21

 翌日、昼過ぎには地元に帰るという千紘たちを見送るため、穂高と旭は朝早めにアパートを出た。駅近くのホテルで待ち合わせだったが、行く前に一度旭のマンションに寄り着替えを取るためだ。穂高の服は旭には大きすぎて、家の中でだけならいいのだが、人前に出るには少し困る。

 ほぼ一週間ぶりに帰った部屋の中は冴え冴えとして、まるで知らない人の家に来たかのようだ。先週の水曜の朝に出て行ったときのまま、何もかもがそこにあった。朝飲んでシンクの中に入れておいたマグカップ、少しだけ開いていたカーテンの隙間から朝の日差しが差し込んでいた。きらきらとした埃が光の中に舞っている。

「ちょっと待ってて、すぐ済むよ」

「ああ、ゆっくりでいい。まだ時間はあるしな」

 そう言って穂高はマグカップを洗い出した。旭は寝室に行き、着替えを済ませた。少し考えて、もう何日か分の着替えとシャツを適当な鞄に詰めた。それを持って、穂高と共に部屋を出た。



「旭!」

 ホテルのロビーに入ると、すでにラウンジ降りてきていた千紘が、ぱっと立ち上がって駆け寄ってきた。丸い大きなテーブルには小さな女の子と大きな男の人が、こちらを見て笑い合っている。

「うわ、ちょっと千紘…っ」

 がばっと人目もはばからず抱きつかれて、旭は慌てた。周囲の視線が集まる。なにより、千紘の肩越しに彼女の夫と目が合ってしまい、居た堪れなくなった。夫は一瞬目を丸くしていたが、すぐにはにかんだように笑った。旭は冷や汗をかきながらぎこちなく会釈を返した。これが初対面なのに、この状況はすごくとんでもないことだ。

「おいっ、やめろ、怪我してるんだぞ」

 声と同時に千紘の体が離れて、ほっと旭は息を吐いた。穂高が苦々しい顔で千紘の肩を掴んで後ろに引いている。

「なによ! そんなの分かってるわよ」

「旦那が見てんだろうが」

「啓ちゃんはこれくらいで嫉妬したりしないわよ」

「ああそう」

「心が広いの、あんたとは違うんだからね」

 穂高が千紘を睨むように見下ろした。

 啓ちゃん、とは千紘の夫の名前だ。

 ママー、と大きな声が足下で聞こえて、旭は目をやった。いつのまにか傍に来ていた千紘の娘が、母親の服の裾を引っ張って、不思議そうに旭を見上げていた。

「ママあ、このひとだーれ」

「ママのお友達だよ。ほら、こないだ美味しいお菓子送ってもらったでしょ、このお兄ちゃんがくれたんだよ。こんにちはは?」

 促されても、母親の足にしがみついてもじもじしている千紘の娘の前に、旭はゆっくりと腰を落とした。目の高さを同じにして、こんにちは、と微笑みかけた。

「あさひ、っていうんだ。ママの友達だよ」

「ともだちなの?」

「うん」

「まあちゃんもともだちいるよ」

 娘の名前は真幌まほろだった。

「そっか、仲良しなんだ」

「うん、なかよしでねえ、いっつもねえ、よーちえんであそぶよ」

「そっか、いいなあ」

 はにかんだ笑みを見せた真幌の髪を旭は撫でた。

「俺もママと、まあちゃんの叔父さんといつも遊んでたんだよ」

 叔父さん、と言ったところで真幌がちらりと穂高を見上げた。視線を追って旭も見上げると、穂高が眉を顰めた顔で真幌を見下ろしていて、怯えた真幌が母親の足から離れて旭にしがみついてきた。

「まあちゃん大丈夫だよ? 叔父さん怖くないから。アキ、もうちょっと笑わないと」

「……」

 面倒くさそうに穂高がふいとそっぽを向いた。

 呆れたように、千紘が盛大にため息をついた。

「あんたって何年経っても変わんないわね。ほんと馬鹿なんじゃないの」

 小さく舌打ちをして、うるさい、と言い捨てた穂高はラウンジのテーブルの方へ行ってしまった。義兄と軽く挨拶を交わし、旭をちらりと振り返ってから、携帯を取り出して正面入り口のほうへ大股で歩いて行く。どこかに連絡でも入れるようだ。

「ほんとしょーもないわよ。いい加減変わってると思ったけど」

 穂高の背中を追いながら、千紘が独り言のように呟いた。旭にくっついたままの娘を抱き上げる。旭が立ち上がると、心底呆れたような顔をして旭に肩を竦めてみせた。

「あんなんで生きてこれたのが不思議だわ。旭、ほんと、あれでいいの?」

 旭は苦笑した。

「アキ、もうちょっと笑えばいいのに」

 え、と千紘が言った。

「何言ってんの旭、あいつが旭の前で笑えるわけないでしょ」

「え?」

「あいつ、自分が好きな人の前では笑えないじゃない、昔っから。仏頂面でさ」

「……え?」

 笑えない?

 昔から?

「思春期迎えて定着しちゃって、今だに引きずってんのよね」

 そういえば…

 子供のころはよく笑い合っていたのに、いつのころからか穂高は旭に怖い顔をするようになった。あれは──いつ。

 旭は記憶を掘り起こす。

 そう、確か──中学に入って、すぐ…?

 いつも何を話しかけても不機嫌そうにしていた。

 目を丸くした旭を見て、千紘も驚いたように目を見開いた。

「え、嘘! やだ旭、気づいてなかったの?」

 旭はぎこちなく頷いた。

 知らなかった。

 あのころは、嫌われているのだとばかり。

 呆れた、と千紘が呟いた。

「私、それであいつが旭を好きだってことに気がついたのに」

「そ…」

 そうだったのか。

 もしかして、と旭は千紘に聞いた。

「それって、いつ?」

「あいつが中学入ってすぐ」

 ほんと成長しないわよね、と千紘はまた盛大にため息をついた。

「こじらせちゃって、馬鹿みたい」



 その後千紘の家族と昼食を一緒に取った。新幹線の時間が来て、改札口まで見送った。

「まあちゃん、またね」

 小さな手を握る。けががはやくなおるといいね、と真幌が笑った。

「旭、今度はうちに来てよ。ちゃんと帰って来て。もう大丈夫だから」

 うん、と旭は頷いた。

「お母さんも待ってる。旭がいつ帰って来てもいいようにお布団用意してるの。それに、貞さんも」

 祖父の名前に、旭の胸がちくりと痛んだ。

「いつも笑ってるけど、本当は寂しいんだと思う。旭のためにってホームに入ってるけど、でも、すごく会いたいんだよ」

「…うん」

 小さな田舎のコミュニティでは、些細なことも皆知っている。子供のときの旭の事件は忘れられたように見えて、その実誰もが覚えていた。水の底から浮かび上がるあぶくのように、根拠のない噂が度々独り歩きをしては、家族を掻き回す。その渦中に母親が過労と心労で倒れて死んでしまったのは、旭に地元を離れたいという確固たる気持ちを生ませた。母亡きあと旭を引き取った祖父は、そのことを薄々分かっていたようで、旭が大学受験の年に、旭に黙って家や土地をすべて売り払う算段を取り付けていた。そして3月、大学に合格し上京する前の晩、旭に家屋と土地を売り払って手に入れた金額のほとんどすべてが入った通帳を渡した。

『おまえはもうここに戻ってくるな。もうこの家はうっぱらったからな。帰って来てもなんにもないぞ』

 さあっと血の気が引いた。

『じいちゃん、なんで、そんな黙って! じいちゃんはどうするんだよ、どこに住むの! 仕事だって…! 俺こんなお金要らないよ!』

『じいちゃんはホームに入る。なんも心配しなくてもいい』

 差し出してきたパンフレットは、隣町との境に新しく出来たばかりの老人ホームだった。広めの個室に、広い庭園つき…

 美しい庭園の写真に旭は見入った。

『その庭はなあ、じいちゃんが作ったんだよ。入ったら時々手入れさせてくれるって言うからさあ、その庭見ながら歳取ってくのも悪くねえって思ったんだよ』

『じいちゃん…』

『旭、いいから、これはおまえが今から生きてく分だ』

 テーブルの上の通帳と印鑑をぐっと旭の前に滑らせた。

『持ってって、好きに使え。じいちゃんのことはなーんにも心配しなくていいから』

 好きにやるよ、と豪快に笑った。

 大学に入り、就活の年に祖父は倒れた。軽い心筋梗塞で、大したことはないと言って、電話越しに笑っていた。帰ってはいけないと分かっていたが、就職試験を放り出して、ひと目会いたくて夜に地元に着くように帰った。千紘にも誰にも言わず、ホームに行った。併設されている病院のほうで祖父は休んでいた。3年ぶりに会った祖父は、やはりその分歳を取っていた。寝顔を見て、よろしく頼みますと看護師に頭を下げて、早朝に帰った。

 その年の就職は出来なかった。そのことは祖父には言い出せないままだ。それでもなんとか一年後には就職することが叶った。祖父に貰ったお金には大学卒業以来手をつけていない。祖父に何かあったときのために出来るだけ残しておくと決めていた。

 時々電話で話をする。千紘が写真を送ってくれる。

 でも、会いたさは変わらない。

 たったひとりの家族だ。旭のために、帰る場所を断ち切ってまで送り出してくれた。

 会いたい。

 うん、と旭は言った。

「今度、帰るよ」

「ほんと?」

「うん…、正月に」

「ほんと?」

 千紘が泣きそうな顔をした。

 もう大丈夫だ。

「じゃあ、俺も」

 一緒に帰ると旭に言った穂高に、千紘はキッと顔を向けた。

「いいけど、あんたの布団なんてありませんから」

 チッと穂高が舌打ちを返した。

 


 見送ったその足で警察署に出向き、被害届を出した。煩雑な手続きを終えて穂高のアパートに戻ったのは、もう日も暮れたころだった。

 あ、と旭は声を上げた。

「アキ、仕事は?」 

「休みにした」

「え、だって昨日も──」

 上着を脱ぎながら穂高は何でもないという顔をした。

「普段文句言わずに仕事してんだから二日ぐらい大丈夫だろ」

 そういえばホテルで電話を掛けに行っていたと、旭は思い出した。あれは灰庭に連絡をしに行っていたのか。

 夕食を穂高が作り、ふたりでそれを食べた。

 原口から電話があった。

 そういえばメッセージをもらっていたのを忘れていた。

 原口は村上のことを話した。村上の口から吉沢の名前が出たので気をつけろと言われ、旭は昨夜のことを打ち明けた。誰かから聞く前に、原口には自分の口から話しておきたかった。

『ハア⁈』

 マジかよ、と原口は怒りの籠る声で唸った。

『しんっじらんねえ…!』

「さっき被害届出してきたから、明日には会社に知れることになると思うよ」 

 分かった、と原口は憤慨が抑えきれない様子で頷いた。

『おまえ、大丈夫か?』

「ああ、平気だよ。大丈夫だから」

『そっか…あ、水曜に来るのか?』

「うん、予定が変わらなければ」

『分かった。じゃあ終わったら、お互いお疲れってことで、お茶でもしようぜ』

 その言い方に旭は笑った。

「うん、じゃあまた」

 電話を終えて、シャワーを浴びた。夜は深く、濃い藍色をしている。

 浴室を出ると、脱衣所に穂高が立っていた。

「…え、なに?」

「濡れなかったか?」

 大きなバスタオルで包まれる。濡れないようにとギプスやテーピングを覆っていたビニールを外された。

 旭は苦笑した。

「大丈夫だよ?」

 穂高の目が、まだ濡れている旭の体に点々と散らばる傷を辿っていく。つねり上げられた胸のあちこちが赤く内出血を起こし、腫れていた。

 バスタオルの隙間から覗く腰の上あたりで視線が止まった。

 指がそこに触れてくる。

「そのうち消えるよ」

 穂高の眉間に深く寄った皺に旭は手を伸ばした。そんな顔をして欲しくない。

 それならばいっそ、穂高に消して欲しいと思った。

「…智明」

 目が合った。穂高の後頭部を引き寄せて口づけた瞬間、旭は穂高に抱き上げられていた。


***


 柔らかな脇腹には、吉沢に噛みつかれた痕が赤黒く残っている。

 酷くくっきりとした歯形、食いちぎらんばかりにされたのだと、ひと目でわかる。

 どれだけ、痛かったか。

「くそ…っ、もっと…おれがもっと──」

 もっと早くに着いていれば。

「あ…、あっ、アキ…っ」

 傷痕を穂高は舐めた。ベッドのシーツの上で、旭が身を捩る。逃げようとする体を腰を掴んで引き戻した。

「やだ、なめ、舐めるの、や、…っ」

 旭の声が掠れる。構わずに何度も、舐め溶かすように傷痕を辿った。唾液が脇腹を伝い落ちる。

「は、あ、…アキ、き…っ、あ」

「痛い?」

 旭は堪えきれないように、視線を逸らしたまま泣きそうな顔をした。

「いた…あ、い、あ…っ、も」

 わずかに首を振って、穂高の髪を掴んでそこから引き剥がそうとする。男にしては細くすらりとした指の感触に、穂高は煽られ、きつく内出血した皮膚を吸い上げた。あ、と旭が甲高い声を上げる。

「も、や、やあっ、アキ、アキい…っ、だめ、だめ」

「駄目じゃない…旭、消して欲しいって言っただろ」

 旭が荒い息を繰り返した。

「…けど」

 唇を噛み締める。口に出して言わなかったのに。

 どうして──

「じゃあ逃げるな」

「あ…!」

 穂高は赤黒い肌の上を何度も甘く噛みながら吸った。赤い痕が重なって、覆い尽くしていく。

 あ、あ、と旭は声を上げ続けた。たまらない。ぞくっと穂高の背筋を走る──何か。

「んん、うっ…、ん、んんん…っ」

 泣き声を奪うように口づける。とろりとした舌を絡め合って、口の中を貪った。上顎を抉り、旭の舌を噛んで、唾液を流し込む。こくん、と旭の喉が小さく鳴り、穂高は唇を解いた。

 サイドライトだけのぼんやりとした明かりの中で、上気した旭の頬が赤く浮かび上がる。涙の浮かんだ目が、蕩けたようになっていた。

「もう消えた、俺のだけだ」

 うん、と旭が頷いた。

「旭、好きだ」

 旭の頬を涙が伝う。

「旭、名前、呼んで、俺の」

「…ち、ちあ、き、ちあき、智明…っ」

「もっと」

「ちあ──」

 名前を呼ばれるたびに胸が締め付けられる。苦しい。苦しくて苦しくて、泣きだしそうなほどの愛しさが込み上げてくる。

 止まらない。

 旭が、旭だけだ。

 旭だけが──

 こんなにも欲しい。

 噴き出した汗がこめかみを伝う。

 穂高は自分が泣いているのに気がつかなかった、

 汗も涙も、一緒になって旭の頬に落ちていく。

「ち、あき」

 薄く旭が目を開ける。

「好き…すきだよ、ちあき」

 旭がふっと微笑んだ。

「俺は、ちあき、だけ…」

「──」

 どく、と心臓が爆ぜた。

 好きだという思いが溢れて、止まらなかった。汗の浮く旭の首筋に顔を埋めると、目頭を涙が濡らした。

 自分が泣いていると、穂高は気がついた。

 長すぎるほどに長く、旭を今も好きでいる。

 千紘に否定され、旭を思って押し殺してきた気持ち。

 硬い殻の中に詰め込んで、どうすることも出来ずに胸の奥に抱えたままだった。

 ようやくそれを、心ごと解放できた気がした。

「…ちあき」

 旭が穂高の髪を撫でた。かすかに笑った気配がして穂高が顔を上げると、旭は微笑んだまま、緩やかな眠りの中に落ちていた。


***


 いつも通る道の公園にその人はいた。

 小さな遊具とすべり台、それだけの公園だ。ベンチがひとつあって、大抵はそこに座っていた。

 それは暑い夏の日だった。

 学校の帰り道。

 なにしてるの、と言ったら、絵を描いているんだよ、と言った。ここから近い大学に通っていて、今はお休みで、建物の勉強をしていると教えてくれた。

『いろんな家を見て参考にしてるんだ。ほら、あの家は屋根がちょっと変わってて面白いし』

『ふうん』

『もう暗くなるから家に帰りなよ』

 黙っていると、じゃあもう少し一緒にいる? と聞かれて、頷いた。白いノートの端にはたくさんの数字が書いてある。暗号みたいで不思議だった。覗き込んでじっと見ていると、その人はこれはゲームなんだと笑った。

『ゲーム?』

『こうやって、数字を当てはめていく…横と縦、1から9の数字を──』

 教えてもらった通りに夢中になってやっていると、日が暮れて、さよならを言って別れた。別れ際にくれた小さな冊子は、やりかけのそのパズルの問題集だった。

『あげるよ。家でやりな』

『え、いいの?』

『いっぱい持ってるんだ』

『…ありがとう』

『またな』

『うん』

 知らない人から物をもらわないようにと言われていたけれど、どうしてか、それを胸に抱えて帰った。

 笑って手を振ってくれた。

 同じように振り返す。

 そう、きっかけはほんの些細なこと。そんなふうにしてはじまったのだ。

 あの人は優しかった。

 とても優しい人だったのに。

『あ、あーちゃん!』

 家が見えてきたころ、向こうから駆けてくるアキの姿があった。

『あーちゃんどこ行ってたんだよっ、探したんだよ! 今帰って来たの?』

『あ…、うん』

 背負っているランドセルを見られて、気まずくなった。

『寄り道しちゃだめだよ』

『だって…』

 家に帰ったって、誰もいないし。

 それに今日はちーちゃんもアキも習い事で一緒に帰れなかった。遊べないのも分かっていたから。

『あのね、おかーさんがカレー作ったから、あーちゃん呼んでこいって』

『えっ、ほんと?』

 ぱっ、と心の中に火が灯ったように明るくなる。うん、とアキが笑う。

『おばちゃんにも連絡してるって、もう帰ってくるよ』

『うんっ』

 嬉しい。

 行こう、と差し出された手を握りしめた。

 アキが笑って手を握り返してくれた。

 遠く、それは懐かしい夢だ。


 まどろみの中から目が覚めると、ベッドの中にいた。

 いつのまに眠ってしまったのか。

 右手が温かい。

 旭は穂高と手を繋いでいた。ぼんやりと残っている夢の余韻がそこにあった。そのまま、まだ朝早い乳白色の光の中で眠る穂高の顔を見ていた。

 しばらくそうしてから、ゆっくりと指を解いて、穂高を起こさないようにベッドを出た。

 あちこち体が軋むように痛んで、昨夜のことを思い出す。かあ、と頬が熱くなった。

 着た覚えのない、大きすぎるパジャマのズボンの裾は引きずるほどだ。たくし上げてそろそろと歩く。

 リビングは綺麗に片づけられていた。

 まるで一昨日のことが夢であったかのように、何もかもが元の場所に戻っていた。

「……」

 水を飲もうとキッチンに行くと、シンクの横に古びたキーホルダーと、スプレーが置いてあった。スプレーは灰庭に貰った防犯用のものだ。出入りの業者から提供されたものを旭にと分けてくれたのだ。

『最近は物騒だからさ、旭さん、ちゃんとそれ持っておいてね』

 智明が心配するよ、と言われて苦笑したのだ。

 あのときはまさかこんなに早く使うことになるとは思いもしなかった。

 灰庭にはお礼を言わないと──昨夜も自分のせいで穂高が店を休んでしまったのだから。

 スプレーの横のキーホルダーを手に取った。

 丸いガラスの中に閉じ込められた石の欠片。

 古びてくすみ、汚れているそれは、ずっと昔、あの大学生に貰ったものだった。そのことを、旭は今まで誰にも言ったことはない。

『これあげる。前、研修でドイツに行ったんだ。昔大きな壁があってさ、そこで拾った石。僕が閉じ込めたんだ』

 なんで? と聞いた。

『だって、好きだからだよ。好きなものは閉じ込めないと。失くしちゃう』

 冷たいガラスの感触。

「……」

 久しぶりに見た夢の中の彼は笑っていた。

 優しい人だった。

 ある日突然変わってしまったのだ。

 面影はそのままなのに、怖い目をしていた。

 怖くて怖くて逃げ続けた。

 誰にも言えなくて黙っていた。やがて限界を迎えた。そのあとのことは嵐の中に放り出されたようだった。

 しばらく経ってから、彼はどこかに行ってしまったと母親に聞かされた。その言葉の意味を知ったのは後になってから。もう二度と会えないのだと分かった。

 どうしてあんなことをしたのか、その理由を最後まで聞けなかった。本当はずっと、今でも彼のことを嫌いになり切れていない自分がいる。人の心は複雑だ。憎しみも愛しさも親愛も悲しみも、すべてがごちゃまぜになってその形を成している。

 怖かったのも事実だ。でも優しくしてもらったのも本当だった。ひとりの家に帰る途中に彼の姿を見て、ひとりではないと思うばかりだった。だから、貰ったキーホルダーをお守りのように、あるいは戒めのように持ち歩いていた。忘れないでいようと、ただ──それだけだった。

 彼の顔は今ではもうおぼろげにしか思い出せない。

 白い靄のようだ。

 ふと吉沢の顔が重なる。

 旭は首を振ってその幻を追い払った。

 終わりにしよう。

 ぎゅっとキーホルダーを握りしめた。旭は足を引きずって歩き、隅に置かれているごみ箱の中にそっとそれを捨てた。


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