よすが


「生きてる価値あるんですか? こんな手遅れの世界」


 唐突なその質問に、僕は思わず吹き出しそうになってしまう。

 天使は僕の反応を見て何か次の言葉を口にしようと思案し、けれど何も思い浮かばなかったのか、そのまま口をつぐんだ。

「あるわけねえだろ、そんなもん」

 だから、僕ははっきりとその問いに即答する。

「勘違いすんなよ、最初っから価値なんてねえし、最初っから手遅れなんだよ」

 僕らにとってこの世界はゴミ箱に等しい。何しろ余計なものが多すぎるし、大抵の現実は僕らを損ない傷つける毒だ。その苦しみのすべてを詳らかにしようとは思わないけれど、説明するまでもなくそんなものに価値なんてない。

「いくら手遅れになっても、取り返しがつかなくても、大損こいても負債だらけでも借金まみれで世界は続くんだ。そんなゴミ箱に価値なんかねえって」

 生きるに値する世界なんかじゃない。けれど何の因果か生まれてきて、ここまで生きてきてしまった。

 僕を取り巻く世界に楽しいことなんて欠片ほどもなくて、この人生は苦痛と惰性の連続だ。足りないものを数え上げればきりがない。僕らに降りかかるあらゆる現実は自分の力ではどうすることもできないことばかりで、どれだけもがいたところで藁の一本すら掴めやしない。

 失い続け、奪われ続け、損ない続け、負け続ける。僕らにとって人生とはそういうゲームで、けれど退場する勇気もないから、どんなに擦り切れ傷ついても無様にここまで生きてきた。

 そうして気づけば人類は終わってしまって、それでも未だ世界は続いている。中身が減ったところでゴミ箱はゴミ箱で、そんなものに価値はないと僕は思う。

「だから俺たちは……ゴミ山の中から一番マシなガラクタを拾って、それを大事に抱えて騙し騙し生きるんだ」

 だから、僕らにはそれが必要だ。

 時にそれは生きがいと呼ばれる。例えば、夢であったり目標であったりする。趣味、仕事、友達や恋人、思い出、あるいは、家族。ゴミ溜めの中で何とか死なずにいるためのよすが。

 僕にとってのそれは、もう随分前にほとんど消え去ってしまった。月並みだが、失ってから気づくこともまた多い。


 両親、兄、妹、帰るべき家と家族が不意打ちのように失われたのは、一体いつのことだっただろうか。不思議とはっきりと思い出すことすらできないが、何か大きな事故が起きたと聞いている。一体何が悪かったのか、強いて言うならただ運が悪かった。そういう類のものだ。

 とにかく、僕らが大切に抱えていたよすがはきれいさっぱり消え去って、残ったのは僕とミコちゃんだけだった。

 だから、僕は思うのだ。この世界はいつ穴が空くかもわからないボロボロのゴミ箱で、そんなものに価値なんてないけれど、僕にとって尊いものがいくつも存在していたことは確かだし、その最後のひとつが失われていないことも確かで、ただそれだけで、少なくとも生きていくことはできる。

 ああ、なんだ。結局のところ。

「価値はねえし、手遅れだけど、まあ、悪くはねえよ」

 我ながら当たり障りのない結論に至ったものだが、実際そう思ったのだからしかたがない。

 見れば天使は興味深そうにふむふむと頷いているので、少なくとも彼女にとって無意味な回答ではなかったはずだ。

「何を盛り上がっていたんですか?」

 と、板チョコを片手にコンビニから出てきたミコちゃんに曖昧な返事をして、僕たちはその場を後にした。



 大通りを道なりに進むと、荒川の広大な河川敷と川幅をまるごと横断する大きな橋が見えてくる。目指す家電量販店はその橋を渡った先だ。

「ねえハイトさん、大変今更ではあるのですが」

 堤防の上まで緩やかに伸びる坂道を歩く僕とミコちゃんの背後から、天使がおずおずと口を開く。

「あのー、どうしてボクがここに来たかっていう理由の件、あったじゃないですか」

「いいよ別に。忘れたんだろ?」

 仮に天使に何かしらの目的があったところで特に興味はない。どうせあっさり忘れてしまう程度の野暮用で、僕らには何の関係もないことだ。

「いやそれが思い出しまして」

 が、そう言われれば興味も出てくる。

 思わず振り向くと隣を歩いていたミコちゃんも同時に全く同じ動きで天使の方に向き直った。

「なんていうかー、そのー、えーとですねー」

 二人の人間にじっと見つめられ、天使は気恥ずかしそうに頬に手を当てながらこう続けた。

「世界を終わらせた原因? 的な? やつをですねー、どうにかしようかなーって」

「……マジで?」

「いやでもそれで人類復活! なんてことはないですよ多分。だってもういないわけですし……。ただ、世界から奪われたものは返せるので」

 言いながら、天使は僕らを追い抜いてそのまま進んでいく。

 つまり天使たちは何かを奪ったということなのだろうか。そんな単純なことで、世界は終わってしまったのか。不思議に思いながら彼女についていくと、やがて坂道は終わり、目の前に広大な河川敷が現れた。


 その、対岸まで七百メートルはあろうかと思われる川幅いっぱいに。


 夏が死んでいた。


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