16


 長い間思いを押し隠していたからなのか、穂高は何をするにも旭に甘く、戸惑ってしまうほどに優しかった。

 右腕のひびは手首と肘の間の箇所で、簡易ギプスで固定されている。激しくは動かせないが、手首から先は無傷だ。案外自由が利くので食事をするのにもそう困ることはないのだが、医者に問題ないと言われたにも関わらず、利き手を極力動かすなと穂高に言われ、旭は箸を持たせてはもらえなかった。与えられたのはスプーンひとつきり。

 だが、スプーンだけでは食べられないものもある。

「口、開けろ」

 う、と向かい合わせに座ったリビングの床の上で旭は固まった。投げ出した左足がぴくっと震える。穂高のアパートに来て2日が経ったが、全く慣れる気がしない。

「アキ、あのさ…自分で食べられるから」

「そう言って昨日こぼしまくったのは誰だった?」

「う…、それは、…そうだけど」

 昨日の食事は慣れない左手でスプーンを持ってしまい、散々だった。結局は穂高に食べさせられたことを思い出して旭は口籠る。

「そうだけど?」

 目の前に差し出されたスパゲティは、綺麗にフォークに巻き取られていた。

 これ絶対、わざとだよな。

 フォークをくれれば出来るのにと、旭は軽く穂高を睨みつけた。

「…子供じゃないよ」

 それに、そんなに重症ってわけでもない。

「ふうん」

「……」

「旭、ほら」

 全然聞いてない。

 じとっと上目に見ると、普段は険しい顔の穂高が、ふっと表情を緩めた。切れ長の目尻が柔らかく下がって、そこに幼い穂高の面影が重なって──思わず見惚れてしまった旭は、薄く唇を開けた。

 その隙間にすかさず穂高がフォークの先を押し込んでくる。条件反射でフォークの先のスパゲティを噛み取ってしまった旭に、くっと穂高が口の端で笑った。

「ちょろいな」

「…っ」

 真っ赤になって旭は俯いた。口の中のものをもそもそと咀嚼する。美味しいけど、正直味なんてよく分からなかった。飲み込むと、それを見計らったようにまた穂高が皿の上のスパゲティをくるくると巻き取って──

「はい」

 なんで、こんな。

 恥ずかしすぎる。

 開けて、と言うように穂高がフォークの先で旭の唇をとんとん、と突いた。

 見れば頬杖をついた穂高は顰め面なのになんだか楽しそうに見えて──

「旭」

「……」

 まあいいか。旭は頬を赤くしたまま仕方なく口を開けた。


 

 昼夜が逆転している穂高の生活は、傍で見ている旭にはとても

大変そうに見えた。だが慣れてしまえばなんてことはないと、事もなげに穂高は言った。

「じゃあ、行ってくる」

「うん」

 夕方、出て行く穂高を旭は見送る。来週には復帰する旭が、穂高の生活サイクルに合わせることは出来ない。穂高が行ってしまったあとは、用意された食事を時間が来れば温め直して食べ、日付が変わる前に眠りにつく。明け方、玄関が開く音でうっすらと目が覚める。旭の眠りは浅い方だ。冷たい空気と共にそっと動く足音が心地いい。起き上がれない。起きていると分かると穂高が心配をするので──実際一日目に起きて待っていたらひどく叱られたのだ──旭は気づかぬふりをしてまた目を閉じる。まどろんでいるといつのまにか穂高がベッドの中にいて、旭を抱え込むようにして静かな寝息を立てている。

 まるで、卵を孵すようだ。

 優しい腕が旭を抱いて、温めるように胸の中に抱え込む。

 大人になった穂高とこんなふうになるなんて、思いもしなかった。

 ひとりきりになった部屋は静かだ。

 窓の外はもう日が落ちていく。

 深い藍色の空、遠い向こうに小さな星が光っていた。

 旭の携帯が鳴る。

 誰からなのかきちんと確かめてから、旭はそれに出た。


***


 松井に呼ばれて原口がミーティングルームに入ったのは、終業時間が過ぎてからだった。

「しっつれいしまーす」

 呼ばれたのは自分ひとりだと分かっていたから、ノックもおざなりにしてドアを開けた。透明性を保つために廊下側の壁はすべてガラス窓になっているが、ブラインドは下りたままだった。だから原口は気がつかなかった。

「──っと、あれっ?」

 部屋の中には松井と、もうふたりの人影があった。

 よく見ればひとりは全く知らない人だが、もうひとりは原口もよく知る人だ。

「こら。もっと丁寧に入って来い」

 苦笑しながら松井が原口を窘める。

 松井の向かいに座っていたその人は、原口を振り向いて笑った。

「おう、久しぶりだな」

「落合さん!」

 破顔して原口は駆け寄った。


***


「いらっしゃいませ……?」

 店に入って来るなりにやりと顔を緩ませた灰庭に、穂高は怪訝な顔を向けた。どうせまたろくでもないことを考えているか、思いついたに違いない。

「ふーん」

 灰庭がにやにやと笑いながらカウンターの端に座る。席は奥からまばらに半分ほどが埋まっていた。

「何ですか、気持ち悪い」

 ふん、と鼻を鳴らして、灰庭はビール、と言った。

 灰庭がいつも好んで飲む銘柄を出して、穂高はビアグラスに注ぐ。ナッツの入ったアンティークのカフェオレボウルと共に、コースターを出してその上に置いた。

「どうぞ」

「あーいいね、いい塩梅。おまえちょっと上手くなった?」

 泡と琥珀色の液体の割合のことだ。今さらに褒められてもまるで嬉しくはないが、近くに座っている客の手前、にこりと愛想笑い丸出しの笑顔で穂高は会釈を返した。

「どうも」

 灰庭とスツールをひとつ開けた席に座っていた常連客が、ふっと笑う。彼は灰庭がこの店のオーナーだと知っている人だ。灰庭がこの場所にこの店を作ったときからの常連だった。

「穂高くん、最近調子いい?」

「…いつも通りですよ」

 そうかなあ、と男は穂高を見てグラスを傾ける。

「少し角が取れたみたいだけど」

「歳のせいでしょう」

 ナイフを動かしながら穂高が言うと、横から灰庭が身を乗り出して言った。

「どんな奴も幸せだと、どこかしら丸くなるもんだねえ」

「へえ」

 常連客が灰庭の言葉に眉を上げ、興味深そうに穂高を見やった。

「穂高くん、幸せなのか」

 ぴくっと引き攣った穂高の目尻を見て、灰庭がグラスに口をつけたままにやりと笑った。

「そうそう、こいつ今幸せの絶頂なんですよ」

 常連客ににこにこと灰庭は笑いかける。

「初恋の相手がやっと振り向いてくれたとかで」

「──」

 手が止まりそうになる。

 引き攣りそうになった顔を根性で引き戻す。

 言いながら一瞬こっちを向くのはやめてもらいたい。

「なあ?」

「どこのガセネタでしょうね」

 くそ、どっから情報を掴んできたんだ。

 面倒だから、旭のことは灰庭には一言も話してはいないのに。

「その話面白そうだな。ぜひ聞きたいけど」

「あのねー、こいつ…」

 とん、と出来上がった皿を、穂高は常連客と灰庭の間に置いた。

「鴨のテリーヌです。お好きでしたよね、鴨」

「ああ、鴨は大好物だよ」

「うわ、美味そう!」

 取り皿とフォークをそれぞれの前に並べる。

 皿を覗き込んでいた灰庭が声を上げた。

「おまえほんと上手くなったよなあ」

 嬉しそうにフォークを手に取るふたりに向かって、穂高は愛想笑いを返した。食べている間に忘れてくれることを願う。

 だがそうはいくまい。

「ん、美味い」

 さっさと帰れという思いを込めて、どうもと穂高は返した。



 松井からの電話の後、今度は原口から電話がかかってきた。

『具合どうだ?』

 22時を過ぎている。明日は土曜日で、自宅でくつろいでいる気配が電話越しにも伝わってきた。

「ああ、だいぶんいいよ。元々そんなに大した怪我でもなかったし、1週間も休んで申し訳ない感じかな」

『何言ってんだ。ひびが入ってるのは大した怪我だろ、俺は骨折したことねえからわかんねーけど、痛みに大きいも小さいもないもんだろ』

「そうだね、ありがとう」

 原口らしい言い方に旭は笑った。

「そっちは? 夕方松井さんから連絡あったけど、…ばたついてるって」

 まあな、と原口は言った。

『課長があんなことしでかしたんだからそれも当然だろ、上層部の査問が終わって、今自宅謹慎だよ。色々とやらかしてくれてるみたいでさ』

「そっか…」

 色々という部分の詳しいことを、旭は松井から夕方の電話で簡単に知らされていた。

 村上はどうやら取引先との間に発生する金の流れを、長い期間に渡って操作していたという嫌疑がかけられているようだった。端的に言えば横領だ。平が以前旭にこぼしていた村上の噂とはこのことだったのかと、松井から聞かされたとき、旭は妙に納得したのを覚えている。

 自分に向けられていた憎しみはどこから来たものか分からないが、揉め事を起こした後にこんなにも早く村上のしてきたことが次々と露呈したのは、薄々それを感づいていた会社側が裏で動いていたということだろう。旭とのことは、それを村上に突きつける絶好の機会だったに違いなかった。

 旭も来週の復帰前に、事情説明のために社に赴くことになっている。

 本来ならばすぐにでも、というところを待ってくれているのは旭が警察に届け出なかった事への謝意かもしれない──とは、松井が皮肉っぽく言っていたことだ。村上の起こしたことは事件であり、近く刑事告訴は免れないし、避けられない。事が世間に公になれば社のイメージは下がるだろう。

 さらに旭が村上から受けた暴力を訴え出れば──暴力に至る経緯も事細かに明るみに出て、そこに暴行罪などが加われば、イメージの悪化は歯止めなく落ちていくはずだ。会社のイメージダウンを少しでも回避したいと言う思惑が会社側にないなどとは、旭でも思わない。多くの社員を守るためにする選択は、誰かにとっては非情なものだとよく分かっていた。

 それに旭自身もそれ以上の罰を求めるつもりはなかった。

『ほんとに訴えないのかよ』

「ないよ、村上さんは罰を受けるだろ? それでいいよ」

『…ったく』

 甘いね、と原口が呟いた。怒ったような拗ねたような口ぶりに、旭を心配する気持ちも混じっていると気づいた。

「ごめん」

『だからー、謝んなよ。俺が悪いみたいだろお』

「はは、うん」

 電話の向こうでがさがさと音がして、何かを破いているようだった。聞いたことのある音に、旭はあれ、と思った。

「原口、今ご飯食べてるのか?」

『そーよ? 時間外で労働してたからさ』

 旭が請け負っていた仕事は課の人間で分担してくれていると聞いていた。それで遅くなったのかと、てっきりくつろいでいるのだろうと思っていた旭が謝ろうとすると、気配で察したのか、原口が違う違うと歌うように言った。

『時間外っつったろ? 松井さんに借り出されて、古い取引資料漁ってたんだよ。あの資料室初めて入ったけど割と狭いんだな』

 ぺり、と何かのパッケージを剥がす。

「取引資料?」

 うん、と原口は言った。一瞬声が遠くなり、戻って来る。

『あーなんつうの? ルート? 課長が前の部署で関わってた取引先とか承認したやつとか全部洗い出しててさ、人手が足りないって俺が呼ばれたんだよ。証言を本人が拒否ってるもんだから監査委員も告訴前に証拠掴まないといけねえわ、まだ内々の調査だわとかってあんまり大っぴらに動けないとかでさ。社員は皆分かってるっつーのに。…あ、それで落合さんも呼ばれてたんだぜ』

「落合さんが?」

 旭は目を丸くした。

『ほら…、落合さんが辞める時に引き継いだ案件、どこだったかなあ、ほら花、はな…』

「花村物産か?」

 ピン、と思い当たった社名を告げると、それっ、と原口が声を上げた。

『その花村物産がさ、見積もりデータ改ざんしてたって話が出たんだけど、よっぽど上手く隠したんだか全然その箇所が見つからなくて──』

 旭は原口の声を聞きながら考え込んだ。

 花村物産。

 課長が落合から村上に変わった後少ししてから取引を辞めてしまった会社だ。旭は直接その会社と関わったことがない。同族経営の会社、ワンマン経営の社長は中々に扱いが難しくクレームも頻繁だった。担当はいつも経験のある課長クラスが受け持っていた…

 ある日いきなり取引を打ち切ってきた。

 最近、その名をどこかで聞かなかったか?

 どこか──

 どこかで。

「──」

『西森? おーい?』

 はっとその声に旭は顔を上げた。

 そうか。

 聞いたんじゃない。

 見たのだ。

 この目で。

「原口」

『ん? 何? あっ、これ辛えやつじゃん! しまった!』

 どうやら食べようとしていたカップラーメンが思っていたのとは違うようだった。

『なんだよもー、俺辛いの無理だっつのに…』

 子供のような言い草に旭は噴き出した。

「チーズ入れたら?」

 チーズ、と原口が素っ頓狂な声を上げた。

『あーそんな高価なもんはうちにはねえの!』

 がさがさと音がして、麺を啜る音がする。

『うはっ…』

 辛い辛いと言う声が少し落ち着いたところで、旭はもう一度原口を呼んだ。

『何?』

「あのさ、頼みがあるんだけど…」

 と旭は切り出した。


***

 

 玄関の鍵を差し込んで、音が大きく響かないようにゆっくりと回す。ここのアパートの住人はほとんどが夜の仕事をしている者ばかりだ。コンコードに職を決め、家を捜しているときにたまたま入った不動産屋から、遅くに帰宅をしても誰もうるさいなどとは言って来ないだろうと言われて穂高はここに住むことを決めた。不動産屋が言っていたように、帰った深夜や明け方にシャワーを使っても誰も気にしていない。他の階から音がしても、同じように穂高も気にしなかった。

 ゆっくりと静かに開けるのは旭のためだった。生活サイクルの違う旭は今は眠っている。

「…ただいま」

 ひとりで暮らしていてもただいまと言うのは習慣だった。

 小さく呟いて穂高は玄関に入り、鍵を掛けた。チェーンを下ろし、靴を脱いで上がる。

 ほんの少しだけいつもよりも家の中が暖かいと感じるのは、気のせいだろうか。古いこのアパートは断熱が効かず、冬は凍えるほどに寒い。

 部屋の暗闇は外の外灯の明かりが入り込んで、薄まっていた。

 リビングの小さな座卓の上にメモ書きが置いてあった。

 おかえり、お疲れさま。

 旭の丁寧な字が見える。

 穂高はそれを手に取って、隣の部屋に続く引き戸を開けた。旭の丸まった背中がこちらを向いている。安らかな寝息。布団が肩の下まで落ちて寒そうだと思った。

 薄闇に浮かぶ、ほっそりとした首筋。

 上着を脱ぎ落し、ネクタイを引き抜いた。シャツの襟もとを忙しなく緩め靴下を放り投げて、穂高は布団に潜りこむ。

「…ん…」

 なめらかな旭の首筋を後ろから抱きしめたまま、触れるか触れないかのところでゆっくりと唇で辿った。下から上へ、上から下へ。大きなパジャマの襟ぐりから鎖骨が見えている。舐めたいという衝動に負けて、穂高は舌を這わせて味わった。

「あ…、ん…?」

 腕の中で旭が身じろぐ。肩を引き寄せて仰向けると、うっすらと瞼が開いた。

「…ちあき?」

「ただいま」

 舌足らずな声に溜まらず唇を貪る。んん、と旭が小さく呻いた。ギプスの巻かれた右腕をそっと掴んで高く上げさせて抵抗を封じると、細い足が抗議するように穂高の腰に巻きつく。

「んっ、あ…、んう…っ」

 胸を合わせて体を少し押し付けると、苦しさに旭が喘いだ。開いた唇の隙間にすかさず舌を捻じ込んで、穂高は旭の口を思うさま蹂躙した。

「や、あっあ、も、あ…んんっ、う、ちあ、き…!」

「旭、あさひ、…」

「んう、ひ、うぅ、…んんっ」

 旭の顔を狭い腕の中に囲い込んで口づける。口の端から呑み込みきれない唾液が滴って流れ落ちていく。それを舌先で掬っては、穂高は旭の口の中に戻した。押し込まれたそれを、こくりと旭が飲み下す。かすかに動く喉が堪らない。

「ン…っ」

 気持ちが止まらない。

 好きだ。

 好きで好きでどうしようもない。

 駄目だ。

 これ以上は今は出来ない。旭は怪我をしているのに、痛がらせたくはない。優しくしたい。けれど同時にひどくしたいとも思う。 

 自分だけしか見えないようにしてしまいたい。

 このままここに閉じ込めてしまいたい。

 予言めいた灰庭の言葉が浮かんでは消えていく。

「いあ、ち、…ちあ、智明」

 ほどけた唇で、智明、と旭が呼ぶ。

 赤く腫れた唇は濡れていた。

 指先で拭う。快感で涙の浮かんだ旭の目に、自分が映っていた。

 キスだけで上気した旭の頬に、穂高は自分の頬を擦りつけた。

「好きだ、旭、──好きだ」

「あ…っ」

 耳朶を食み、その下をきつく吸い上げた。

 旭の体が震えた。

「アキ…、あ、おれ、も…好き」

 穂高の背に旭の片手が回り、ぎゅっと握りしめた。

「すき…」

 好きだと言った旭の言葉ごと、穂高は呑み込むように口づけた。



 明かりのない窓を見上げる人影があった。

 薄く笑ったそのそばを、深夜の客を乗せたタクシーが通り越していく。

 サラリーマンがこんなところで何をしているんだろうな、という運転手の疑問は、やがてすぐに忘れ去られた。


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