18
闇の中で息が凍えるが、不思議と寒さを感じたことはない。
あいつが帰って来た。
いつもと同じ時刻。
窓の見える場所に立ち、そのときを待った。この建物は隣接している建物が近く、玄関側が見えにくくて困る。
「ちゃんと見えるようにしてくれないとさ…」
だからいつもこうしてベランダ側が見えるところにいなければならない。
やがて、長く明かりが灯ったままの窓に影が揺れた。
やっぱりそうだ。
毎日来ていた甲斐があった。
あとはどうやって、彼に出て来てもらうか──
もう少し。
ようやくこの苦労も報われるときが来るのだ。
***
カーテンから漏れる光の眩しさに、旭は目を開けた。
ぼんやりとした白い光が部屋に満ちている。朝だ。
目を凝らすと、眠る穂高の顔が目の前にあった。
安らかな呼吸。規則正しく上下に動く肩のライン。
昨夜は穂高の帰りを待っていた。
千紘から連絡があり、ここにいることを話したと伝えようと思っていた。
でもいつの間にか眠ってしまった。穂高が帰ってきたのにも気づかないほど。
あんなに眠りが浅かったのに。
「……」
ベッドに運ばれてキスをして、そのまままた眠ってしまったのだ。
旭は指先で穂高の唇に触れた。少しかさついていた。固く閉じた瞼の縁がうっすらと翳っている。
ここに来てから、穂高は旭の時間に合わせて食事を用意する。明け方に帰って来て、すぐにまた起きて──仮眠もとらずに。そして夕飯の用意までして、また仕事に出て行く。
…疲れてるよな。
起こさないように、旭はゆっくりと起き上がった。壁の時計は8時を指していた。
足音を忍ばせて寝室を出る。捻挫していた左足は体重をかけなければほとんど痛むことはなくなっていた。
コンロにケトルをかける。
起こさないようにそっと動く。
湯が沸くのを待ちながら、簡単なものくらいは作れるかもと思った。
目玉焼きなら出来るよな。
旭は左足を庇いながらしゃがみ、コンロ台の下の物入れを開いた。
綺麗に重ねられた鍋の上にフライパンが置かれている。穂高は何をするにも案外と几帳面だ。なんでも綺麗に片づけてある。旭はフライパンを取ろうと無意識に右腕を伸ばしてしまった。
「…いいっ、つ!」
持ち上げた途端、キリッとした痛みが突き抜けた。
はずみで手を離したフライパンが下の鍋の上に落ち、ガチャンと派手な音を立てた。静まり返った家中に響き渡る。しまった、またやってしまった。
起こしてしまったかも。
痺れた腕を抱え込んで、旭は息を殺した。じっと蹲る。
耳を澄ませて待った。
だが穂高が起き出す気配はない。
「はー…」
よかった。気がつかなかったんだ。
安堵の息を吐いて、体から力を抜いた。今度こそ左手で──
「旭」
「──っ」
びくっと飛び上がった旭の手から、さっきよりも派手な音を立ててフライパンが床に落ちた。
「おまえ…っ」
ゆっくりと振り返れば、仁王立ちになった穂高が険しい顔で旭を見下ろしていた。
「あ、アキ…っ、これは、あの」
抱え込んだ右腕を見て穂高の目が吊り上がる。
「この馬鹿が! 何にもするなって言っただろうが!」
「ごめん、でも」
穂高が膝をつき、大きな手が右腕を取った。
「何遍言えばわかるんだおまえは、見せてみろ」
「いやほんとに、だい…」
大丈夫、と言いかけて旭は言葉を飲み込んだ。ギプスの上からそっと擦る手のひらに息が止まる。長い前髪が乱れて目元に落ちている。
また余計な心配をさせてしまった。
「…ごめん」
カタカタとケトルが鳴り出す。
「なんで…、じっとしてられねえんだよ」
穂高は困ったような、どこか悔しそうな声で言った。
「…朝食ぐらいは、作ろうと思って。そうしたらアキはゆっくり寝てられるだろ?」
旭は穂高の目にかかる髪をそっと指先で払った。
「毎日、疲れてるのに。…自分で出来るよ。そんなに俺を甘やかさなくていいから」
これでもひとりでいるのは長いんだよ、と旭は笑った。
ゆっくりと抱き締められる。旭の肩の上で、深く穂高がため息をついた。
ごめん、と旭は言った。
「…痛みは?」
「ないよ、平気だから」
ぴたりと合わさった体から、穂高の体温が移ってくる。温もりが愛おしい。とくとくと胸越しに伝わる穂高の心臓の音は早かった。
俺の心配ばかりだ。
こんなにもアキは優しいのに、どうして千紘はあれほどまで嫌っているのだろう。
千紘に話してしまったことを、どうやってアキに言えばいいだろう。
穂高が顔を上げた。目が合って、近づく距離に旭は目を閉じた。唇が重なる。
「ん…」
深く這入ってくる。合わさった唇から零れた声も塞がれる。
もう少し──後で。
ことことと、静かな家の中に湯の沸く音だけが聞こえている。
***
休日の会社はしんとして、まるで打ち捨てられた城のようだ。
通りに面した大きなガラス窓から午後の日差しが入ってくる。ふあ、と原口は欠伸をした。午前中に来ようかと思ったが、結局は休みの遅寝という悪習慣から抜け出せずにぐずぐずとして、昼を過ぎてしまった。
エントランス脇の警備室の窓を叩いて、原口は中の警備員を振り向かせた。
「お疲れさまでーす」
顔を覗かせた警備員が窓を開けた。
「こんにちは。出勤ですか」
「ああ、まあそんなところです」
社員証を見せ、差し出されたボードに名前と部署を記入する。書いている欄の上にも何人か出勤してきている社員の名前があって、原口は苦笑した。
「日曜でもやっぱ皆仕事するねえ」
年配の警備員も軽く笑う。
「まあ、今日は割と少ないほうですよ」
「えー、そうなんすか」
残業ゼロだのなんだのと言っているが、そんなのは早く帰っても支障のない上層部が言っているだけで、下の現場はそうもいかない。その日に終われない仕事が溜まっていき、結局は週末の休日に片付けて帳尻を合わせるしかないのだ。
「じゃあまた退出するときにチェック入れてくださいね」
「はーい、了解です」
それじゃ、と言って原口はエレベーターへと向かい、上階のボタンを押した。
上昇していくエレベーターの中で今は村上に代わって課をまとめている松井に連絡を入れる。
西森の報告書を取りに来てます、とメッセージを送った。
すぐに既読になり了解と返ってくる。
課に着いてスペアキーでドアを開ける。自分の机に荷物を置き、預かってきた旭のデスクの鍵を取り出した。
かち、と軽い音がして引き出しが開く。綺麗に整頓された書類の中から、旭に言われた通りの封筒を探すべく、原口は指で紙を繰った。
遅い昼食を済ませ、DVDを取りに行くために穂高はいつもより早めに家を出ることにした。
旭の夕飯を用意して、手早く支度を済ませた。
「なあ、休みの日じゃ駄目なのか?」
振り返れば、旭がもの言いたげな目でこちらを見ていた。あまり休んでいないことを心配しているようだったが、元々短時間で熟睡できるタイプなので旭が思うほど辛さも感じず、全く問題はなかった。
「今日じゃなくても──予約してるんだし」
旭は予約した店舗に、しばらく取りに行けないと連絡を入れたようだ。予約の申し込みの半券も会社に置いたままで、あれば一緒に取ってきたが、それならば仕方がない。
それに、今はひとつで充分だと穂高は思った。
「いつでもいいだろ?」
一緒に観たいからだとは気恥ずかしくて穂高は言えなかった。
「仕事に行くついでに寄るだけだろ。それに休みの日は出たくないしな」
旭は困ったような顔をした。
「じゃあ行くから。鍵──」
背中を向けてドアに手を掛けた途端、ぐっと袖を引かれた。
驚いて穂高が振り返ると、旭も目を丸くして穂高を見上げていた。
「あ…」
その目が揺れる。戸惑っているように見えた。無意識に掴んでしまったのか。
穂高は眉を顰めた。
「旭…、どうした?」
「ごめ、なんでもない。なんかちょっと…俺変だね」
コートの袖を掴んでいた指が離れる。離れた指先が一瞬だけ宙をさまよった。
「いってらっしゃい」
手を下ろして、旭が微笑んだ。
穂高の中に、その手を握りしめたい衝動が込み上げてくる。
「…じゃあな」
けれど我慢して、玄関先に立つ旭の髪を撫でた。目元に軽く口づけて、穂高は家を出る。
鍵のかかる音を聞き、背を向けて歩き出した。
「お、これか…?」
原口の指が止まる。
書類のファイルの間に、A4サイズの封筒が押し込まれていた。社名だけが入ったそれに宛先はない。
引っ張り出して中を確かめてみる。クリアファイルに入れられた報告書が2枚──これだ。
「あったー、これかあ」
該当箇所が細かく書き出され、訂正された数字がずらりと並んでいる。村上が旭に資料の見直しをさせたとき、旭が見つけた間違いだ。見積書の中の数字と企画提案書、契約書類などの数字が、契約が進み取引が深くなるほどに微妙にずれていっていることが分かる。資材に含まれる含有量のデータもわずかに違う。
『ほら、服飾の生地はそれに含まれる素材の割合で価格も微妙に変動するから、改定があった場合は反映されるものなんだけど…全部どこかしらずれてたんだ。花村物産とはもう取引はしてないけど、変だと思って。監査では通ってるし、課長が途中で必要ないって言ったからそのまま──いれっぱなしにしてたんだけど』
電話で言っていた旭の言葉を思い出して、原口はじっと数字の羅列を目で追った。が、途中で笑って目を離した。なにがなんだか全く分からない。よくもまあ旭はこれを理解し、訂正までしたものだ。
「こりゃほんと、経理とかのほうが向いてるわ」
持って生まれたものなのだろう。
原口は携帯を取り出して報告書をカメラに収めた。松井に報告がてらメッセージに添付する。
「おーっ、はやー」
松井は携帯を握りしめたままででもいるのか、またすぐにメッセージは既読になり返事が届いた。
『ご苦労様、何か奢る』
その言葉の後に、最寄りの駅まで出てこいと続いていた。
やった、と呟いて原口は鞄に報告書を仕舞い、デスクを元通りにして課を出た。
出来たら飲みがいいけど時間まだ早いしなあ。
がたん、とどこかで音がした。
別の階だろうか。
警備室で書いたクリップボードには、他のフロアの部署に所属する社員の名前もあった。
片付けでもしてんの?
休日でも皆忙しいものだ。
エレベーターホールに向かう原口の足が止まった。
がたん、とまた音がした。
今度は分かった。音は同じフロアからしていると。
***
閉じてしまったドアに鍵を掛けて、旭は深くため息をついた。
「あーもう…」
結局穂高に言えなかった。
千紘に話してしまったことを。
廊下を歩き、リビングに戻る。座卓の上には穂高の用意してくれた夕飯がラップをかけられて置かれていた。
全部レンジで温められるものばかりだ。
座卓の傍にしゃがみ込んで旭はラップを少し捲り、皿の卵焼きを摘まんだ。
甘くて懐かしい味がする。
「…おんなじだ」
子供のころ、旭は時々穂高家で食事をしていた。旭の父親は早くに亡くなっており、息子を育てるために母は毎日仕事に明け暮れていた。帰るのも遅く、家の中にはいつも旭だけだった。あのころはまだ祖父とも暮らしていなかったから、ひとりのご飯は寂しくて、穂高家のみんなと食事をするのは本当に楽しかった。
『旭くん、ご飯食べてって! 今日お母さん遅いでしょ』
おおらかな穂高の母。
旭の母親とは歳も近くふたりはとても仲が良かった。母親が病に倒れ、死んでしまったときは旭の傍に寄り添ってくれていた。
今も気にかけてもらっている。
穂高の作るものは、おばさんと同じ味だ。
やはり家族なのだ。
千紘がどんなに嫌っていても、血は繋がっている。
帰って来たら、今度こそちゃんと話そう。
沈んでいた思い出から浮上して、旭はラップを綺麗に元に戻した。夕飯にはまだ早い。片付けでもしようと寝室に向かった。
ベッドを直し、本棚を整理した。元々穂高が荷物をあまり置いていないので散らかるもの自体がない。
クローゼットの取っ手には旭のスーツがかかっている。
病院からそのまま来て一度も家に帰らなかったので、旭の荷物はそのとき着ていたスーツとコート、仕事用の鞄だけだ。着替えだけでも取りに行くと再三言ったが、穂高に許してもらえず、ここの鍵も渡してもらえなかったので黙って取りに行くことも出来ず、毎日穂高の服を着て過ごしている。
もうすぐ1週間だ。
会社に復帰するのは木曜でいいと言われていた。だが前日に事情だけ聞き取りたいと人事の方から連絡をもらっていた。その日しか人事の都合がつかなかったとかで、体調がよければ出て来て欲しいとのことだった。
人事か…
面接のときにかなり笑われた記憶がそうさせるのか、旭は彼らは苦手だった。
解雇されることはないだろうが、減給か、それ相応の処分は覚悟しておいた方がいいかもしれない。旭は被害者ではあるが、何か揉め事が起こったとき、喧嘩両成敗とする習わしは未だ健在だ。
小さくため息を吐いて旭はスーツを手に取った。階段から落ちてそのままにしていたが、クリーニングに出した方がいいだろうか。
この辺にクリーニング屋さんあるかな?
「…あ、シャツ買わないと」
落ちたときに擦りむいた傷から滲んだ血が染みになり、落ちなかったので捨ててしまったのだ。もしもここから出社するのなら買いに行かなければならないだろう。
取りに行くって言ったら怒るだろうなあ。
そうだ、と旭は思いついた。
DVDを取りに行くついでに買ってきてもらえるだろうか。確か近くに専門店があったはずだ。
今ならまだ間に合うかも。
スーツを手にかけたまま、旭はリビングに携帯を取りに行こうとした。
「あ」
何かが床に落ちた。
スーツの内ポケットに入れていたものだ。逆さまに持ったので出て来てしまったようだ。あの古いキーホルダー、そして。
そうだ、これは灰庭がくれたもの──
『これちゃんと持っておいたほうがいいよ、旭さん。今は何があるか分かんないしさ』
そういえばずっと入れたままだった。すっかり忘れていたと旭は苦笑した。拾おうと屈みこむ。
指先がキーホルダーに触れたとき、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「──」
──ピンポーン。
鼓動が跳ね上がった。
一体誰が──来たというのか。
「ありがとうございましたー」
DVDを受け取り、店を出た穂高は時計を確認した。店に行くのにはまだ少し早い。思いのほか早く来過ぎてしまったようだ。もう店に向かってもいいが、仕込みは既に済ませてあるので、早くに行っても開店時間まで掃除くらいしかすることはないが。
夕暮れに染まりかけたの街中をぶらりと歩く。どうするかと、何気に見遣った先に見覚えのある店名を見つけ、穂高は足を向けた。
柔らかな色合いの服が並ぶ、落ち着いた店内。先週旭と待ち合わせていた日に入ったメンズブランドのショップだった。名の通ったところなのであちこちに店舗があるようだ。
休日とあって客は多かった。先日のように接客に付かれることもなく、他の客に混じって穂高はゆっくりと見て回る。
ガラスのショーケースが置かれている。
ガラスを留める腐食した真鍮にアンティークかと目を向け、ふと目が留まった。そこにあったものに自然と目が行き、穂高は苦笑した。同じブランドの店だ。あってもおかしくはない。
余程惹かれていたのか、それはあのとき見つけた手袋だった。やはりきっと旭に似合う。
穂高は店内を見渡して、手の空いている店員を探した。別の客の相手が終わった女性店員と目が合った。彼女はにこりと微笑んでこちらに近づいて来た。
何度もチャイムが鳴る。
リビングと廊下の境で旭は立ち尽くしてドアを見つめた。
誰だろう。
このアパートは夜の仕事をしている人ばかりだと穂高に聞かされていたので、勧誘などの訪問が来ることも滅多にないのだそうだ。たしかに、ここに来てから昼間にチャイムが鳴ったことは一度もなかった。
どうするか…
このまま放っておけば、いずれ帰って行く──
鳴り続けるチャイムが不安を煽る。
「──」
まさか…
ありえない想像が旭の中で膨らんでいく。
吉沢?
嫌な予感に心臓が捩じれたようになる。
あれから、何の連絡もない。
そんなわけない。
ここが、分かるわけがない。
ドン、とドアが叩かれた。
ドン、ドン、と続く。
ドアにぶら下がるチェーンが揺れ、カチャカチャと音を立てた。チェーンは掛けられない。穂高が帰ってくるから。
鍵はかけた──確かに。
かけたはずだ。
不安になった旭は、確かめようと玄関に近づいた。
「…この、っ、開けなさいって!」
ドアの向こうから聞こえてきた、覚えのある声に旭は目を瞠った。
「いるのは分かってんだからね! 開けろって言ってんでしょうが!」
まさか。
「智明!」
ドアノブを掴み旭は開けた。
開けてしまったそこに立っていたのは、紛れもなく、穂高の姉の千紘だった。
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