第1章 学ぶ。

学舎に合格した後、二日後に老師が話をしていた数枚の文が届いていた。春樹宛て、ではなくその保護者と言われる存在だ。彼の場合は蒼になるが、内容に目を通して直ぐに名前を書いて春樹に渡していた。一週間後に始まる課業が始まるので、その日に署名した紙を持って来ることが書かれていた。


「これから2年間、頑張ってくださいね」


「はい!」


渡される際に激励の言葉を貰った春樹は何を学ぶことが出来るのか、胸を踊らせていた。その間ももちろん変わらず掃除、炊事、勉学に励んでいた。必死に努力している姿を見た陽斗と海斗はちょっかいを出しながらも可愛がっていた。


そして、学舎初日。


試験の時には咲き誇っていた桜には所々緑が見えている。あっという間に葉桜になってしまうのだろう。眼に映る景色に季節を感じながら学舎に向かっていた。


「春樹さん、着きましたよ」


「あ、ありがとうございます!」


試験の日と同じように牛車に揺られていると、直ぐに着いた。既に周りにも似たような牛車が停まっており、春樹も早く教場に入るべくさっさと降りた。従者に「ありがとうございます」とお礼を言って頭を下げると、「いってらっしゃいませ」と笑顔で手を振られたので釣られるように春樹も微笑んだ。


周りには同い年と思われる男女が同じ場所に向かって歩いている。ほとんどが黒色の頭なので、一人だけ髪色の異なる春樹は好奇の目を向けられていた。互いに声を潜めて話している姿もあり、決して心地良いものではない。


頭のてっぺんから足の爪先まで舐めるように見られている張本人は、呑気にも欠伸をしている。


「ふぁ〜……ちょっと、勉強しすぎたかな……」

地面の砂利の音の中に入ってくる欠伸は余りにも場違いだ。彼にとって容姿について何か言われるのは慣れており、何より九条邸では「気にする事ない」と口々に言われていたのもある。


拾われる前よりも、自身の容姿を疎ましく考えることが減っていた。春樹は周りの声が聞こえてない訳ではない。ただ今は悲観している暇など無く、これからの課業のことしか考えてない。


「おい!お前!」


「……何?何か用?」


「俺様が直々にお前を子分として側に置いてやろう!」


「……はぁ?」


背後から声をかけられた春樹はその主が誰なのかが分かっていた為、少しだけ抵抗した。しかし、何も言わずにそのまま去ろうとすると何を言われるか想像出来ない。顔をしかめるようにして振り返ると、春樹の考えていた人間がいた。


「僕、急いでるから」


「おい、無視すんな!」


彼からの上から目線の提案に飽き飽きしている春樹は一礼に背を向けて教場へと足を速める。しかし、彼は周りにも聞こえる声で「絶対許さないからな!」と叫んでいる為、周囲の生徒達からの視線が痛い。彼等の視線を感じているのかいないのか、春樹は「はいはい」と適当に返事をしてその場を足早に立ち去った。




「―――――と言うことで、今日から貴方達に歴史、文学を教える事になった後九条ごくじょうめぐみです。私が君達の担当になったからには厳しく評価しますので、よろしくお願いしますね」


課業が始まる少し前、一人のご年配の男性が春樹達の教場に入って来た。彼の姿を見た時、試験の日に会ったことを思い出した春樹。少し目を見開いたのだが、あの人が指導してくれるなら安心だ、と思う所もあった。


それに加えて彼の言動は物腰柔らかでありながら、人を身分で見るのではなく、個人で評価しているのを肌で感じていた。


「では、今日は歴史から始めます。事前に配ってある教本を開いてください。まずは最初の方に書かれている『候国』について学びます」


何やら大きな板の前に立っている彼は白く長細い物を持って書き始めた。片手に教本をもち、説明しながら淡々と書いて行く。


あれが何なのか分からなかった春樹は一瞬手が止まってしまった。しかし、この学舎に通う以前に二人の先輩から話を聞いたのを思い出した。


『春樹、ここには無いけれど、学舎には“黒板”と言うものがある。そこに“白墨”と言う筆のような物で文字を書いたり、絵を描いたり出来るんだよ。私達はそんなのは使わないけどね』


「あぁ、あれが…」


納得したような声は自身にしか聞こえないようで、彼の周りの子達は自然に受け入れているようだった。目だけを動かし、自分だけが本当に知らないのだと再度認識した。文字を書く度に白墨の小さな欠けらが落ちていくのが春樹の位置からでも見えた。


彼等の室内は、一人一つ机を使用している。畳の上に座るのだが、長時間同じ体勢でいると臀部に痛みを感じるので布を敷いているのだ。春樹も同じように座っており、蒼に持たされた柔らかく肌触りの良い布を臀部に敷いている。


その中でも少し後ろの方に座っているので黒板の文字は見にくいが、話を聞いている限り既に春樹が習った内容だったのでそこまで焦ることはなかった。


「少し、眠い、かも……」


外から少しだけ入る暖かな空気と日差しにより、寝不足である春樹は目が閉じたり開いたりしている。頭の中に入っている内容はそれほど面白い訳でもなく、頭が船を漕ぎ始めた。


ゆっくり、ゆっくりと目の前の景色が見えなくなる時に聞こえたのは、先生の声で呼ばれた彼の名前であった。



その日の夜。


「春樹、お前学舎で怒られたんだって?」


「えっ……何で、知ってるんですか?」


「そりゃあ蒼さんが恵さん直々に怒られてたからだよ!いや〜、居眠りするなんてお前本当に度胸あるよな〜」


「そんなこと言うなよ。春樹、今回は見逃してもらえるかもしれないけど、次は気をつけるんだよ?」


「す、すみません……」


夜も酣(たけなわ)。夕餉の後、各自睡眠前の時間を好きに過ごしていた。春樹は蒼から借りた書物を一人で読んでいると、近くで話をしていた陽斗と海斗が話しかけて来た。


誰にも話していないはずの内容を知っていたことに驚きを隠せず、罰が悪そうに聞き返した。彼等の話し方を見ていると、担当の教師のことを知っている口振りだ。


「あの、恵さんって……知ってるんですか?あの教師のこと」


「お前、知らずに指導を受けていたのか?あの人は、元・十二神司の方だぞ?」


「しかも、蒼さんの師匠だよ」


「え!?そ、そうなんですか!?」


部屋に響く程の大きな声。気のせいか、襖が揺れているようだ。目を見開いている春樹の姿を見て、「春樹、前に比べて色んな顔するようになったよな」と陽斗が言っていた。海斗は大きく首を縦に振っていたのだが、そんなことは全く聞こえていない春樹は自分がどれほどの事をしたのか、今更自覚したのだ。


「だからね、これからは一瞬たりとも油断出来ないからね?覚悟するんだよ」


海斗が止めを刺したのを機に、春樹は二度と今日のような事は出来ないと悟ったのだ。先輩の発言が頭から離れない彼は持っていた書物を無言で閉じ、明日の課業に備えて布団の中にそそくさと入って行く。


直ぐに聞こえたいびきを聞いた陽斗と海斗。二人で顔を見合わせて話をする。


「ちょっと、言い過ぎだったんじゃない?」


「そんな事ないって。まぁ、俺達も同じ過ちを犯しているから心配なんだよ」


「それもそうだねぇ」


自分達よりも悲惨な人生を送ってきたであろう後輩を見つめる目は、先輩でもあり、兄でもあるような温かい目線だった。




翌日からの春樹の姿勢は見違えるようだった。見違える、と言うのは大袈裟かもしれないが、危機感を持った態度は初日の姿を見ていた同じ生徒から好奇の目で見られていた。


外見による色眼鏡もあっただろうが、その彼の見た目以上に素晴らしい成績を修めていたのだ。一方、当の本人は周囲からの目が徐々に変わりつつあるのを感じていた。


「あの、春樹くん」


「ん?何?」


「こ、ここの所なんだけど、分からないから教えてくれないかな?」


「あぁ、いいよ。筆と帳面を持ってきてくれる?」


「う、うん!」


遥かに高い矜持きょうじを持ち合わせている貴族の子供達が彼に教えを請う姿を多く見かけるようになったのだ。互いへの興味は持ち合わせている家の名前だけだったのにも関わらず、それを見事引っくり返した春樹に興味津々のようだ。


天は二物を与えず。


その言葉がまやかしのように思えてくるのは、彼の才能だけでなく優美な顔立ちもあった。あの顔を近くで見た女の子達は惚れない訳もなく、圧倒的な人気をこの学舎で誇っていたのだ。


「すっかり皆の人気者ですね、春樹くん」


「あ、先生。こんにちは」


「はい、こんにちは。この後の予定は何かありますか?」


「いえ、特には……」


「そうですか。それでしたら、貴方に紹介したい場所がありあります。帰る準備だけして、来てくれますか?」


「は、はい」


先程教えを請いにきた女の子達の為に準備をしていた春樹。自身の帳面を出し、筆を準備している間に目の前に現れたのは後九条だった。いつも目を細めて綻んでいる彼の表情は周りにも優しい雰囲気を与える。彼を慕う生徒も多く、春樹が準備している間にも「先生!」と話しかけられている。


机の上に出ていた物を全て与えられた包みの中に入れ、立つと同時に手に持った。彼の行動を一瞥した後九条は生徒達に「また明日会いましょうね」と優しく微笑んだ。


「では、行きましょうか」


「はい」


春樹の前を歩いて行く後九条は長い髪をなびかせるように、一歩一歩歩いて行く。駆け足になってしまうのは大人と子供の歩幅の違いだろう。すると、いきなり後九条は歩みを緩めたので彼の背中にぶつかりそうになった春樹は急いで足を止めた。


「す、すみません」


「いいえ、謝るのはこちらです。少し歩くのが速すぎましたね」


「うっ……気づいていたんですか」


「えぇ、もちろんですよ。そう言えば、春樹くんはもう私と貴方の師匠との関係は知っているのですか?」


「は、はい。その、先輩方に教えて頂きました」


彼の歩幅に合わせるのに必死だった事に気がついた彼の優しさに、思わず頬を赤らめる春樹。彼の親切な行動は男でも胸を高鳴らせてしまうのだ。後九条は春樹に負けじと綺麗な顔をしているので、見惚れてしまうこともある。


彼からの質問にどもりながらも答えると、「そうですか」と口元を緩ませて前を向いた。歩く速度を春樹に合わせ、どんどん人気が少ない所へと向かって行く。奥へ、奥へと進むと暗い廊下の奥に一つの扉が見えて来た。


「君の先輩方の話した通り、私は貴方の師匠である蒼の師匠です。今はもう陰陽師の第一線からは退きましたが、その後でも人に教えたい。そう思ってこの学舎を創設しました。今もなお健在している私の人脈を使って、膨大な書物を集めてこのように管理しているのです」


動かしていた足を止め、一通りの説明をし終わった後九条は扉の取手に手を掛けた。この建物の中では一際珍しい襖でない形をしているので、春樹はそれにも中にも興味が溢れて仕方なかった。


鈍く、重い扉を開けるような音がすると、中から埃が舞い上がって廊下に出て来た。大量の埃を被ってしまった春樹は口元を服で隠しながら咳き込んだ。空気中に舞っている埃が徐々に床に落ちると、中の様子を目視することが出来た。


「こ、これは……」


「全て、私が集めました。春樹くん、ここを使っても良いですよ」


「え?」


「貴方の師匠、蒼が私に頭を下げて来たのです。『あの子には、多くの知識が必要だ』と。他の生徒だけでなく、老師もここに入ることは許していません。特別扱い……と言うことになってしまいますので、他の人には話しては駄目ですよ?」


「はっはい!ありがとうございます!」


後九条は室内にある書物を呆然と見ている春樹の顔を見て言った。横に立ったままだった春樹は目の前に広がる光景に目を奪われつつ、返事をする。


念を押すように注意事項を話した後九条老師は春樹の唇に自身の人差し指を当てた。春樹を見る彼の目は情愛に満ちている顔で、胸を高鳴らせるには十分だった。


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