秘密の書斎
案内された魔人の書斎はひっそりとした郊外にあった。
くねくねとした長い坂を上がると楡の大木が
まるで中世の三銃士の活躍の舞台になりそうな邸である。二階の書斎の重厚なドアの前で青年が言った。
「このドアの中にはあなたにとっての異次元が存在する。とても脅威に満ちた世界だと思います。僕は無理じいはしたくないのです。入りたくなければここでお引取りいただいてもかまわないのですよ」
「え……」
ここまで誘っておいてそれはないと思った。複雑な気分だった。
「よろしければ書斎に入れていただきたいです」
小さな声でアキノが言った。
「入るのですね」
「はい」
多少きしんだ音がして重そうなドアが開いた。通されたアキノはその異様な雰囲気に気圧されてしまった。その書斎には本と言うものがなかった。
そのかわり、だだっぴろい部屋の中央には丈高い緑色のサテンのカーテンで仕切られた四角いスペースがあった。書斎そのものの広さは二十畳ぐらいだろうか、その中央に四隅をカーテンで仕切った四角い部屋のような場所があるのだ。
「これなんですか?」
恐る恐るアキノが質問すると含み笑いを浮かべて彼は手前のカーテンを引いた。中には巨大な機械がその不気味な姿を横たえていた。大きな箱型の機械である。
いくつもの計器と、ダイヤルスイッチとキーボードと、むき出しになった電線類。まるで大昔のマッドサイエンティストが作り上げた得体の知れないマシンである。
「驚いたでしょう」
アキノは驚いて声が出なかった。思わず見入ってしまう。
「お嬢さん。お名前はなんと――」
「は、はあ、アキノといいます」
「アキノさん。僕は安藤修一といいます。これはコンピュータですよ、大掛かりなものです。僕の本業はものを書くことではないのですよ」
「……」
「僕はこの機械に小説を書かせているのですよ」
「はあ?」
「意味がわかりにくいですか、実は僕は大学のときに多くの協力者と共にこの機械をつくったのです。魔人の作品は実は人間の書いたものではないのです。このマシンが書いたものです」
しばらく呆然として話を聞いたアキノだったが、次第に意味がわかってくると、疑念と驚きと一抹の寂しさが彼女の心に沸き起こった。まさかという思いの方が強い。
「なぜ? こんなものをお作りに?」
「さあ、最初は遊び半分だった。実は僕の兄は作家でして、あまり有名じゃないけどね。僕は兄にコンプレックスがあった。僕には文才がないから羨ましかった。でも兄があるとき僕にこう言ったんです。スランプで何にも書けないって。酷く落ち込んでた。で、僕はなんとかしてあげたいと思った。僕たちは決して仲が悪かったわけじゃないから」
「……」
「友人に天才がいるんです。そいつは情報工科大学で情報処理を学んでいた。そいつが機械に文章を書かせることが出来たと言ってたのを、僕はそのタイミングで思い出した。で、そいつに機械に小説はかけないかと訊いたら、書かせてみたいものだというので、僕は――」
「……」
「はははっ、とても信じられませんよねえ、こんな話」
「……」
「二年でこの機械をそいつは作った。サルが長い時間キーボードを叩き続けるとシェイクスピアの作品を打ち出すという「無限の猿定理」をあなたはご存知ですか?」
「さあ」
青年の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「つまり彼は日本語で言うならアからンまでの四十七文字をある長さで、あらゆる組み合わせによって羅列したなら、その中にどんな有名作家の作品もしまいに含まれてしまうというのです。太宰だって、漱石だって」
「よくわかりませんけど……」
「想像を絶する時間をかけてすべての文字の組み合わせを羅列したら、すべての文学にヒットする瞬間が来る。その組み合わせは決して無限ではないから」
「まあ、そうかもしれませんけれど、とても現実的ではないような気がします」
「そうです。彼からその話を聞いた時僕も同じように感じた。ロマンに満ちているけれども現実的でない。だから僕は考えたのです。文字を絞り込むことが必要だってね。僕たちはそのアルゴリズムを追求した。僕たちがなにをしたかというと、話を起承転結に分けたんですよ。そして起にあたる部分の情報をあらゆる文献から集めた。神話から、民話から、古典文学から、近代文学から、脚本から、歴史書から、群書類従に至るまで、考えつく限りのすべてのデータを起としてコンピュータに入力したんです。それと同じように承を作り、転、結と作った」
青年の目が異様な光をおびてアキノは少しばかり怖くなった。
「――まあすごい」
「それからが大変でした。問題はそれらの配列です。それらをどう繋ぐかが問題でした。そこで思いついたのがベストセラーです。ベストセラーの小説に習ったんです。古今東西の名作という名作がこのマシンの心臓です。悲劇的で、狂おしく、情緒的なものがこのマシンには流れている」
アキノはちょっと悲しそうな瞳をして青年から目を離した。
「こんな機械に名作なんて書けないと思っていましたが、結果は逆でした。いつしかこいつは仮面の魔人という立派な流行作家になったんですよ」
「でも、心のない機械に人の心を打つものが書けたのでしょうか?」
アキノが声の調子を落としてそう言った。
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