赤い表紙の薄い本

 俺にとっての『初・2人きりだね』が天才美少女女優の口から聞けるなんて。俺は言うのを躊躇っていたのに。しあは、なんて男らしいんだろう。


 左心室が一瞬止まったあと、ものすごい勢いで脈を打ちはじめた。今の俺は、ゾンビかもしれない。いやいや、兎に角、冷静に、冷静にっ! 今、俺がするべきことは何だろう。恋の未体験ゾーンの中、考えても何も浮かばない。俺は無力だった。何も返さず、無視するかのように言った。


「風呂掃除、頑張ろうぜ!」


 それだけ言うのに、どれほどのカロリーを消費しただろう。それは不明だが、しあがこくりと頷いたとき、報われた気分になった。頑張んなきゃいけないのは、俺の方だ! お風呂掃除を頑張ろうって決めた俺。前向きだった。


 身体を動かしているときは頭の中を空っぽにできるのがいい。お風呂掃除さえはじめてしまえば、しあと2人きりだってことなんか、自然に意識から消えるだろう。お風呂掃除さえはじめてしまえば。


「北條君。私、お風呂掃除するのはじめて」

「えっ! そうなの?」


 と言いつつ、意外にも意外とは思わなかった。相手は芸歴10年以上の天才美少女女優、なまだしあ。3歳でデビューして以来、お茶の間のスターだ。国民の娘であり国民の孫であり、国民の妹として、V10を達成している。昨年ははじめて国民の姉となった。このタイトルもあと10年は続けるのだろう。


 そんななまだしあがお風呂掃除をしたことがあるとは思えない。


 俺は深く呼吸をしたあと少しの笑みを無理やり作り「大丈夫。俺がやるから」と、男気を見せた。まだ緊張が解れたわけじゃないけど、精一杯、演じてみせた。


 ここで男の天才豆知識! 共働き世帯での男性が分担する家事の割合。お風呂掃除は全項目の中で、堂々の第2位。繊細さに加え力も要る男の家事だ!


 俺は、この役割に誇りを持とう! 


 しあはしおらしくこくりと頷いた。そして、テレビや映画で見るのと違い、感情の起伏というか、表現されるものが少ない。日常生活と職場での顔は違うタイプなのかもしれない。


 しあは持参したカバンの中の膨大なプリントを漁りはじめた。取り出したのは、台本、だろうか。赤い表紙の薄い本だ。そういえば、明日は早朝からCMの撮影があるって聞いた。きっとその準備をしているんだろう。


 食い入るように集中してそれを読みはじめるしあ。その仕草に俺の緊張も解れた。大きく伸びをしたあとで、グッと気合を込めた。


「よしっ、頑張るぞっ!」


 俺は風呂場入りした。今日は時間もある。同居人2人を迎える初日でもある。入念に掃除しよう。先ずは天井と壁。カビ取りスプレーをシューッと吹きかける。しばらく放置している間に、蛇口とシャワーヘッドをクエン酸水に浸す。その間に鏡を磨く。天井から壁を無駄のない動きで、さささーっと洗い流して乾拭き。最後に浴槽と排水溝をやっつけて終了。我ながら、会心の出来!


 ちょうどそのとき、しあが浴槽に入ってきた。俺をじっと見つめた。それで思い出した。今、俺たちって2人きり! 俺の身体は、また蛇に睨まれた蛙のように、固くなった。表情が上手く作れない。


 対照的に、しあは柔和な表情を俺に見せてくれた。妻の天才と謳われるお母さんがときどき見せる表情とよく似ている。男を育てる表情。


 続けて指の腹を全部合わせて恥じらうしあに、

「北條君。お願いがあるの」

 と言われたら、俺にはうんと頷く以外の反応はできなかった。


 しあは、お母さんのそれよりもまだ数段上の笑顔で応えてくれた。


 さっきまでの無表情なしあとはまるで別人。普通なら、急にこんなに変わるものだろうかと、疑問に思うのかもしれない。けど俺は会心の風呂掃除をしたばかりで、多少自惚れていた。しあの変化には気付いていたが、それはほら、俺の活躍に感服中に違いないと、都合よく解釈していた。


 身構える間も与えられぬまま、その白球は俺目掛けて飛んできた。


「明日、買い物に付き合ってほしいの」


 かっ、買い物だって! それって、噂にきくアレじゃないのか? 俺は少しファンブルしたけど、大事にキャッチ。1塁へ送球した。


「いっ、いいよ。でも、周りが騒ぐんじゃない」

「大丈夫。お忍びでお買い物するシーンの台本も読んだから」


 よく分からない言い方だったけど、大丈夫ってことは伝わった。俺はついに、しあとアレの約束をした。もう、胸のときめきが抑えられない。


 もしあと数秒の間があったら、もしかしたら俺は、しあを押し倒していたかもしれない。そのあとは、あんなことやこんなことをしていたかもしれない。


 俺がそうしたくなるくらい、しあは変わった気がする。何か、きっかけがあるんだろうけど、それが何だかは分からなかった。


「ただいまーっ!」

「たった今、お母さんは戻りましたよーっ!」


 俺を救ってくれたのは、お母さんとひな板のご帰宅。この日のこのあとのことは、全く覚えていない。何を調理し、何を食べ、どこに寝たかも忘れていた。学校で、浮かれきった顔をしている証拠写真をひな板に突きつけられるまでは。

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