください!」


 セイルを背中に背負ったにもかかわらず、イシュタルの走る速度は上がっていった。


「うわっ……」


 イシュタルの速度が上昇するにつれセイルの顔に当たる風が強くなる。目を開けることも難しくなりセイルは自然と目を閉じていた。


「シャアアアアア!」


 フェベルとヴェーガの距離が段々開いていた。

 フェベルはイシュタルとセイルが遠ざかっていくその姿をどうすることもできない。式連射小銃もここまで距離が離れると射程外であった。それでも、彼は銃を撃ち続けた。


「シャアアアアア!」


『侵入者のため第四脱出路を緊急閉鎖します』


 通常の遺跡における規定では脱出路まで閉鎖することはない。しかし、上の通路から天井を破壊してきたヴェーガにより、遺跡のセキュリティシステムは脱出路の閉鎖を決定したようだ。イシュタルとセイルがヴェーガから離れたことを確認したと同時に第四脱出路の封鎖を開始した。


『侵入者のため第四脱出路を緊急閉鎖します』


 二人の後ろで通路をふさぐ分厚い隔壁が下ろされ、その瞬間、ヴェーガの声は聞こえなくなった。


「セイル、ヴェーガを振り切りましたよ」

「……あ、ああ。助かった……」

「脱出まで、もう少しです」


 イシュタルとセイルがいるのは第五非常用脱出路。この先にセイルの端末が示す最終目的地がある。周辺に敵の反応はなかった。


(イシュタルから体温を感じる……温かい)

 

 イシュタルの背中に乗っているセイル。

 彼女の肌から人間と同じ体温の温かさを感じた。高速で走るため、風当たりが強く冷たいのも事実であるが、イシュタルは温かかった。幼い頃からようへい部隊の元で育てられたセイルには本当の両親がいなかった。

 もちろん、ようへい部隊のみんなは彼を家族のように愛情をもって育てた。特に、部隊の隊長は彼の父親代わりでもあった。人の肌の温かさを教えてくれたのは隊長だった。しかし、家族であるようへい部隊のみんなは特定危険種により殺されてしまった。もうこの世界のどこにもいないのだ。


 セイルの心はいつも冬だ。

 長い長い冬だ。

 でも、その冬はだいに過ぎ去ろうとしている。


「セイル、見えてきました。あれが、脱出用の転送装置です。あれに乗れば、ここから遠く離れたところに行けます」


 イシュタルが大きく跳躍したかと思うと、その瞬間、転送装置が自動的に起動し二人が大きな光に包まれた。


 そして数秒後、二人の姿は完全に消えてなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る