(β+α)アニマ (1)

 ずっと、他人が嫌いだった。興味も無いし、触れ合いたくもない。でもそれは今となってはきっと嘘。先生を知って、他者と関わりたいという気持ちを知って、先生を失って、また嫌いになった。

 でもどうしてか、今は嫌いじゃないんだ。嫌いではない、でも好きでもない、そういった曖昧な感情のハザマにいる。私は先生を探している。どうして会わなかったのかと、少し後悔している。セツナに出会った、マリにも出会って友達が出来た。でもセツナは私を避けている。

 「嫌いにはならない」

 夕焼けの空の下。中村に言われた住所のアパートに着いた。外見はボロボロで、中村の部屋は2階のようだった。今にも崩れそうな階段を一段ずつあがっていくと、手を繋いだ親子が上から降りてきた。

 「ねえ、ママ。今日はお父さん帰ってくるかな?」

 「そうねえ、今日は給料日だからみんなでご飯を食べに行くのよね」

 子供は満面の笑みで母親に笑い返す。子供が母親をせかす。母親は子供の手を離さない。そんな一連の動作の、何を気にしているんだろう。

 「…ここだ」

 中村の部屋の扉の前には、おそらく払っていない請求書だろうか、紙切れがポストからはみ出ている。おまけにカギは指しっぱなしで開いていた。

 すると、なにやら小さなヴァイオリンの音色が聞こえてきた。中村のあのゴツそうな手で、繊細な音が出せるのだろうかと思ってしまった。

 「お邪魔します…中村さん、刑事、いるの?」

 中に入ると、靴は無く薄暗い空間が広がっていた。私が入った瞬間に、あのヴァイオリンの音は消えてしまった。

 電気を探すうちに、リビングのような広い空間に出ると、ガサゴソと音がした。はじめは虫でも、と思ったがどうやらこちらに近づいているようであった。

 「…誰か、いるの?!いるなら出てきて!」

 黒い影、同じくらいの身長の誰かが近づいてきたため私は後ずさりをする。すると夕日の一点の光がそのものの正体を明らかにした。

 夕日が指し示したのは、赤い瞳と青い瞳を持つ黒髪の少年の姿だった。まさか、と思い名前を口にしてみる。

 「…エンブリヲ」

 するとエンブリヲと思われる人物は、部屋の明かりをつけた。

そしてその姿がはっきりと、おまけに部屋の汚さも十分に分かるようになったのだった。

 「えっ…し、した、はいてよ!!」

 そして、さらに彼の身体全ても。

 エンブリヲはシャワーにでも入っていたのか、裸だったのだ。

 「ごめん。これはわざとだ。君たちの仲を深めるための」

 エンブリヲの思わぬ一言に、私はもう一度エンブリヲを見て

 「あっ…」

また赤面する。

 「新たなる同居人、ようこそ。中村邸へ。諸事情により、エンブリヲはこうして与えられた言葉しか話すことが出来ない。俺は朝帰りだから、明日の夜歓迎パーティーをやる。そんじゃ、中村より」

 私は、このエンブリヲの言っていることが中村によって言わされているのを知りなんだかほっとした。あの時中村が言っていたのは、このことだったのかと理解した。

 「…エンブリヲ、あなたは」

 私がそう言いかけると、エンブリヲはCDプレイヤーのような小型の機械を持ち再生ボタンを押した。

 すると、J.Sバッハの無伴奏チェロ組曲第一番『プレリュード』が聞こえてきた。さっきのヴァイオリンの音色の正体はこれだったようだ。流れていく音がとても心地よい。

 明かりのついたリビングを見渡すと、大きな部屋はここで真ん中に大きな机。あとはトイレとシャワーと仕切られた寝室が二つあった。

 エンブリヲはそのプレイヤーを持ちながら、じっと私を見つめた。

 「…まだちゃんとした自己紹介も何もしてなかった。出会いが突然すぎたから、改めて、ね。私は笹原優芽。いろんな事情が重なって、今日からお邪魔させてもらうことになった同居人。多分母さんが家にちゃんと帰ってきてくれるようになるまで、よろしくね」

 私は思い切って、エンブリヲに手を伸ばした。しかしエンブリヲは、それに目もくれず私を見つめている。と。また、彼に赤面する。

 「…あの、下ちゃんと履いてね。私のタオル貸すから、しっかり隠して…もらえると嬉しいな…と」

 どう接していいのか分からず、ひとまず仕切られている寝室へ向かい荷物を広げた。寝室には中村のものと思われる本が一、二冊置いてありリビングと違ってかなり整理されていた。

 あれから三十分経ったが、いまだあのヴァイオリンの音は消えない。3分ほどの曲を永遠とリピートしているようであった。私がリビングへ見に行くと、エンブリヲは私のタオルを腰に巻いてたたずんでいた。

 「風邪…ひいちゃうと思うけど」

 そう言って私は持ってきたタオルを今度は体用にかけてあげた。おそらくこのまま私が何もしなかったら、彼も何もしないのだろうと思い中村の古臭そうなクローゼットから着れそうなものを着せてあげた。

 「あなたは…何もできないの?どうして何もしないの」

 思わずそう言うと、エンブリヲはいきなりプレイヤーの音楽を止めた。いきなりのことに少し驚いた。

 「横に…なり、たくて」

 音が止まったと同時に、エンブリヲはそう言って急に倒れたのだ。突然の事に私は慌てふためき、彼を中村の寝室へと運んだ。思いのほか彼の身体は軽かった。

 彼に布団をかけると、私は彼の瞳を見て言った。

 「早く寝た方が良いと思う…私にあなたはよく分からないけれど、あなたも私を知らないと思うから、だから、なんて言うか、あんまり深いことは言わない」

 私達にとってこういった関係が一番やりやすいと思うのだ。彼がどうして何も出来ないのか、命令されたことしか言われたことしかできないのか、知らない。でもそこに踏み入らず、お互いに助け合う、ちょうどよい距離。

 「どうして、僕を…僕…を」

 エンブリヲがおどおどしながら言った。なんとなく言いたいことは分かる。

 「お世話になるから…かな…私も分からないや」

 分からない、曖昧な感情でもいいのだと思う。苦手な他者に触れあいたいと思うのではなく、落ち着いた誠実な心を持って接する事。助けたいと思う事、そこにあるのは依存対象ではなく紛れもない他者そのものだから。

 仕切られた寝室。中村のアパートでの初めての夜だ。ベットにはちょうど綺麗な月の光が差し込み、たまに車が一台二台通るほどで静かだった。しかしながら耳をすますと、タタンタタンと遠くから電車の音が聞こえる。それと、あれ?人でにぎわう声だ。

 ——電車?人?そんなもの、近くあったのかな?


 踏切の遮断機の音が聞こえる。線路を挟んで向こう側に母さんが居る。タタンタタン…大きくなる音。母さんの後ろにはたくさんの人が居るようで電車の音よりも騒がしかった。

 ”これもまた、夢のハザマ――”

 私はそう思い、早く目が覚めないかと目を閉じようとした。すると母さんと手を繋いでいる、小さな帽子をかぶった女の子――私だ。私が居るのだ。

 踏切、電車―母さんと手を繋ぐ。ここは私の家の近くの踏切だ。たしか、よく母さんと行っていた公園の帰りにこの場所を通っていた。忘れたい記憶だ。

 ”あれはあなた。あなたが欲しかったあなた。あなたが失いたくなかった自分のカタチ”

 私の耳元でささやく、この冷たい声の主。夢のハザマのセツナだった。

 ”セツナ…”

 セツナは、いきなり銀髪の髪をたなびかせながら遮断機をまたいで電車が来るはずの線路の上へと走っていった。電車の音が徐々に大きくなっている事に気づいた私は、急いで止めようと遮断機をまたごうとした。

 ”セツナ…!危ないから戻って!!”

しかし――

 ”私の事、忘れてない?”

”思い出すまで、こっちに来ないで”

 セツナがそう言って遮断機をまたぐ私を突き飛ばし、その瞬間に電車は線路の上へとやってきた。彼女を、セツナを跳ねたのだ。

 ”セツナッ!!!!…”

 電車が去った後は覚えていない。思い出したくないほど、それらは生々しかった。そして私の全身を悪寒が駆け巡った。体の隅々まで、隙間なく糸が、針が、私を許さない。

 ”イヤああああああ!!!!”



 「ああああああッ…!!!!」

 手汗、息の荒さ、跳ね上がった鼓動、全てを、あの時の自分を思い出した。気づけば朝で、日が差し込んでいた。

 「ああっ…うっ…う」

 夢の中とは言え、そのあまりの生々しさになんだか気分が悪くなってしまった。顔を洗おうと仕切られた寝室を開けると、ぐちゃぐちゃに脱ぎ捨てられた中村の服があった。…どうやら、帰ってきたようだ。

 ドアの向こう、リビングには確かキッチンもあったのだ。何かジュージューと焼いている音がする…何故か、母さんを思い出す。あ、ああ、またあの生々しさが…。

 「おはよう…ございます」

 リビングには、シャワーからあがったばかりのエンブリヲの身体を拭いている中村が居た。中村は女性ものだと思われるエプロンを身に着けている。

 「ああ、おはよう。ユメちゃん。初めての夜はどうだった?それと、卵焼きとスクランブルエッグどっちがいい?」

 中村はそう言いながら、エンブリヲに服を着せた。

 「…変な言い方しないで下さいよ。私は、卵焼きが好きです」

 「リョーカイ☆俺はこう見えても、料理はちょっと出来るんだよ。どう?君は出来るの?」

 私は中村から目をそらした。母から料理など教わった記憶がない――…むしろ教わろうとも言わず、言えなかった。いつも私を一人にしていたから

 「できません…」

 中村は私を見て何かを察したのか、近づいてきて頭に優しく手を置かれた。

 「いいんだよ。知らないならこれから知っていけばいい。今日の夜、君のパーティーをやるから、その時教えるね」

 「私のパーティー…?そんなわざわざ」

 「な、エンブリヲ。昨日はエンブリヲの世話を見てくれてありがとう、ユメちゃん。詳しいことは夜話すよ。さ、卵焼きが冷めちゃうから」

 そう言って、中村は自家製の卵焼きを出してきた。焼きたてということもあり、とても美味しそうだ。

 「じゃあ、あの、いただきます…」

 一口食べる、と卵焼きの独特の風味が口いっぱいに広がった。噛めば噛むほど、味が出てとても美味しい――マリの自家製卵焼きとは、また違う味がするのだ。そしていつしかあの嫌な夢によって引き起こされた悪い気分はふっとんでいた。

 「ど?うまいでしょ」

 「美味しいです…!なんだか心からぽかぽかしました。実はさっき嫌な夢を見て――それさえもふっとんでしまうような…あ!もう学校に行く時間なので、早くしたくしないと…」

  急いで着替え、荷物を持って玄関に向かった。

 「ユメちゃん、はい。これ、お弁当。卵焼き2倍増し♡」

  自分のために誰かが何かを作ってくれることがまた嬉しいと感じた――でも今感じているのは、どこかマリとは違う。安心感だ。

 「ありがとうございます!じゃあ、また夜!いってきます!」

 「いってらっしゃい!ほら、エンブリヲも、”いってらっしゃい”」

 「いってらっしゃい」

  私は中村の弁当を受け取り、アパートの階段を降りて学校へと向かった。

 胸の高鳴りが、抑えきれなかった―――ひどい夢など、無かったかのように。


 「俺以外の誰かに看病してもらうのも、悪くないだろ」

 中村はそう言って玄関の扉を静かに閉めると、エンブリヲにそう言った。

 「ここまでは全て俺の計画通りか――…彼女の言う、”悪い夢”について詳しく聞かないとな。エンブリヲ、ふろ場に行って。”アニマ”に浸からないと君は動けなくなる」

 エンブリヲはうなずき、服を脱いで浴槽へと向かった。そこには、水色のどろどろとした液体が入っていた。エンブリヲがその中に浸かると、白色に輝く光の玉が彼の身体に吸収されていった。

 「…その時が来るまで。時が来たら、君は解放される。希望の十二使徒としてね」

 エンブリヲは茫然と中村の眼を見ていた。


 「ペテロ様、精神病院から娘を誘拐に成功」

 ヨハネのセナクルへと向かう廊下で職員がづかづかと歩くペテロにそう言った。ペテロはカラスの仮面をつけ、長い白髪をたなびかせている。ペテロはそう聞くと、鼻を鳴らしてセナクルの扉を開いた。

 「どうも。マリアの調子はいかがですかな?」

 「ペテロ…まだ十分に魂は集まっておらん。早くマタイたちをせかすのだ。はて…あの娘をどう使うつもりで」

 「あの娘から偉大なるアニマが抽出された、とマタイが申していて…うまく使えるかと。使え無くなれば、あのような娘はいくらでもおりますので心配なく」

 ペテロはスクリーンの富豪たちにそう告げた。

 「それと不幸なお知らせです…我々が拠点としていた病院ですが、内通者の密告により警察に足止めをくらいました。自分のホルマリン漬け達も押収され、かなり危険な状態で」

 富豪たちはそう言われ、どよめきだした。

 「…内通者とは?」

 「はて。自分には分かりませんが、可能性があるのなら…最近何かと副幹部の姿を見かけませんが」

 「まさか奴が…?非道な奴なら人間をだましていそうだな」

 「奴の心臓はもはや我々の手の中だよ。奴の元にはエンブリヲがおる。いざとなればそやつを利用すれば善い――」

 「今は泳がせておくと?…それもよいと思います」

 ペテロは納得したような余裕な表情を見せ、セナクルを後にしたのだった。



―――冬夜くんには、会えなかった。ママにも会えなかった。一人になった。怖い、取り残されたんだ。誰もいないんだ。ここは真っ暗なんだ、ママを呼べばすぐ来てくれたのにどこにもいないんだ。不安で、嫌いなもの、お願い、お願い、誰でもいいから、誰か私を思い出させて、

 「誰か返事をしてよ!ママ!!」

 クロス交差点の出来事から数日――…アヤは救急隊員に運ばれ、精神不安定となり抜け殻のように過ごしていた。そして現在、彼女はヨハネの組織の職員に連れ去られ、鉄の台の上に手足を拘束され乗せられていた。

 「ここ…どこ…だれ…か」

 「あれ?話せるのね。病院に居た時は抜け殻だったくせに。マリアに近いからかしら」

 ショートカットの白髪の髪—マタイがにやけながら、アヤにそう言った。

 「トマスには会えない、”ママ”なんて初めからいなかったくせに…どう?怖いでしょ?もう一度虚構へ帰りたい?あなたが好きな場所でしょう? 」

 マタイにそう言われ、アヤは込み上げてきた涙を必死に抑えようとする。

 「私達はあなたの”イマジナリー”の力が欲しい」

 聞きなれない言葉に、アヤは困惑する。

 「いまじなりー…」

 「アニマの大きさは、ヒトのイマジナリーの力と比例する。心のセマい人間ほど小さいってワケ。協力してくれるなら、冬夜にも会える。あんたの言う”ママ”と半永久的に一緒に居られるよ」

 彼女が言っている事はよく分からない。でも、私の返事一つでママに会えるのなら――冬夜くんにも会えるのなら

 「いいよ…」

 会えるのなら、もうどうだっていい。そう思ってしまった。

 アヤがそう言うと、マタイはにやりと口角を上げ力でアヤを気絶させた。

 「よくやった。マタイ…」

 陰から仮面の男—-ペテロがやってきた。

 「イマジナリーの力は、人間にしか生まれない。我々がどうあがいても、イマジナリーを持つ生命体は人工的に作れない」

 「皮肉なことに…母親のアイが必要だった。私達、卵生ヒト型には宿ることの無い制御不可能なアニマ…不安定かつ非効率な感情とともにやってくる物体そのもの」

 「その通りだ、マタイ。しかし一つ違うとすれば、母親のアイは我々で書き換えることが出来るという事だ。アイそのものがイマジナリーを作るのではない」

 ペテロはそう言うと、自身の仮面を外しその赤い目の眼光を明らかにした。そして自身がかぶっていた仮面を、横たわるアヤに着けた。


 「イマジナリーが、アイを作るんだよ」

 


 



 

 





 

 

 

 

 

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hOpe 水野スイ @asukasann

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