11月14日 午後 1時00分 挨拶
長寿のウタ番組『なまだしあの歌フェアー』。この日はクリスマススペシャルの公開収録。はるかは総合司会を勤める。ゲストの中に天才がいた。多田野ちえみ。世間的には天使の天才。俺の中ではただのアイドルさん。
ただのアイドルさんは、どういうわけか俺に絡んでくる。
楽屋ではるかの身のまわりの世話を終えたとき、ただのアイドルさんが挨拶に来た。むろん、はるかに対してである。
「おはようございます! はじめまして、多田野ちえみです」
「おはようございます。 なまだです。今日はよろしくお願いします」
2人が並ぶとまぶしい。こんなに間近でそれが見れるなんて、身の回り担当冥利に尽きる。はるかは既にしあモードになっている。融かす能力は低いが、台本や共演者の情報は全てインプットされていて、自在に取り出せる。
「多田野さんの新曲、いいですよね! これからの季節にぴったりで」
「聴いてくださったんですか? うれしい! お連れさんは……」
俺のこと! 俺は思わず2人を見惚れていて、挨拶しそびれていた。
「あぁ、おはようございます。身のまわり担当の昴と申します」
「やっぱり! 貴方がうわさの御曹司ね。よろしくお願いします!」
御曹司? そんなふうに呼ばれてただなんて。御曹司っていうと、相当なイケメンか相当な馬鹿なイメージがある。俺は、どっちだと思われているんだろう。
「どうして俺がうわさの御曹司なんですか?」
「奈保さんの息子さんでしょう……」
奈保さんというのは肉のこと。肉はああ見えて天才たちの中では尊敬されている。俺が肉の息子として認識されていたとしてもおかしくはない。
「……男の天才、目指し中なんですよね!」
「はい。一応、受験生みたいなものです」
俺はきりりとした表情を作ってそう言った。気を引き締めたつもり。対照的にただのアイドルさんは笑顔になる。そして突然、俺の左腕に絡みつき、耳元で囁く。やわはだが腕、においが鼻、少しあどけない声が鼓膜を刺激する。
「私が評価者だったら、とっくに合格なんですけどね!」
どういう意味だろう。同じようなことをひな板たちも言ってくれる。けど、評価者ははるかだけ。はるかが認めてくれなければ合格はしない。ただのアイドルさん、俺を揶揄ってるんだろうか。
ただのアイドルは絡み付いていた身体にさらに力を込めた。俺の身体は引っ張られる。強く締め付けられているのにやわらかい。においも増しているのに心地いい。あどけない声はそのままで「ねっ!」とだけ言った。
うっ、うん。と思わずこぼしそうになる。そうならなかったのは、はるかのおかげ。はるかははるかモードに切り替わって、俺の右腕にまとわりついた。ぎゅーっとかなりの力で俺に加圧する。
「多田野さん、もういいかしら!」
はるかはどこかおかしい。何故か怒り顔だし、声にも迫力がある。かわいらしさは残っているけど。ただのアイドルは怯えたような表情で「はいっ。とりあえずはこれで!」と言って、楽屋からいなくなった。
まだ残るアイドルのにおいをかき消すかのように、はるかからいい匂いが漂ってきた。うん、落ち着く!
収録中は特に何も起こらなかった。起こったのは、次の現場でのこと。
その時刻は、午後16時12分。
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