第2話 二宮編 散歩

 条件の良い駐車場を探してウロウロするのは人のさがといっていい。そして、「もっといい条件があるんじゃないか」と思っているウチに、大して変わり映えのしない駐車場を選んでしまうのは世のことわりといえるだろう。

 つまり、端的に言うと、一度は吾妻山目的地の麓まで行ったのだが、上記の「理」に導かれて、結局のところ離れた臨時駐車場に停めたということだ。しかし、それは「人の性」なので仕方がないことである。

 

 とにかく、天気は快晴である。

 季節は、9月の中旬。日差しは相変わらず暴力的だが、潮風の中にどこはかとなく感じられる秋の臭いが心地いい。私達は、不愛想だが丁寧な警備員へ数百円を支払うと、目的地である吾妻山――吾妻神社の(おそらく)正面入り口にあたる梅沢登り口へ向かった。

 梅沢登り口は、私達が車を停めた臨時駐車場からざっと1.5キロ(あくまで体感。地図調べることは面倒くさいのでしくない)ぐらいある。商店街を抜けたら、東海道線の二宮駅をかすめて線路沿いに歩く。

 実を言うと、神社までの最短コースは市役所のすぐ横を抜けていくルートなのだが、目的が参拝なので、ここは正面からのアプローチにこだわりたい。もっといえば、正面の参道がどちら側なのかもよくわからないけど、たぶん海側からの方が正解と思うので、そちらを選択した。こんないい加減でいいのかと、お叱りを受けるかもしれないが、無知故の行動が思わぬ嬉しい出会いを生む事がある。今回の嬉しい出会いは、二宮駅前(北口側)商店街の一角で店を構えるパン屋だった。


 二宮駅前の商店街を一言で形容すると、「手のひらに収まる」である。

 まず商店街へのアプローチからして控えめだ。我々が停めた駐車場からは、県道秦野二宮線の生涯学習センター前交差点を右折して商店街へと赴くのだが、この右折がかなり鋭角に入っていくのだ。直角ズドンという区画整理の雰囲気はどこにもなく、「ちょっとごめんよ」ってな感じ。いみじくもJR東海道線という主要公共交通機関へのアクセスとはとうてい思えない。

 商店街はひなびていない。

 現在は、平日の10時前後なのだが、人通りはそれなりにある。年代を感じる店に混じって、新しくオープンした店もちらほらと見える。こういう、新旧の勢力が適度に混ざり合う街というのは、健全な経済活動が維持されている指標になるんだろう。

 隣を見ると、商店街好きの妻がワクワクし始めている。彼女は商店街が大好きで、商店街巡りという謎の娯楽を夫婦の休日に持ち込んだほどだ。なんでも、生まれ変わったら、商店街で総菜屋をやりたいらしい。


 さてさて、パン屋の話である。

 その店は、商店街の入口から駅までの中ほどにあった。おそらくリフォームして開店したのであろう店構えは、手作り感がある。妙にチャラついたりしていない雰囲気は、二宮の町と絶妙にマッチしていて、部外者としては嬉しい限りである。

「良さそうなパン屋だね」

 妻が私に声をかける。

 「良さそうだ」とは、なかなかに上から目線だと思うかもしれないが、これ以外にベストマッチする形容詞が見つからないのだ。これが「美味しそう」だけでも「かわいい」でもだめ。そういうのをすべて含んだ「良さそう」なのだ。彼女は正しい。

「なにか買っていきたい?」

「おにぎり持って来たんだけど、二個づつしかないんだ」

「おにぎり、持って来てたの?」

 気付かなかった。でも、言われてみれば、朝、台所の方で楽しそうに作業をしていた気がする。聞いてみると、朝ごはんを準備するついでに握ったらしい。彼女の中では、吾妻山=ピクニックという構図が出来上がっていたのかもしれない。ピクニックには、おにぎりかサンドイッチだろう。

「じゃあ、入ろう」

 正直なところ、おにぎりが二個あれば腹も膨れるだろうと思ったのだが、彼女いわく、今日のおにぎりは小さかったらしい。こういう時、自分の感覚よりも妻の感覚の方を信用してしまうのは、きっと、胃どころか腸まで握られているのを自覚しているからだ。我ながら困ったものである。


 売り場スペースは二畳ほどだろうか。綺麗な焼き色がついたパンが、所狭しと並べられている。種類は多くはなく、素朴なラインナップ。私はその中でも、子供のころから愛してやまないアイツに目を奪われた。メロンパンである。

 最近では、様々なバリエーションが出てきており、レモン風味のメロンパンなどという迷走すら見られる。

 あえて邪道とはいうまい。メロンパンとはメロンに寄せることが目的ではないのだ。あの芳ばしいクッキー生地と安心する甘さがメロンパンなのであって、レモン風味だろうが、抹茶風味だろうが、どうでもいい。ただ、申し訳程度に数パーセントの果汁を入れるのだけはどうかと思う。効果があれば別だが、「果汁が入っている」ということ自体に意味を見出しているのなら、即刻辞めて、堂々と果汁なしメロンパンとして売り出して欲しい。カニパンにカニが入っていなくてもいいように、メロンパンがメロン風味である必要はないのだ。

 話が逸れた。この店の話である。この店の主戦力であるメロンパン(勝手に決めた)は、昔ながらのバター系メロンパンである。しっかりとしたクッキー生地が美しい。批判覚悟で物を言わせていただくと、中にクリームが入っているタイプを、私はメロンパンとは呼ばない。あれは、メロンパン風クリームパンである。どちらも美味しいが、用途が違うのだよ、用途が。


 道草をしっかり食ったところで、散歩を再開。

 メロンパンというご褒美が約束されたところで、妻の足取りは軽くなったらしい。私も、機嫌のよい人の傍にいるのは好きなので、ついつい笑顔になる。くだらない話をしながら、「吾妻山こっち」と誘導している看板を無視して、山の南面へと向かった。

 参道の入口は、東海道線に沿って走る道路に面していた。コンクリートの擁壁が一部だけ途切れていて、そこから階段が覗いている。脇に大きな案内板があり、現在地と目的地を示してくれていた。

 うん、公共機関が設置したと一目でわかる案内板である。面白さを極限まで排除し、効率的でおそろしいほど無難な感じに収めている。おそらく日本人にとって、非効率とか不便とかは、忌むべきだけの存在なのだろう。非効率の権化である私を見習えば、少しは遊び心と余裕が生まれるかもしれないのに、残念である(ただし、出世はみこめないのだ)。 


 参道に入ると、木々が太陽の日差しを遮ってくれた。例によって、木と土が音を吸収してくれるので、突然別世界に放り込まれたかのような感覚に襲われる。日が指す「向こう側」の世界を、影から覗いている感じ。楽しい違和感である。

 この違和感のことをを大げさに言うと、神域とか聖域と呼ぶのかもしれないが、我々夫婦は「非日常感」という一語で片付けてしまう。まったくもって無知蒙昧の輩というのは恐ろしい。神社に行くのも、アメリカネズミに会いに行くのも、同じ感覚なのだ。いやはや、バチが当たらなければいいのだが、それこそ神のみぞしるだろう。

 ちなみに、この参道の入口にはもう一つの神社――小さな祠がある。その境内には、ちょっとしたスペースと遊具があるのだが、どっからどうみても最近の子供が楽しめるような遊具ではない。昭和初期のが豆腐屋のラッパとともに漂ってきそうなノスタルジックがほとばしっていて、先ほど話した空間的違和感に、時間的違和感まで付与させている。つまり、この境内は空間と時間のハイブリッド異空間なのであって、非日常感を味わいたい人は、ぜひ訪れて欲しい。年中無休かつ無料だから安心して欲しい。行列も間違いなくできない。


 祠に挨拶を済ませて進んでいくと、道はスイッチバック式のジグザク階段道になる。低い木々がトンネルのようになっていて、とても楽しい。山をぶち抜くトンネルと違って、こちとら太陽光を和らげつつ風を通す素敵装置付きだ。木漏れ日と木漏れ潮風(?)が、運動不足の妻を何とか前に進ませてくれている。ところどこに、びっくりするぐらいデカいジョロウグモがいるものの、あえて巣を壊して道を開くなんてことはしない。ここは私達の土地ではないのだ。私達の都合で、好き勝手してはいけないと思う。


 さあ、ようやく目的地についた。吾妻神社である。

 鳥居をくぐると、真直ぐに石畳が拝殿に伸びている。こんもりとした木々が周囲を覆っているが、境内にはさんさんと太陽光がさしていて、さっきまで木々のトンネルを歩いていた分、突然開ける感じが一種の舞台装置になっている。

 境内の掲示板には、当神社についての説明文がある。読むと、二宮町のホームページに書いてあったとおり、日本武尊を救うために、妻の弟橘姫おとたちばなひめが海に身を投じた話が書いてある。その櫛が流れ着いたのが、この二宮海岸で、袖が流れ着いたのが千葉県袖ケ浦。「ああ吾が妻よ」ということで吾妻の地名が神奈川に付いて、袖の流れ着いた場所は袖ケ浦になったそうな。

 ほんまかいな、とは言わない。どうやって弟橘姫の櫛だと分かったのだろうかとも言わない。重要なのはエピソードであって、それが信仰の対象なのだ。立証する必要も、御神体がそこにある必要もないというのは、仏像好きの私からすると新鮮に感じる。


 参拝を終え、ふと振り返ると、真っ直ぐに伸びた石畳が鳥居へと繋がっているのが見えた。そして、さらに鳥居の奥には木々の隙間からのぞく海――。

 

 なるほど、この神社がここに建立された理由が分かる。ここは、人々が祈りを捧げる場所ではなくて、弟橘姫を祭るための施設なのだ。だから、一番良い景色を彼女が楽しめるように設計されている。木々のトンネルから開けた境内へと続く舞台装置は、彼女を慰めるために人々を集める仕掛けなのだろう。

 考えすぎか。でも、想像は自由である。広く伸びた蜘蛛の巣に、自分がフラフラと導かれていくところを想像して、なんだか笑えてしまった。神代から続く舞台装置は、電池も化石燃料も必要としないで、未だ稼働中ということか。こんなところに永久供養システムを構築するなんて、日本武尊はなかなかの愛妻家だったのかもしれない。




 吾妻神社から少しだけ、ほんの少しだけ階段を上ると、そこはぽっかりと開けた吾妻山の山頂。綺麗に整備された山頂の公園は芝生に覆われ、相模湾がマルっと全て見渡すことができる。釣り客を乗せた漁船が、陽光を反射させながら進んでいる。彼等も、こんなところから見られているとは思ってもいないだろう。さすがに釣果までは見えない。

 石で組み上げられた展望台で、妻と並んでおにぎりを食べる。具はから揚げと昆布。手で握ったおにぎりというのは、適度に水分が抜けて美味い。サランラップで形成したものは、おにぎりでは無く米の四方固めだと声を大にして言いたい。

「おいしい」 

 本音だが、気の利かない感想に、妻は苦笑している。しかし、ながながと感想をいうのもわざとらしいので「ありがとう」とだけ付け加えておいた。これも本音である。

 

 二個のおにぎりは、あっという間に食べ終わった。そして、途中で買ったメロンパンに手が伸びる。

 芳ばしいバターの香りが口から鼻にぬける。素朴だが、我々には十分な味。腹の具合も彼女の読み通りだった。

 

 ああ、我が妻よ(君は正しい)と、私も言いたくなった二宮散歩であった。






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