天使

 背中から真っ白な羽を生やした天使が、児童公園の砂場でカラスの群れに襲われていた。

「こらっ! おいバカ! やめろよォ!」

 砂まみれでのたうち回る天使は必死の形相で襲いかかるカラス相手に手足を振り回すが、悲しいかな多勢に無勢といった様子で大量のくちばしの餌食になっている。

 偶然通りがかった僕とミコちゃんはその光景を前にしばし呆然としてしまった。何しろ天使だ。明るい金色の髪に白のワンピースといういかにもな出で立ちの彼女は、一見すると作り物のようにも見える大きな羽をバサバサと羽ばたかせて大量のカラスを追い払おうとやっきになっている。

「なんで……っ! 聞いてないよぉ! こんっ……危険生物ぅ」

 そうこうしている内に暴れまわっていた天使の動きは徐々に緩慢になり、やがて頭を抱えて丸まってしまう。これが人間であれば一も二もなく助けに行くものだが、果たして介入してもよいのだろうか。

 ちらりと隣に目を向けると、同じように困惑した表情のミコちゃんとバッチリ目が合ってしまった。その瞳に浮かぶ期待の色に気づいた僕は、一度だけ深く大きなため息をついてから、全力の叫び声とともにカラスの群れに飛び込んだのだった。



 少しだけ時間を遡ろう。

 僕らが勢い任せに映画館に遊びに行ったその日の夜、埃まみれになってしまった洋服をまとめて洗濯したら、翌朝には洗濯機が壊れていた。

 理由はよくわからない。きっと埃が何かに詰まったとか絡まったとか、そういうことなのだろうと思うが、そうは言っても十年近く使ってきたロートルだ。単純に天寿を全うしたという可能性も十分にある。

 さて、こんな時とにかく頼りになるのがミコちゃんだが、彼女はふむふむと洗濯機を眺めた後、「家電修理は守備範囲外です」とあっさり匙を投げてしまったので、僕はひとしきり落ち込んだ後、隣町にある家電量販店へ行くことに決めた。

 朝食を済ませてから外に出ると空は雲ひとつない秋晴れで、柄にもなく深呼吸の一つでもしてみたい気分になり、それと同時に、寒くなる前に上着を探さないとな、とふと思う。遅れてアパートから出てきたミコちゃんはまだ眠たげな様子だ。彼女はとにかく朝に弱い。

「ハイトくん、洗濯機なんて持って帰って来れるんですか?」

「いけるいける。心配すんなって」

 どことなく不安げなミコちゃんを励ましつつ、僕らは住宅街を抜けて大通りに出た。できることならそこら中に放置されている車を使えればよかったのだが、何しろそこら中に車が放置されているので車道を走ることが不可能なのだった。とは言え、仮に車道が使えたところで車の運転経験はおろか免許すら持っていない僕らが事故を起こさない保証はどこにもないから、その点においてはむしろラッキーだったのかもしれない。せっかく終末をやり過ごしたのに交通事故で死のうものならもったいないにも程がある。

 そんなことを考えるともなく考えながら公園沿いの歩道を歩いていた時だった。


「ちょっ! 違う違うボクは敵じゃな、待っ……! 痛い痛い痛い!!」


 公園の中から響いた甲高い悲鳴に思わず振り向くと、背中から真っ白な羽を生やした天使がカラスの群れに襲われていたのである。



「いや、も、ホント助かり……ました」

 激闘の末カラスの大群を追い払うことに成功した僕に、ぐったりと座り込んだ天使は息を切らしながらも律儀にお礼を言った。

「原生生物があんなに凶暴だなんて知らなくて……」

 彼女は体中についた砂を払いながら立ち上がり、そのままふわりと宙に浮くと、僕の顔を見つめてニコニコと笑みを浮かべる。

「それに、まさか人類が生き残ってるなんて思ってもいませんでした。奇跡的ですねえ」

 まるで他人事のような気楽さでそう続ける天使を前に、僕とミコちゃんは硬直していた。目の前に天使がいるという状況も、それが数分前までカラスにボコボコにされていたことも、何もかもが想像の範疇を超えていたからだ。

「あれ? これ言葉の意味通じてますか? ハロー下等生物今日も元気にうんちしてますか?」

「ふざけんなよお前!?」

 思わずカッとなってしまった。初対面の命の恩人相手に下ネタで煽ってくるとか、どういう神経してるんだコイツ。

「そんで、アンタはその、何だ。どうしてこんなとこにいんの?」

 何をどこから訊くのが適切なのかまるでわからないが、出会ってしまったものは仕方がない。放置して先を急ぐには、この生き物は奇妙すぎる。

「どうしてと言われましても、ボクは……えー、あれ? なんでだっけ? いやいやいや待ってください、すごく大切で重要な目的があるんです、あったんです、あああー」

 空中に浮かんだ天使は頭を抱えながらその場でぐるぐると回転し、かと思えば眉間にしわを寄せ腕を組んでウンウンと唸り、ひとしきりモゾモゾと蠢いた後で、

「いやあ、忘れましたねコレは」

 いっそ清々しいほどにあっさりとそう言い放ったのだった。本当に何なんだコイツ。


「はあ、洗濯機。大変ですねえ人間」

 そんなこんなで一通りお互いの境遇について語り合った後、僕らの事情にさして興味を抱く様子もない天使は、その態度とは裏腹に同行すると言い出したのである。

 曰く「旅は道づれと言うでしょう。ま、ま、ボクもその内ちゃんと全部思い出しますから、ちょっとそこまでご一緒しましょう?」とのことで、僕らは有り余る好奇心に負けてその申し出を承諾したのだった。第一、このまま公園に取り残されてカラスの餌になる選択肢が天使の側に存在しない以上、僕らと一緒に行動する以外にできることはなさそうだとも思う。

「カラス、怖いんですか?」

 と、歩道を歩く僕らの隣をふわふわ漂いながら時折頭上の空を気にしている天使に、ミコちゃんは容赦なく質問を投げかけた。

「はあー!? 怖くないですしぃ! 嘘ですぅー! 何あれ超怖くないですか!?」

 半ば反射的に語気を荒げた次の瞬間にはあっさり手のひらを返し涙目になる。何とも賑やかな生き物だ。

「や、だってほら、世界終わってるんですよ? 危険生物なんてもう大体いないって油断もするじゃないですか。なんで未だにあんなのがウロウロしてるんですか都会怖ッ!」

 背中の羽をピンと立てて力説する天使に、僕は思わず吹き出してしまった。

「まぁ俺らも未だにウロウロしてるし、そこはお互い様だろ」

「それもですよ。お二人、なんで生きてるんですか?」

「え、いや、知らんが」

 改めて訊かれると謎ではある。

 この世界はとっくに終わっていて、それはこの天使からしても自明であるようで、にも関わらず僕とミコちゃんは生きている。生き残ってしまっている。

 何か特別な理由があるのか、それとも単なる偶然か、よくわからないが、しかし。

「そう言う天使はなんで生きてるんだよ」

「うーん、まあ、生きてるからとしか……」

「だったらそういうことだろ」

 なぜ生き残ったのかはわからないけれど、なぜ生きているのかという問いに対する答えはわかる。つまるところ、理由なんてないのだ。僕らは生きているから生きている。大層な目的も明確な意味もない。それは人類が七十億人いようがたった二人になろうが同じことだ。

「そういうもんですかねー」

 のんびりとした口調で、しかし何やら難しい表情を浮かべながら、天使は曖昧に返事をした。


 それからしばらくの間、僕たちは無言で歩を進めた。僕もミコちゃんもそれ程口数が多いわけではないから、その沈黙は実に自然で心地よいものだった。

 僕とミコちゃんとの距離感は本来そういうものだ。別段仲がいいわけではないし、愛情ゆえに一緒に暮らしているわけでもない。たまたま一緒に暮らす方が効率が良かったからそうしているだけで、僕らは時折、まるで空気のようにお互いのことを無視することができた。

 そういう関係性が、果たして僕らにとって善いものであるのか否かはわからないし、興味もない。ただ便利であるとは思う。

 僕はミコちゃんと仲良しなわけでも、恋愛関係にあるわけでもない。愛情があるかどうかもわからない。けれど、僕にとってミコちゃんの存在は重大で、重要だ。

 結局のところ、僕らはどうあっても他人を必要としてしまうのだから。例えば僕らの間にある感情に好意や愛情といったラベルをつけることができたとして、その行いにどれほどの価値があるというのだろう。そんなことを、取り留めもなく考える。


 時刻はもうそろそろ正午になろうかというところで、高く上った太陽が僕らの影をくっきりとアスファルトに映し出していた。大通りは緩やかな上り坂に変わり、もうしばらく歩けば荒川の巨大な堤防に出るところだ。

 僕とミコちゃんはそろそろ休憩にしようと二言三言を交わしてすぐ近くのコンビニに入り、ミネラルウォーターを調達すると、店先のベンチに腰掛けてのんびりとそれを飲んだ。


「ねえ、ハイトさん。ボクなりにちょっとは考えたんですけども」

 小腹が空いたというミコちゃんがコンビニの店内へ吸い込まれていった直後、それを見計らったかのように、先程から何かを考え込んでいる様子だった天使が口を開いた。

 どうやら天使には飲食も休憩も必要ないらしく、わずかに汗ばんでいる僕らと違って一切疲労の色を見せていない。そんな些細な違いに、やはりこの生き物は人間とは全く異なるものなのだということを改めて痛感する。

 その異質な生き物は、しかし実に真剣で空虚な人間らしい表情で僕の目をまっすぐに見つめ、はっきりとこう言ったのだ。


「生きてる価値あるんですか? こんな手遅れの世界」


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