17



「…原口?」

 箸を運ぶ穂高の手が止まった。

「うん、ほら、俺の携帯に出てアキと話した人だよ。病院で会っただろ?」

 ああ、と穂高は頷いた。

 ほんの数日前のことなのに、もう随分経ったような気がする。

「今日店に行くみたいだから、この鍵を渡してもらいたいんだけど…いいかな」

 遅い朝食の皿の並んだ座卓の上に、旭は小さな鍵を置いた。

 怪訝そうに眉を顰めてそれを見る穂高に、旭は簡単に付け加える。

「俺のデスクの鍵。仕事で使う書類が入ってるんだけど、週明けに必要らしいから」

 ふうん、と穂高はその鍵に視線を落とし、じっと見つめた。

「鍵なんか渡して大丈夫なのか」

「え?」

 聞き返したが、穂高は黙々と食べ終わった皿を片付けだした。こちらを見ないのはわざとだろうか。

「原口は大丈夫だよ?」

 穂高が目を上げる。

「アキ、大丈夫だから」

「…ならいいけどな」

 穂高は不服そうに返事をした。

「うん」

「…何時ごろに来るんだ?」

「多分20時くらいじゃないかな」

 旭をじっと見つめてから、穂高は思い出したように言った。

「そういや、あいつから連絡は?」

 あいつ、と聞いて思い浮かぶのはひとりだ。

「あ…ないよ、何も」

 吉沢からは旭が怪我をした日からぱたりと連絡が途絶えていた。

 その前の日のことを思い出す。

 いたぶるような視線が、吊り上がった唇が、残像のように浮かび上がる。旭に向けられていた粘ついた執着はどうなったのだろう。飽きたのならそれでいい。

 けれど。

 沈黙は怖い。何もないことがかえって不安だった。

 人の思いは、そう簡単に消えるものだろうか。

 腹の底がひやりとした。

「本当か? 旭」

「うん。ほんと」

 そう答えた。けれど何かの予感のように、それはいつまでも旭の中から消えていかなかった。


***


 じゃあ行ってくる、と言って穂高は家を出た。

『ちゃんと俺が出たらすぐ鍵かけて。誰か来ても出るんじゃない』

 子供に言い含めるようにすると、旭は困ったように笑っていた。

『いってらっしゃい』

 それでも心配で、きちんと錠が下りる音を聞いてから玄関の前を離れるようにしている。大概だと思うけれど、それくらいしても落ち着かない気分になるのは何故なのか。

 相手が旭だから?

 きっとそうだ。

「……」

 出来ることなら仕事になんて行きたくはないが、こればかりは仕方がない。

 灰庭に今以上の借りを作るわけにはいかない。

 それに今日は旭の客が来ると言うし。

「行きたくねえな…」

 後ろ髪を引かれる思いで穂高は駅へと歩いた。

 


 原口がコンコードに姿を見せたのは、旭が言ったように20時を少し回ってからだった。

「どーも」

 入ってきた原口にすぐに穂高は気づけなかった。そう声を掛けられてああ、と思った。

「いらっしゃいませ。先日はどうも」

 場慣れしているのか臆することもなくカウンターに座り、原口はにこりと笑って穂高に軽く手を振った。

「西森元気?」

「はい。おかげさまで」

 そりゃよかった、と原口は言った。

「しっかし、すっげえいい店だねー」

 狭い店内を興味深げに原口は見渡した。その様子を穂高は眺める。そうだ、この人だったと、今はじめて原口の顔をしっかりと見た気がした。この間病院で忙しなく会ったときはろくに顔も見ず、話もほとんどしなかった。自分でもどうかと思うほど、あのときは旭しか見えてなかったのだ。

「な、ここ穂高くんの店?」

「まさか」

「違うの? すっげえ様になってるからてっきりそうだと思ったわ」

 人好きのする顔に、旭が彼と友人でいるのがなんとなく穂高は分かった気がした。

 どこか似ているのだ。原口は──自分の姉の千紘に。

 千紘か。

 胸に広がる苦い思いは隠して、穂高は言った。

「オーナーは別で、俺は雇われてるだけです。何飲みますか?」

「あー、ハイネケンある?」

「あります。食事は? もう済みましたか?」

「いやまだだけど…、えっ、ここ食事も出来んの?」

 店の外観と穂高の見た目からしてそうだと思われないのはよくあることだった。

 穂高は出来ますよ、と言った。

「簡単なものでよければ」

「ぜひお願いするわ」

 食い気味に原口が身を乗り出してきて、思わず穂高は声を出して笑みを零してしまった。



 穂高の用意してくれた夕飯を食べ、食器を流しに入れてしまったらもうすることはない。絶対に洗うなと言われていたので──いくらなんでもあんまりじゃないだろうか──水桶に浸すだけで済んでしまう。

 コーヒーが飲みたくて、旭はケトルに水を入れコンロに掛けた。右手でやりそうになるのを慌てて左に変える。朝、同じことをして失敗したのだ。繰り返してしまったら帰って来た穂高に何を言われるか分からない。

 心配してくれるのは嬉しい。でもちょっと過保護だと思い出して苦笑する。

 インスタントコーヒーをカップに入れて、沸いた湯を注いだ。

 マグカップをテーブルに置く。普段はほとんど観ないテレビを静けさに耐えかねてつけ、小さな声で流した。

 淡々とニュースを読み上げるキャスターの声が流れていく。

 ソファのひじ掛けに置いていた携帯が鳴った。

 手に取って、すぐに出た。

 千紘だった。

「はい」

『あ、旭? 遅くなったけどお菓子届いたよ、ありがとう』

 明るい声に旭の顔が自然と綻んだ。

 少し前の電話で約束していたものを、先日千紘宛に送っておいたのだ。

「うん、じいちゃんからも電話もらったよ。遅くなってごめん」

 何言ってんの、と千紘は声を上げた。

『仕事忙しいのに送ってくれたんじゃない、お母さんも貞さんも大喜びしてたよ。あ、うちの子にもありがとうね』

 千紘の声の後ろで小さな子がしきりに何かを言っているのが聞こえる。写真でしか見たことはないが女の子だ。

 かわいいな、と旭は笑った。

「何が好きか分からないから適当に選んだんだけど、大丈夫だった?」

『うん、全然大丈夫! 喜んで食べちゃって、あっという間になくなっちゃった。ほんとすごい食べるの、誰に似たんだか』

「ははっ」

 3年ほど前に千紘は結婚した。写真で見た相手は、縦にも横にもとても大きな熊のような人だった。丸っこい見た目と同じく、気持ちの優しい人だと聞かされていた。

 旭は、千紘の夫と小さな子供が送ったお菓子を食べているところを想像して笑った。

「喜んでもらえてよかったよ」

『ふふ、あっ、それでねえ、お母さんが旭にまた野菜送るって。荷物、夜なら受け取れるでしょ? 明日送るから日時指定していい?』

「あ──」

 いいよ、と言いかけて旭はやめた。

 少し考えて、千紘に切り出した。

「ごめん。今俺…家にいないんだよ」

『えっ、そうなの? 出張?』

「あ…違うんだ。ちょっと怪我して──」

『え?』

 すっと千紘の声のトーンが変わって、慌てて旭は付け加える。

「大丈夫、大したことじゃないんだけど、利き手が使えなくて。それで今…」

 友達の家にいる、という言葉を旭は呑み込んだ。

 それは本当のことだが、少し違っている。

 千紘に嘘はつきたくない。

 それに、隠すことなんて何もないのだ。

「今、──アキの家にいるんだ」

 千紘が息を呑んだ。

 沈黙が落ちる。

 やがてゆっくりとした口調で千紘が言った。

『旭、あいつに会ったの? あいつと一緒にいるの?』

 少し低い声。

「会ったよ。偶然こっちで再会したんだ」

 千紘の娘が弾んだ声でママ、と言っている。

 千紘は黙り込んだままだ。

「……」

 ずっと千紘にこのことを聞きたかった。

 旭は意を決して言った。

「千紘、…なんでそんなにアキを嫌うの? アキは──」

『旭』

 遮るように千紘が言った。

 あいつ、と小さく呟く声がした。

「千紘?」

『ごめん、またかける』

 そう言って千紘は通話を切ってしまった。



 穂高から鍵を受け取った原口は、確かに、と言って鞄の中にそれを仕舞った。目の前に出された皿に載ったキッシュをフォークで切り取って頬張る。

「んー俺こういうの普段食べないけど美味いもんだね」

「口に合ってよかったです」

 くすっと原口は笑った。

「その堅苦しい感じやめない? 俺らそんな歳違わないだろ、同級なんじゃねえのひょっとして」

 旭は就活時期に祖父が倒れたこともあって、1年遅れて就職をしていた。それで同期とくれば、原口が留年でもしていない限り旭と彼は学年がひとつ違うことになる。原口がひとつ下、穂高とは同級だ。

 ああ、と穂高は頷いた。

「でもここは店の中なので」

「ま、そりゃそうか」

 原口は笑ってグラスを空にした。

 次もまたハイネケンを頼み、おもむろに言った。

「コンコードって、アレなの? ラルフ・ワルド・エマーソン」

 穂高は目を瞠った。

「知ってたんですか」

「俺哲学専攻でさ」

 なるほど。人は見かけによらないものだと穂高は苦笑する。

「すべての壁は扉である、だろ」

 口の端で穂高は笑った。

 ビルとビルの間に壁を作り、それ自体を大きな扉に見立てて作ったのは灰庭だ。その哲学者のことは穂高はまるで知らなかったが、この店を見たとき、一瞬で惹きつけられたのを昨日のことのように覚えている。

 すべての壁は扉。

「コンコードはエマーソンの出身地だもんなあ」

「それに気づいたの、あんたで2人目だよ」

 ハイネケンを出しながら穂高は言った。

 原口はにやりと笑った。

「そ、俺はいつでも二番手なんだわ」


***


 穂高の店を出て原口は駅に向かった。

 繁華街を歩く足取りはふらつくこともない。ビール3杯くらいでは酔わない体質だった。

 週末の夜の人手は多い。人波を縫って、近くの地下鉄の入口を下りていく。改札を抜けホームへとまた下りた。

 電車がタイミングよく入って来た。

 ゆっくりと目の前に止まった車窓に自分の顔が映っていた。

 明日、会社に取りに行くか。一日でも早い方がいいし、それなら人目にもつかないだろう。

「西森の頼みは断れないわー」

 思わず独り言が出て、可笑しくなった。

 扉が開き、乗り込んで、原口はあ、と思った。

 連結部のガラスの向こう、隣の車両に知った顔があった。

 吉沢だ。

 あいつんち、この路線の真逆じゃん。

 もう夜も遅い。都心から離れるこの電車でどこに行くと言うのだろう。

「……」

 なぜか変な感じがした。

 ここのところ吉沢はよく西森のことを尋ねてくる。メールも電話も頻繁にかかってきて鬱陶しい。

 前からそうだ。吉沢はことあるごとに西森と話したいと言っていた。

 あの飲み会をすると言ったとき、吉沢に西森を呼んで欲しいと頼み込まれてどうにかセッティングをしたが、あのあと原口はふたりを会わせたことを後悔していた。

 本人は態度に出さないようにしていたが、西森は明らかに困惑していた。

 距離が近いのだ。

 普段来もしない課にまでやって来て…

 嫌な感じだ。

「…ふう」

 原口は吉沢がかろうじて見える位置に腰を下ろした。

 気づかれて、楽しかった穂高の店の余韻をぶち壊されたくはない。あいつにまた西森のことをしつこく聞かれるのはごめんだと思った。

 西森には穂高がいる。

 原口にとって西森は大事な親友だ。

 その大事な親友のことをべらべらと話すわけがない。

「面倒くせえやつ…」

 吉沢は原口の中で、すでに友人の枠から外れていた。

 やがて吉沢は先に降りていった。

 原口はその駅の名前を見て眉を顰めた。どこかで聞き覚えがあった。階段を上がっていく吉沢の姿を動き出した電車の中から見つめる。

 思い出した。

「──」

 西森が今いるのは、このあたりじゃなかっただろうか。

 嘘だろ。

 あいつまさか──


***


「…ただいま」

 玄関を開けると、廊下の先がほのかに明るかった。

 リビングの明かりが点いたままだ。穂高は靴を脱いでリビングに続くドアを開けた。

 間接照明をつけたまま、旭がソファの上で眠っていた。毛布にくるまって、体を子供のように小さく丸めている。

 なんで、こんなところで。

「……」

 ソファの下に本が落ちていた。あの映画のシナリオブックだ。寝室の本棚から持ってきたのか。

 そういえばDVDを予約していたのだ。

 明日取りに行こうと穂高は思った。少し早めに出ればいいだろう。

「…ん」

 傍に行くと、丸まった体が身じろいで、旭の目が薄く開いた。

「……アキ」

 ふわっとその顔が笑う。

 膝をついて穂高はその体を抱き寄せた。

「ちゃんとベッドで寝ろよ、風邪引くだろ」

「うん…」

 半分眠ったような旭の声が耳元をくすぐる。

 旭の右腕がぎこちなく背に回ってくる。左手が後を追うようにそっと穂高の背を撫でた。

「おかえり」

「…ただいま」

 旭の背を撫でる。しっとりとした温もりが心地いい。

 その体を抱き上げて、穂高は寝室への引き戸を開けた。ベッドにそっと旭を下ろす。誰にも見せたくはないというように穂高はその体を覆い尽くし、唇を奪った。

 


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