好きなのかよ!

「北條君、おはよう」


 月曜日の朝、午前4時02分。そのはじまりとしては申し分のない一言だった。声の主は言わずもがな。男なら誰もが憧れる、世間的には天才美少女女優のなまだしあ。俺の中ではまだ何者でもない。今日、しあはCM撮影のため午前4時30分に出発することになっている。それまで充分な時間がある。


 歌のような心地よい声とは対照的に、俺の身体はふわりとした重みを感じていた。その重みは腹部に集中しているように感じる。何だ、疲れが溜まってるのか。分からないまま重いまぶたを開いた。ぼんやりと笑顔が見える。小さく見える。けど、近い。近過ぎる! 助けてーっ! しあの笑顔が目と鼻の先ほどの距離にあることに俺は気付いた。


 俺は身体を反らそうとするが上手くいかない。理由さえ分からないまま咄嗟にしあから目だけを逸らす。俯くように下を向く。そこにあったのは、大胆に空いたしあの胸元。谷間がくっきり見える。思わずぱふぱふしたくなるほどの谷間。


 俺には、折角開けたまぶたをぎゅっと閉じながら、

「なっ、なまださん、おはよう!」

 と、挨拶をする以外にすることがなかった。情けない。


 しあは、

「おはよう、北條君。けど、なまださんはおかしいよっ」

 と言った。少し怒っているような声。


 不安になった俺はもう1度まぶたを開く。そこには、初々しくも神々しい笑顔があった。安心した。


 昨日は1度も名前を呼んでいない。2人きりの時間もあったが、そのときは名前を呼ぶ必要がないし、4人のときは4人のときで、はなしもしていない気がする。しあはずっと何かの台本を見ていた。同居といっても最初はこんなもの。


 俺は息をなるべくたくさんためてからゆっくりと吐き出すようにして、

「じゃじゃ、じゃあ、なんて呼べばいいの?」

 と機嫌をとる。


 刹那。ほんの一瞬だけ、しあの顔が無表情に見えた。また不安が過ぎるが、直ぐに元の笑顔に恥じらいを添えた顔に戻った。しあの一挙手一投足に一喜一憂する俺。今はほっと安心している。


「はるかって呼んでほしい」


 ぼそりと言った。なっ、何ですとぉーっ! そっ、そんなこと、できるわけ、なーいっ! 俺は動揺しながら動揺した。なまだしあの本名は、田中はるか。つまりはるかは、本名の、しかも下の名前! しあは俺に下の名前で呼べと言っている。ひょっとして、俺のこと『好きなのかよ!』知らんけど。


 はるか、はるか、はるか。心の中で呼ぶのは簡単。リハは完璧。だけど本番、口に出すのはヤバい! ヤバ過ぎるーっ! ハードルが高い!


 今までの俺なら、拒否していたのかもしれない。しかし、しあとの関係は評価者と被評価者。俺には、男としてしあの期待に応える義務がある! 世間的には天才美少女女優、なまだしあ。俺の中では今日このときからはるか! 


 だから精一杯、なるべく自然に、ゆっくり、威厳をもって、背伸びして、堂々と、一生懸命に、頑張って、張り切って言った。


「分かっちゃよ、ひゃるきゃっ!」

「………………。」


 ぎゃーーーーっ! サイテー! ドサイテーだ。ここへきてきゃみながらきゃんだ(噛みながら噛んだ)。もう、アウトだろう……。北條昴、千載一遇の機会を逃しました。これで、男の天才への道も断たれ、ラブコメ展開も終止符を打たれたことだろう。ダメ! ダメ過ぎるーっ、俺!


 諦めていた俺だが、はるかの職業に救われた。女優相手って便利かもしれない。はるかは無表情に戻り

「カーット。テイクツー!」

 と、ぼそりと言った。そしてまた笑顔と恥じらいの2色丼に戻り、やたらとハリのある声で言った。


「はるかって、呼んでほしいなぁ」


 さっきよりも抑揚がはっきりしている。真っ直ぐに俺を見つめる。その瞳は俺の全てを見ようとしているのか、大きい。吸い込まれそう。心の内まで覗かれていそう。


 あれ? テークツーって言ってたけど、これって演技ってこと? さすがは天才美少女女優だ。迫真の演技。ころっと騙されたよ。俺のこと『好きなのかよっ』って思ったけど、違ったみたいだ。

 俺は複雑な気持ちだった。

 だが、意を決した。いや、目が覚めたと言った方がいい。これはあくまで試験。俺は試されている。割り切って男を感じさせればいい。


 吐けるだけの息を吐く。少し重たいお腹がひとまず思いっきりヘコむ。今度はゆっくりと大きく吸う。俺のお腹がどんどん膨らむ。同時にはるかの身体が微妙に揺れる。そのせいか、はるかの顔に少しだけ怯えが混ざったような気がした。


 それで俺は、俺のお腹を重くしていたのがはるかだと気付いた。顔や胸元の位置からしても間違いない。そこまで膳立てされているなら、もう待ったなしだ!


 ちゃんと言うしかない! 俺の中では、はるかはとっくにはるかなんだから!


「待って!」


 そう言ったのは、はるかだった。

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