エピローグ


「いらっしゃいませ」

 扉を開けて入って来た原口に、穂高は軽く笑んで会釈をした。

 原口はひらりと手を上げ、今では定位置になりつつあるカウンターの入口から三番目に座った。

「西森はもう帰ってるよ」

 穂高は頷いた。その連絡は旭から既にもらっていた。

「何にしますか」

「んー、いつもの。それで俺今すげえ腹減ってるんだけど」

「了解」

 原口の「いつもの」ハイネケンを取り出して、穂高はグラスに注いだ。コースターを滑らせてカウンターに置き、その上に音を立てないようにしてグラスを乗せた。灰庭がどこやらの蚤の市で見つけたというアンティークの器にアーモンドを盛って添える。

「あー、今日も疲れた…」

「お疲れさまです。どうぞ」

 ごしごしと両手で顔を擦っている原口の前に、穂高はサンドイッチをのせた皿を置いた。

 皿を見た原口が、うわ、と声を上げた。

「これっ、俺がこないだ食べて超感動したやつじゃん」

 こないだ、と穂高は眉を顰めた。刻みわさびを利かせたステーキサンドだが、原口に出すのはこれが初めてだ。このサンドイッチは灰庭が良い肉を持ってきてくれたときしか作れないものだった。

「それいつだ?」

 丁寧な口調をやめて穂高は聞いた。幸い客は原口の他に、カウンターの奥にいるふたり連れだけだった。会話は聞こえるが、内容は聞き取れない、そんな距離だった。

 サンドイッチに齧り付きながら、んー、と原口は考え込んだ。

「あ、アレだよ、穂高いなかったとき。西森が大変だったときだわ、俺ここ来て、そしたら優しそうなお兄さんがいて出してくれたんだわ」

「……へえ」

 穂高の頬がかすかに引き攣った。

 灰庭か。

「でもなんか、にこにこ笑ってんだけどさあ、すっげえ怒ってたな。あの人」

「……」

 なあ、と原口が言った。

「あの人って…?」

「ここのオーナーだ。俺の上司だよ」

「あーなるほどね」

 原口はにやりと笑った。



 二日も穂高が休んだことを、灰庭は珍しく責めてこなかった。自分が労働するよりも、自分が作った場で人を働かせることが好きな灰庭にとって、二日も自分が店を切り盛りするというのは憤慨ものだろうと思っていた。なのに二日目に連絡を入れ、事の次第を説明してもう一日休ませて欲しいと言った穂高に、灰庭はあっさりと了承の返事をした。

『……は?』

 今何と言った?

 いいと言ったか?

 俺に?

 だから、と灰庭は声を大きくした。

『いいっつってんの。ヤスンデ・イイデスヨ。また明日な、ほいじゃ』

 通話の切れた携帯をしばし眺めて穂高は茫然とした。

 胡散臭いと思いながらも休みは有り難かった。旭の傍にいられる。

 そして翌夜出勤し店を開けると、灰庭はふらりとやって来た。

『まあとにかくも丸く収まってよかったな。旭さんは?』

『元気ですよ。うちにいます』

『ふーん』

『旭が、あんたに礼を言いたいって』

 灰庭の前にグラスを置いた。

『あのスプレー、あんたがくれたものだって。旭が』

『ああ』

 そうか、と灰庭はグラスに口をつけた。

『ありがとうございました』

 腰を折って頭を下げた穂高の頭を、ちょん、と灰庭はつついた。

『ま、いいからさ、じゃあ今度旭さん連れてうちの奥さんに会いに来いよ』

『いや…それは』

『礼、したいんだろ? 俺に? ん?』

『……』

『俺二日もがんばっちゃったんだけど? 慣れない仕事して足が棒になったんだけど?』

『……分かったよ』

 頬杖をついてにやにやと笑う灰庭に逆らえず、ため息を吐いて穂高は投げやりに頷いた。

 くそ、元々シェフのくせに何言ってんだ。

 してやったりと笑いながら灰庭がグラスの中身を飲み干した。

 それが二週間前のことだ。

 灰庭の妻とはまだ会えていない。

 旭が職場に復帰して時間が取れなくなったからだ。

 毎日のように灰庭は催促してくる。

 思い出したくもないことを思い出して、穂高は顔を顰めた。

「どしたの?」

 なんでもない、と穂高は原口に言った。


***


 吉沢の一件は旭の予想した通り、翌日には会社に知れ渡り騒ぎとなった。水曜日に予定していた人事との面談も一旦取りやめとなり、木曜の出社だけが決まっていた。

 木曜日、穂高のところから出社した旭はすぐに上部の人間に呼び出され、役員用の会議室へと足を向けた。

「失礼します」

 ドアを開けると、中には人事の人間と、監査部、今旭の課を仕切っている松井がテーブルに着いていた。どうぞ、と言われ、旭は用意されていた席に座った。

 事細かに仔細を聞かれ、知っている限りすべてを話した。吉沢との事は警察に被害届を出したこともあり、言えないこともある。それを説明すると、上部の役員が渋い顔をした。

「届を出す前に、ひと言会社に断ってくれてもいいんじゃないのかね」

「それは、どういう意味でしょう」

 聞き返すとその役員は黙り込んだ。今朝がた吉沢が逮捕されたと一報が入り、会社の面目を保とうとしているのだろうと思った。ただでさえ村上のことでごたついているのだ。これ以上の醜聞は願い下げだというのが本音のようだった。

「なかったことにしてくれと言う意味ですか?」

「そうは言っとらんよ!」

 旭は息を吸った。

「村上課長のことはともかく、吉沢に関しては…俺は、泣き寝入りをするつもりはありません」

 処分は好きにしてください、と言うと、役員は憤慨したように椅子を蹴って立ち、騒々しく部屋を出て行った。しん、と静まり返った部屋の中で、誰かがふふっと笑った。

「西森君、いいね」

 笑っていたのは人事の部長だった。

 周りの人が驚いたようにその人を見ている。松井も目を丸くしていた。

 旭はその人に見覚えがあった。

「きみ、ほんと、採用面接の時もそうだったけど、面白いよ」

 あ、と旭は思った。

 面接のとき、旭が言った志望動機に大笑いした人だ。あのころよりはいくらか頭に白いものが混じっているが、確かにこの人だった。

「すみません…」

「ああ、いいよいいよ、気にすることない」

 ひらひらと手を振る。正していた姿勢を崩して、人事部長は監査部の人と松井に楽にするように言った。

「こんなの形だけだから。西森君は現状のままってことでね」

「え?」

「本当ですか?」

 松井が身を乗り出した。

「被害者のきみを咎める意味が分からないね。それこそ愚行だよ」

 ありがとうございます、と松井が立ち上がった。

「正式なものは文書で出すけど、これはオフレコで。かけいさんも頼みますよ」

「もちろん」

 筧、と呼ばれた監査部の人が苦笑した。

「ありがとうございます」

 旭は立ち上がって頭を下げた。

「ところで、お祖父さんは元気?」

 旭は目を丸くした。唐突のことに何のことか分からない。

「え…あの…?」

「なんですか、それ」

 松井が聞いた。

 可笑しそうに人事部長が笑った。

「西森君、面接で志望動機に、お祖父さんのお金を使いたくないから働きたいんですって言ったんだよ?」

「あ──」

 思い出した。確かそんなことを──言った、気がする。笑われたことばかりが記憶に残り、すっかり忘れていた。

 かあ、と旭は真っ赤になった。

「ありゃ傑作だったなあ、え、覚えてないの?」

 わはは、と大声で人事部長が笑った。

「いまだかつてあんなこと言ったのきみだけだよ」

「す、…すみませんっ、ほんとに…」

 すみません、と真っ赤になった顔を隠そうと旭が俯くと、笑い声は大きくなった。


***


 交差点を抜けて家へと帰る。

 寒さを増した夜の空気が冷たかった。

 地下鉄からの一本道をまっすぐに。

 もう誰かを探して振り返らなくてもいい。

 旭は小さな紙袋を手に持っていた。

 来週、穂高に渡すつもりのプレゼントだった。革の財布だ。今日はそれを買いに行っていた。

 あまり自分のことには構わない穂高は、古い財布を使っていた。

『それ、もう駄目なんじゃないか?』

 そう言うと、穂高は興味なさそうに、ああ、と言った。

『そうか?』

 彼らしいと思い出して旭は苦笑した。

 穂高のアパートへの道を旭は歩く。週の半分は穂高のところに行くようになった。

 もっと一緒にいたいと思う気持ちは、まだ話せそうにない。



 見上げた部屋には明かりが灯ったままだった。

「…ただいま」

 リビングのソファの上で旭は眠っていた。いつかのように毛布にくるまって、丸くなっている。床の上にリモコンが落ちていた。暗くなった画面をつけると、小さな音で飽きるほど見たオープニングの場面が流れ出した。

 一面銀色の世界で生きていくふたりの話だ。

 まったく別々の場所で生まれたふたりが、リンクした世界の中で互いの存在を知り、最後に出会う。振り向いたところで終わるのだ。

 くすっと穂高は笑った。

 旭は本当にこの話が好きだ。穂高も好きだが、旭はその上を行く。画面を消して、穂高は寝室のクローゼットの中に、ようやく店から持ち帰ったショップバッグを仕舞った。

 コートを脱ぎ、リビングに戻る。毛布ごと旭を抱き寄せると、ギプスのようやく取れた手が、ことんとソファからはみ出した。

「旭、ベッドに行こう」

「…ん、ちあき…?」

 おかえり、と旭が呟いた。

「ただいま」

 明日穂高は休みだ。旭は仕事に行く。すれ違う時間を惜しむように、毎週土曜の夜から水曜まで、旭はここで眠るようになった。ほとんど自宅に帰っていないことに、旭は気がついているのだろうか。

 もう一緒に暮らしたいと、穂高は思っている。

 言い出す機会を窺っていた。

 来週その機会がある。上手く言えるか分からないが、そのときに言うつもりだ。

 あの手袋もそのときに。旭にきっと似合うだろう。

 抱き上げてベッドに下ろす。

 そのまま穂高も布団の中に入った。背中から旭を抱えて眠る。

 温かな体温を移して旭が起きるまで。

 穂高は旭にはまだ見せたことのない微笑みを浮かべた。

 いつか上手く笑いたい。

 旭には、すべて見せたかった。

 旭にだけ。

 自分の心を、もう隠す必要はない。

 卵を孵すように、穂高は旭の項に顔を埋めて、強くその体を胸に抱き込んだ。

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