20


 あの男を見ただけで分かった。

 どうしてだろう。

 どうしていつも、旭ばかりが。

「あさひ、旭…!」

 千紘はドアを叩き続けた。

 誰も、誰も来ない。

 助けて欲しいときには誰も来ない。本当に必要なときには、誰も。

 誰もいないものなのだ。

 だから自分がやる。自分たちが、今度こそ旭を助けてみせる。

『もしも…』

 弟の言っていた言葉を思い出し、千紘は暗がりの中、辺りを見回した。



 ドン、ドン、と叩き続けられる玄関に目を向けて、吉沢は鬱陶し気に顔を顰めた。

「…るっせえなあ…、あの女、旭の何?」

 カチャカチャとぶら下がるチェーンが音を立てる。

 壁伝いに廊下を後退りながら、旭は吉沢を睨みつけた。

「おまえに関係ないだろ…!」

「ええ、なんで? 教えてよ、知りたいんだからさ」

 吉沢はにやにやと笑いながら、旭の動きに合わせてじりじりと間合いを詰めていた。土足のまま廊下を歩き、旭の足から脱げてしまったサンダルを踏み潰す。がたん、と旭の背がリビングと廊下の境のドアに当たった。開け放したままだったそこからはリビングの中は丸見えだ。

「結構可愛かったな、なんて名前?」

 言いざまに吉沢は旭の胸を掴んで壁から剥がし、リビングの中に突き飛ばした。

「…っ!」

 肩から激しく床に打ち付けられる。とっさに右腕を庇って倒れ込んだ旭の傍にしゃがみ込み、吉沢はにこりと笑った。

「って言ってもオレ、女の子には全然興味ないんだけどさ」

「…やめろ!」

 伸びてきた手を旭は振り払った。身を乗り出してきた吉沢から、尻をついたまま床を蹴って後退った。

「逃げるなよ」

 腕を取られ、引き戻されそうになる。旭は片足で踏ん張った。

「嫌だ、なんで、なんでこんなことするんだ! なんで課長まで巻き込んで…!」

「そんなの好きだからだろ? オレは旭がすごく好きなの」

「──」

 好き?

「好きだから、旭を苦しめてるやつを懲らしめたんじゃん? あいつこれでお終いだよ。いい気味だし。ついでに旭もさ、これはお仕置きなんだよ?」

「…っ」

「オレがいるのに他の男と遊んでさ、許せるかよ」

 肩を掴まれ、旭は押し倒された。

「やめ、吉沢!」

 のしかかられて旭はもがいた。掴まれた左手をめちゃくちゃに振り回す。動く右足で吉沢の体を押し戻そうと蹴りつける。暴れる旭に吉沢は舌打ちをした。

「なあ暴れんなよ」

「いやだ、やめっ、やだ、嫌だ!」

「っう!」

 旭の足が吉沢の鳩尾に入り、覆い被さっていた体が浮いた。その隙に旭は吉沢の体の下から這い出ようとした。

「──」

 尻に何か固いものが当たる感触があった。ポケットの中、そうだ。

 ──これは。

 はっとした瞬間、ぱん、と頬を張られて旭は衝撃にくらりとした。体が倒れ込む。一瞬意識が途切れた気がした。

「いってえな…旭はオレのもんだろ? なんで抵抗すんの?」

 じん、と頬が痺れていた。床に突っ伏したまま、旭は暗がりの中の吉沢を見上げた。

「そんなに可愛いのに、暴れたら駄目だろ?」

 自分で殴った旭の頬を吉沢は撫でた。熱い手だ。でも、見下ろす目は恐ろしいほどに冷たかった。背中を汗が伝い落ちる。

 落ち着け、と旭は自分に言い聞かせた。

 大丈夫。

 きっと大丈夫だから。

 顔を上げろ。

 吉沢が着ていたジャケットを脱ぎ落した。

「ああ、可愛いな、旭」

 陶酔した声で吉沢が笑う。

 その手が旭の着ているセーターを掴んだ。旭はゆっくりと近づいてくる吉沢の顔を見つめ、ポケットに手を入れた。



 暗がりに目を凝らす。穂高が言っていた通り、小さな鍵が玄関脇のひび割れの中に入っていた。明かりになる携帯は、穂高との電話の後に充電が切れてしまった。こんなときに。予備のバッテリーを持ってこなかったことを悔やみながら、千紘は通路の明かりだけを頼りに爪先でそれを掻きだした。

 郵便受けの鍵だ。

 千紘はそれを握りしめて階段を駆け下りた。部屋番号が割り振られたポストを開ける。腕を入れ中を探ると、指先に手ごたえを感じた。ポストの上のほうに貼りつけられているものを引き剥がして掴み出す。鍵だ。部屋のスペアキー。これで中に入れる。チェーンを掛けられていてはどうしようもないが、やるしかない。それを持って千紘はまた階段を上がろうとした。

「あっ、すみません」

「いえ」

 階段への出入口で人とぶつかりそうになり慌てて頭を下げた。そういえばさっきもすれ違った人だった。

「あのっ」

 千紘はとっさにその人に声を掛けた。

 振り向いたのは髪を短くカットした女性だった。

「はい?」

 穂高が来るまであとどれくらいだろうか。もしも間に合わなかったら──

 考えたくはない。けれどそのときのために、祈るように千紘はその人に話をした。



 窓の外は暗い。明かりのない部屋の中で、旭を見下ろす吉沢の目だけが濡れたように光っていた。

 焦らすようにセーターをたくし上げられ、胸をまさぐられる。這い上がってくる悪寒を旭は歯を食いしばって堪えた。

「う…、っ」

「声出せよ、気持ちいいだろ?」

「うう、…!」

「あいつともうやっちゃったんだろ? どんなふうにしたの? オレのもんなのにさあ…他の男とやるなんて許さねえよ」

「だ、れがおまえのもの、だ…! 俺は…、ッア──」

 指先で容赦なく胸をつねり上げられて、脇腹に噛みつかれた。旭は痛む右腕で吉沢の肩をむちゃくちゃに押した。

「い、あ、やめっ、やめ! 嫌だ! いた…い…っ」

 もがく旭を見て、喉の奥で低く吉沢が嘲るように笑う。

「お仕置きだもん。痛くなきゃダメだろ」

 身勝手な口ぶりに怖気が走る。痛みに痺れ、力の入らない指先で吉沢の肩に爪を立てた。そうしながら、左手を自分の背に回して指先で探った。

 吉沢は気づかない。

 そうだ。このまま──このまま気づくな。

「はは、いいねえ」

 拙い抵抗さえ煽るのか、吉沢は息を荒くして熱に浮かされた目で旭を舐めるように見つめた。

 優しげだった顔はもうどこにもない。ひどく醜く歪んでいる。これがきっと本来の吉沢だ。

 赤い舌が薄く開いた口の端から覗いた。

「やば、なにその顔…死ぬほど可愛い」

 背けていた顔を舐められて、顎を掴まれて引き戻される。

「…う、ぐ…!」

 顔が、近づいてくる。

 固く閉じていた目を薄く開く。旭はそのときを待った。

 吉沢が目を閉じた。

 その瞬間、旭は背中に隠していた左手を引き出した。

「あ、ぎああっ!」

 吉沢の頬を旭の拳が掠めた。握り込んだ指の間からキーホルダーの留め具が突き出ていた。柔らかなものを引き裂く感触があった。吉沢の頬に斜めに赤い線が走る。吉沢が叫び、仰け反った体が旭の上から退いた。その腹を目掛けて、旭は思い切り右足を蹴り上げた。

「俺はおまえのものじゃない…!」

「グ…、こ、のッ──」

 吉沢が体を折り曲げて顔を上げた。

 今だ。

 旭はキーホルダーを投げ捨てた。さらに握り込んでいた手の中から小さなスプレーを取り出し、震える両手で吉沢の顔に吹きつけた。

「アアアッ」

 まともに目に浴びせかけられ、吉沢が目を覆って蹲る。旭は床を蹴りつけてその体の下から抜け出した。

 ドン、ドン、と止んでいた音がまた聞こえてくる。千紘。

 千紘だ。

「ちひろ…っ」

 カチっと音がして玄関が開いた。

「旭!」

 通路の淡い明かりが廊下をさっと照らし出した。千紘の影が見える。膝をつき手で這って行こうとしたとき、左足を強く握り込まれた。

 捻り上げられ、激しい痛みが全身を駆け抜ける。

「──っ」

「ざ、ッけんなよこの、クソが! よくも…!」

「あさひ!」

 千紘が駆けてくる。駄目だ、と叫んだ声は声にならない。

 吉沢が仰向けに旭を引き倒し、馬乗りになった。抗う左腕を掴まれ床に押さえつけられる。ぐっとその手が喉にかかった。

「人の顔傷つけやがって!」

 痛みに霞む目に、玄関からの光を受けて、怒りに歪んだ形相の吉沢が浮かび上がる。拳が振り上げられた。

「やめて、やめて、旭に何すんのよ!」

 千紘、来ちゃだめだ。

 吉沢が舌打ちした。

「なんなんだおまえ」

「旭を離せ!」

「うるせえ、こいつはオレのもんだ!」

「違うっ!」

 腕に縋る千紘を吉沢が振り払う。小さく悲鳴を上げて千紘が床に倒れた。旭は自分の首を押さえる吉沢の手に爪を立てる。起き上がった千紘が吉沢に向かっていく。

「あんたじゃない! あんたなんかより智明のほうがよっぽどましよ!」

 千紘、千紘、もうやめて。

「どけっつってんだろ!」

 縋りつく千紘を吉沢が乱暴に突き飛ばした。壁に背中をぶつけ、小さく呻く声が聞こえた。

「ち、…ちゃ…」

「おまえはオレのもんだ」

 違う、違う、俺は物じゃない。

「お仕置きしてやるよ」

 誰か。

 誰か。

 智明。

 会いたいと願ったら、すぐに会えるような魔法が欲しい。助けてと思うときに、傍に誰かがいて欲しい。

 ひとりだったから、笑っていないといけなかった。悲しい顔をすると母親が余計に悲しんだ。

 だから笑っていた。

 いつもその言葉を呑みこんだ。

 いつだって本当は助けて欲しかった。

 いつだって。

 笑って、平気なふりをして。

 でももう。

「…けて」

 助けて。

 千紘を助けて。

 助けて。もう。

 もう嫌だ。こんなのはもう嫌だ。

 智明、と旭は呼んだ。

「たすけて、ちあ…き、ちあ…、智明…っ」

 吉沢が喚き散らしながら腕を振り下ろした。

 殴られる衝撃を予想して旭は歯を食いしばる。

 固く体を強張らせ、目をぎゅっと閉じた。

「──」

 けれど、それは訪れなかった。

 馬乗りになっていた吉沢の体がふっと消えた。

 鈍く肉を穿つ音に目を開けた。

「この──」

 大きな影に掴み上げられた吉沢が殴りつけられ、激しく座卓の上に倒れ込んだ。並べられていた皿が床に落ちる。旭のために穂高が作ってくれたものが散らばった。

「あ…」

「あさひっ…」

 飛びついて来た柔らかな体を受け止めた。

 旭は目を瞠った。

 吉沢を見下ろす穂高が、薄闇の中で荒い呼吸を繰り返していた。

 

***


 程なくして警官がやって来た。

 千紘が鍵を取り出したときにすれ違ったアパートの女性に頼んで呼んでもらったのだと言った。

 吉沢はパトカーの中に連れて行かれ、玄関の外では、穂高が警官に事情を説明していた。

 幸いなことに千紘はどこも怪我を負っていなかった。

「だ、…っ、だって、もう間に合わないと思って! 私だけじゃ駄目だから、智明もっ、あいつ絶対間に合わないって、思ったから!」

「うん」

 旭は警察なんて嫌だったかもしれないけど、と千紘は呟いた。

「でも、当然だから! 当たり前なんだからね! これは事件なんだよ、ごめんなさいで済まないんだからね! あんなの、あんなの…っ」

 床の上でへたり込み、しゃくり上げる肩を抱き寄せて、旭は千紘を抱き締めた。

「うん、分かってる。千紘、分かってるよ。ありがとう」

「うう…っ、あさひい…っ」

「ごめん…怖かったな、ごめんね」

 細い背中をゆっくりと擦る。

 旭のほうがずっと小さかったのに、今では千紘を腕の中に収められるほどになっている。逆転したのは、中学の終わりぐらいだったかな、とぼんやりと旭は思い出していた。

 千紘は子供のころから快活で男勝りな性格だった。男性不信も手伝ってか、可愛らしい見た目に反して男のように振る舞い、いつも何かを諦めて生きている旭を叱り飛ばし、励ましてくれた。間に二軒を挟んで斜め向かいの家、玄関を出れば、すぐそこが穂高家だった。小さな地域の同じ町内、小学校からそのまま上がる中学はもちろん、高校も同じところに進んだ。地元を離れるまで──そして離れてからも、ずっと、いつもどこかで繋がっていると感じている。

 旭、と千紘が言った。

「こんなことがあっても、変わらないの…?」

 何のことを言っているのか旭には分かった。

「…うん、ごめん」

 旭の肩に顔を埋め、千紘は泣いている。

 どうして男なの、と小さな声がする。

 うん、と旭は頷いた。

 どうしてだろう。

「…どうしてかな」

 小さな背中を撫でた。

「ちゃんと、旭は、女の子を好きにならないとダメでしょお…」

「うん」

 小さくて柔らかな体。鼻先をくすぐるふわふわとした髪。腕の中、少し力を入れただけで折れてしまいそうだ。怪我がなくて本当によかった。

 強くて、優しい千紘。

 こんなふうに抱き締めるのは、はじめてだった。

「でも俺は、ちゃんと智明が好きだよ」

 ひく、としゃくり上げる肩を宥める。

 女性が嫌いなわけでもない。好みの人を見かけたら胸がときめいたりもする。

 千紘は好きだ。

 愛おしい、でもそこまでだ。

 彼女を、別の誰かを、欲しいとは思えない。

 ずっと一緒にいたのに、いわゆる男女の恋愛関係にならなかったのは、お互いに長く傍にいすぎたからだと旭はそう思っていた。

 でも、それは違っていた。

 はじめから違っていたのだ。

 ふたりの間にはいつも穂高がいて、ずっと傍にいる千紘よりも、離れてしまった穂高ばかりを、きっといつも、旭は無意識に探していた。 

 欲しいのはたったひとりだけだ。

「智明だけが好きだよ」

「も…」

 もういい、と千紘が呟いた。

「やめてよ…! あんなやつのどこがいいのよ、信じらんない、死ぬほど恥ずかしいから」

「ははっ」

 旭は打たれた頬を千紘の髪に埋めた。熱を持った肌が少し冷たい髪に冷やされる。気持ちがいい。

 旭は思い出して、小さく笑った。

「でもさっき、ちゃんと認めてたよ?」

「…………」

 吉沢に千紘が言い放った言葉。

『あんたなんかより智明のほうがよっぽど──』

「…あれは、不可抗力よっ」

 不貞腐れたような声で千紘が言って、声を上げて旭は笑った。


***


 待ち合わせ場所に辿り着いた原口は、軽く松井に手を上げた。繁華街にほど近いビルの前だ。大きなエキシビジョンがあり目印になるので、少し広い遊歩道の周りにはたくさんの待ち合わせの人がいた。

「お疲れさん」

 松井が笑いを含んだ声でそう言うと、原口は大袈裟にため息をついて見せた。

「あーほんと、死ぬほど疲れましたよー」

「災難だったなあ」

「災難災難、とんだ厄日ですよ…あ、こっち」

 行き先を松井に促しながら原口は顔を顰めた。

 時間が遅くなってしまったので、結局は軽く飲もうということになったのだった。

「ちゃんと聞こえてましたあ?」

「勿論。録音もしてる」

「さすが」

「まあこれで言い逃れは出来ないだろうな」

「ですねえ」

 村上に声を掛ける前、原口は松井にメッセージを送り、通話状態にしたまま携帯をポケットに仕舞っていた。

 メッセージを受け取った松井は会話の一部始終を録音することに成功したようだ。村上はあの後生気を失ったような顔で、駆けつけた警備員に連れて行かれ、警備室から呼び出しを受けた上部の人間に引き渡されていた。原口としてはあのまま帰してもよかったのだが、思い詰めた挙句思いもよらない行動をされないとも限らないので、各所に連絡を入れ事後を見届けるはめになってしまった。やれやれ、とため息をこぼす。

 どこか複雑な思いが胸に残る。

 やりきれない気持ちだった。

「で? 西森にはちゃんと連絡したのか?」

 あっ、と原口は声を上げた。

「そうだった!」

 話の中で村上の口から吉沢の名前が出たことを旭に伝えていなかったと原口は慌てた。急いで旭の携帯に掛ける。まさかあんなことになっていたとは思いもしなかった。昨夜吉沢が旭の今いる場所の近くにいたことも、併せて知らせておかなければ。

 あいつは危険だ。用心するように言わないと。

「あれ? 出ない」

 長い呼び出し音のあとに留守電サービスに繋がった。もう一度試すが同じだった。

「出ないのか?」

「うーん、出ないっすねえ」

「吉沢は西森に何の恨みがあったんだろうな」

「恨みねえ…」

 あれは恨みではない。きっと執着だ。もっと、いたって健全な松井が考えつかないようなたぐいの。

 はあ、と原口はため息をついてメッセージを送り携帯をポケットに仕舞った。…明日にするか。

 西森には穂高がついている。

 きっと一晩くらいは大丈夫だろう。

「西森はそんなやつじゃないだろ」

「当たり前でしょ、あっ、こっち」

 変なところを入ろうとする松井を原口は引っ張った。

「ここ曲がったとこです、女の子が死ぬほど可愛いって」

 本当は穂高の店に行きたかったけれど、あそこはまだ誰かに教える気には原口はなれなかった。あんな居心地のいい場所、当分、自分だけの隠れ家にするつもりだ。

「はあ? 女の子お?」

 松井には婚約者がいて、近く結婚するようだ。

 その婚約者がやきもち焼きなのでそういう店は嫌だと松井が言い出して、うう、と原口は唸った。旭が電話に出ないのも気になってしょうがない。

 それならばいっそ…

「じゃあ、もうこっち。いい店あるんで」

 原口は仕方なしとばかりに、今来た道を引き返すことにした。


***


 旭を病院に連れて行き、診察を受けている間に、穂高は千紘をホテルまで送って行った。千紘はどうやら家族と一緒に上京し、ホテルに夫と子供を残してここまで来ていたらしかった。普通そこまでするかと呆れかえった穂高に、だってしょうがないでしょ、と千紘は悪びれずに言った。

『旭にあんなこと聞かされて黙ってられないわよ、あんたのせいよ』

 診察が終わり会計を済ませて待合室で待っていると、病院の正面玄関にライトが当たり、車が滑りこんでくるのが見えた。穂高だった。旭は席を立ち、受付の人に会釈をすると玄関の自動ドアを出た。

「お疲れさま」

 穂高が渋い顔をしてわざわざ車を降りてきた。

「中で待ってろって言っただろ」

「うん、でも痛み止め打ってもらったから歩けるよ」

 助手席のドアを開けて旭を座らせると、穂高は運転席に乗り込んだ。

「お義兄さんと姪っ子はどうだった?」

 穂高は今日初めて千紘の夫と子供に会ったのだ。ちょうどいいから会わせてやると千紘が言ったとき、穂高は心底面倒くさそうな顔をしていた。

 はあ、と穂高はうんざりしたと言わんばかりに、深いため息をついた。

「子供は俺の顔見てギャン泣きしやがった」

「ははっ」

 想像出来て旭は笑った。

「…笑うなよ」

「可愛かったろ?」

 ゆっくりと車が走り出す。まあな、と穂高が呟いた。

「このまま、あいつに似ないことを祈るよ」

 ハンドルを握る穂高の横顔を旭は見つめた。

 通り過ぎていく外灯の明かりが柔らかく感じるのは、穂高の口元が口調のきつさとは裏腹に、かすかに笑っているからだ。

「千紘と仲直り出来てよかった」

 穂高の目が前を向いたまま、ほんの少し顰められた。

「腕と足は?」

「問題なかったよ。今晩は痛み止めしてても、また痛むかもって言われたけど…」

 そのまま沈黙が降りてきて、ふたりは黙り込んだ。

 やがて景色がアパートの近くになったとき、穂高が言った。

「…それで、どうするんだ?」

 うん、と旭は頷いた。

「届けを出すよ」

 警察からは、旭が訴えれば傷害か、もしくは暴行罪に問えるだろうと言われていた。その場で検分を済ませた警官がどうしますか、と言ったとき、旭は一日待ってもらえるだろうかと答えていた。

 どうすることが一番いいのか、穏便に済ますことを考えなかったわけではない。でも、もしもまた、同じような目に他の誰かが遭ったらと思うと、それはないという結論を旭は出していた。

 あんな思いを、もう他の誰にもして欲しくない。

「明日被害届を出すよ」

「そうか」

 ほっとしたように穂高が言った。



 アパートの入口で旭を下ろし、穂高はいつものように近くのコインパーキングに車を停めに行った。旭は先にエレベーターで上がり、渡された鍵で部屋のドアを開けた。

 リビングの明かりを点けた。落ち着きたくて、小さな間接照明だけにした。

 部屋はあのときのままだ。

 旭の携帯も、吉沢を傷つけたキーホルダーも小さなスプレーも、なにもかもが、そこらじゅうに落ちている。

 床に散らばったままの夕飯を、足に気をつけながらしゃがみ込んで落ちていた皿の上に戻していった。

 穂高が旭のために作ってくれたものだ。

 もっと早くに食べておけばよかった。

 全部駄目になった。

 全部、駄目にしてしまった。

 あんなに美味しかったのに。

「何してるんだ? …旭?」

 いつの間にか戻ってきた穂高が後ろに立っていた。

 旭は振り向いた。

「これ…」

 とたんに、穂高の顔は水の中にいるようにぐにゃりとおぼろになった。

「…え?」

 温かいものが少し腫れた頬の上を流れていく感触に、旭は自分が泣いているのだと気づいた。

 ひく、と嗚咽が漏れだして、止まらなくなる。

 滲んだ視界に瞬くと、ぼたぼたと音を立てて涙が零れていった。

 もう駄目だ。

 旭はぐしゃりと顔を歪め、泣き顔を穂高に晒した。

「あ、あ…っ」

 口から零れる嗚咽ごと、ぎゅっと強く抱き締められる。

「ちあき、智明、い…! い、あ、アア…っ、あーっ」

「旭…、旭」

 大丈夫だ、と大きな手が髪を撫でてくる。

 どうしようもないほど旭は泣き声を上げた。

 子供みたいだと思った。

 でも止まらなくて。

 旭は幼い子供のように穂高の背にしがみついた。

「うう、うううっ、うーっ…」

「我慢するな旭、泣いていいから。もう、いいから」

 唇を噛み締めて堪えていると、穂高が旭の頬を両手で包んで囁いた。もう誰もいない。千紘も。ふたりだけだから。

「遅くなって悪かった」

「あ、あき、ちあっ、き、ちあき…っ」

「もっと──早くに、俺が」

 違う、とかぶりを振った。

「来て、くれた、智明が、来てくれたから…っ」

 ありがとう、と震える声で旭は言った。

「馬鹿、当たり前だ」

 怖かった。

 怖くて怖くてたまらなかった。

 来てくれてどれほど嬉しかったか。

 どれほど恋しかったか言葉にならない。

 今頃になって堰を切ったように、すべての感情が溢れてくる。

 あのときと同じだ。

 まるでなにもかもをやり直しているかのようだ。

 ひとつだけを変えて、記憶を塗り直していく。

 旭は助けてと言えた。

 たったそれだけでよかったのだ。

 押し殺して胸に仕舞っていたものが溶けだしていく。硬く纏った殻がぽろぽろと剥がれていく。誰にも見せたことのない心が剥き出しになる。

 穂高には見て欲しい。

 穂高にだけだ。穂高にだけ、無条件に差し出せる。なにもかもすべてを。柔らかくどこまでも頼りない自分を。

「旭」

 それを受け止めるように、涙でぐしゃぐしゃの旭の顔を穂高は何度も手のひらで拭い、抱き締めていた。

 あやすようにゆらゆらと体を揺すられる。

 涙の跡に口づけが落ちてくる。

「ん…」

 穂高が唇の端に溜まった涙を吸い上げた。

 優しく、繰り返される。

 優しくて、優しくて。

 欲しいと思った。

 もっとこっちに、来て欲しい。

「……」

 旭は顔を傾けてそれを追った。唇を触れ合わせそっと擦りつける。そして、貪るように深くキスをしていた。


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