チャプタ― :α+1
先生が逮捕されたことは、瞬く間にクラス中、学校中に伝わった。そこで、事件が起こったと推定される時期にカウンセリングを受けていた私にも事情聴取の紙が来たのだった。
よく母親が帰ってこない日に、一人で見ていた刑事ドラマの取り調べ。まさにあのような、張り詰めた空気の中に連れてこられ、嫌な空気を吸う羽目になった。
眼鏡をかけた古臭い匂いのするジャケットをかぶった刑事と面と面を合わせる形で座る。「先生」のカウンセリングと同じ配置、でもこれは違う。
ああ、早く帰りたい。
「君が笹原優芽さんだね。林由紀子のカウンセリングを受けていたそうだが、何か変わったことは無かったのか?」
ずっと先生だけを、先生のために生きてきた私が変化に気づかないはずが無かった。思い当たる節なんて沢山ある、だがしかしそれを言うのは、自分で、先生の、その、そういうことを、認めてしまうことになる。
「…言いたくは無いか」
顔も、目も合わせない私に刑事は長年の勘で気づいたのだろう。刑事は、ふうとため息を付くと「つらいならいいよ。そういえば、林が君と話がしたいと言っているそうだが」と言った。思わず、私は「え、」と声を漏らす。
「話をして、何か思い出せるならそれでもかまわない。問題は、君の返事だ」
ふいに、刑事と目を合わせ、目線を落とし、私はため息をつく。
「機会があれば…今は何も話すことはありませんので」
そう言って、今日は解放してもらった事に安堵するばかりだった。警察署から出たころには、日も落ちて、少し肌寒くなっていた。とんでもなく、くだらない時間を使ってしまったと、どこか自分を落ち着かせながら帰路に着いたのであった。
誰もいない薄暗い家のドアを開け、今にも切れてしまいそうな蛍光灯を付ける。しかし…暖房を付けようとするも止められている事に気が付いた。
「今月も払い忘れたのか…あの人」
かろうじて見える、リビングの机の上にある置手紙と3万円は1週間前から変わらない。「好きな物を食べなさい」「何かあったら警察を呼びなさい」、その2行で私の心が救われるわけでも、おなかが満腹になる事も無かった。
1週間ごとに帰ってきて、ただこの2行と3枚の紙切れを置いてゆく。今回は、1週間を過ぎても帰ってこない。
「もう、どうでもいいや」
2か月前に、母の興味を引くために盗んだ1万円のお釣りを握りしめて。今日もコンビニへと向かい、鱈子おにぎりと、和風ドレッシングのサラダを買う。最近は、いや毎日こればかりだから、そろそろコンビニであだ名をつけられるのだろうか…そんな風に、私も誰かに気にかけてもらいたい。
「合計で267円です。袋はいりますか?」
そういう時に限って、「先生」の顔が頭に浮かび、捨てられない電話番号の紙を思い出す。本当は、最後のカウンセリングの日に、はさみで丁寧に切り刻んで川に捨てた。でも、あの電話番号だけはきっと、何回でも思い返せるのだから。
「あの…袋は、」
「あ、すみません。袋はいらないです」
自分の部屋に戻ると、「おやすみ」と誰かにつぶやく。今もどこかで、孤独な人は孤独に目をつむる。孤独な世界で、孤独な夢を見る。だから、どこかに居る誰かに心を届けようと思う。いいや、そうじゃない。そう言って、誰かが居るようにまた自分が居ることを確かめているだけだ。
その日の夜は、暖房がないせいか、とてもとても寒かった。半分破けた靴下のせいか、こうして夜な夜な孤独を感じるせいか。そんなのはどうだってよい。
そして無意識に、涙を流した。
「ごめんなさい、先生」
2年ぶりに感じた悲しさと、自分の勝手さを感じる。やはり、私が先生を好きだったのは偽りで、依存という欲に満ち満ちた塊にうぬぼれていた。そう、たった、ただそれだけ。
一度も電話をかけなかったのはかける勇気も無く、偽りの感情に浸るなら忘れようと思っていた。それが私にとっても、先生にとっても、いいことだから。
「先生、私はあなたに会ったらまたあなたに依存してしまうのでしょうか」
偽り、知らない、どうでもいい、わからない、そういう感情の波が押し寄せてくる。そういう時は決まって、先生の電話番号を思い出す。
でも、わからない感情だらけだから、枕に顔をうずめることしか、まだ私には出来ない。
――――――
ここは、先生と私だけのカウンセリングの部屋。
部屋にあるのは、パイプ椅子が二つ、大きめの木でできたテーブル。イチョウの木が見える小窓。世界中を探しても、見つかることは無い。ここにしか無い特別な空間と時間。
―――枕に顔をうずめたと思えば、気づけば自分は制服を着ていて、いつのまにか学校のカウンセリングルームに居る。これは現実では無いことは、すぐに分かる。小窓から見えるイチョウの木は見えず、まばゆい光で照らされ、何も見えない。
…昔本で読んだことがある、いわゆる精神世界というやつだろうか。精神が脳で具現化され、はっきりした夢。でも、夢じゃない、もう一つの世界、と呼ぶべき場所。
そして今私の目の前には、私と同じくらいの歳の女の子が居る。
―――白い、グレーがかかった髪の毛の色。小窓のまばゆい光に照らされ、テーブルが反射した光で見える彼女の透き通る青白い瞳。
「あなた、誰?」
―――私は、彼女に聞く。彼女は、ゆっくりと口を開く。
「誰でもない。あなたが、私を呼んだのよ」
―――高い声、でも耳にスッと入ってくる。風のようなそんな響きをしている。
「呼んだ…?一体、何をどこで」
「あなたが私を作った。だから、私はあなたに呼ばれた」
―――作った?私は彼女の言っている事が分からなかった。
「何を作ったの?なぜ私があなたを、」
―――彼女の青白い瞳は、彼女の不気味な笑みと共に真っ赤な瞳に変化した。
「大丈夫、もうすぐ会えるから」
―――彼女がそう言うと、小窓の光は眩しさを増し、私は目を背ける。あまりの眩しさに、目が開けられなくなった。
――――――
荒い息、手足には汗が。うつ伏せで、枕に顔をしずめていたのに、仰向けでただ茫然としている私を、朝日が照らす。その時、玄関のドアが開く音がした。
私は、荒い息を落ち着かせ、布団を被り直し、またうつ伏せで枕に顔をしずめる。そうして、少しの期待と大きな不安が混じった感情のまま。また眠りに付こうとした。
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